其ノ二拾 ~事ノ後~
その身を黒い霧で覆い包む、鬼と化した琴音。青い光を宿した小刀を手にする千芹。
人知を超えた存在である二人は向かい合い、沈黙の中で互いを牽制しているようにも思えた。
首を絞められたせいで体の自由が効かず、一月はその様子を見ていることしかできない。居間に倒れ伏す母のもとへ駆け寄りたかったが、それも叶わない。
咳き込みながら、千芹へ呼びかける。
「ごほっ、逃げ、て……じゃないと君も……!」
千芹は一月に背中を見せたまま、
「大丈夫だよ」
そう即答した。鳥の鳴き声のように可憐だったが、強い意志も内包された声だった。
「わたしは、いつきを守るために来たんだから」
千芹に向けて、琴音はその手の平をかざした。
行く手を阻む邪魔者を見つめるその瞳は、眼前を飛び回る羽虫を見つめるように忌々し気な眼差しだった。
《邪魔を、するな……!》
一月より先に、行く手を阻む千芹を排除することを決したようだ。
彼女の手の平から放たれた黒霧が、全て千芹へと向かう。精霊であろうとも、捕まればただでは済まないに違いない。
しかし千芹はその場を動くこともなく、表情も変えずに、ただ小刀を振り抜いた。
可憐で、そして勇ましい声が発せられる。
「はああっ!」
小刀が黒霧を切り裂くと、火花が散るような音とともに青い閃光が炸裂する。
琴音の攻撃を防いだ千芹、だが彼女は小刀を下ろしはしない。目の前にいる鬼から、僅かも気を逸らしていない。
その後も、琴音は千芹に向けて黒霧を放ち続けた。しかし何度攻撃しようと、青い光を纏った小刀の一閃で蹴散らされていく。
琴音はらちが明かないと感じたのか、攻撃の手を一旦止めた。頃合いを見計らったかのように、千芹は小刀を目の前に掲げ、両目を閉じ、囁くように唱え始めた。
「尊しは命、忌むべきは鬼、情愛は力、力は心によりて力たり……!」
見えない風に吹かれるように、千芹の黒髪や和服が揺らぎ始める。
彼女は再び目を開き、
「我が先から鬼の穢れを払い除け給え……阿毘羅吽欠蘇婆訶!」
初めて耳にする真言が発せられたかと思うと、千芹の小さな体を青い光が覆い包み始めた。
彼女はそのまま、真正面から琴音に向かって駆け出す。
《ちっ……!》
危機を感じたのか、琴音は一際大きな黒霧を放った。
千芹の小さな体を覆いつくしてもなお、余るほどの大きさを有する黒霧――しかし千芹は躊躇の欠片もなく、それ目がけて突進する。
危ない、一月が思わずそう声に出しそうになった時、それは起きた。
「っ……!」
一月は、思わず息を呑んだ。
瀑布のごとく迫っていた黒霧の奔流が、千芹の身に触れた瞬間に消滅していったのだ。
どういうことなのか、と思った矢先に、一月は彼女が先程唱えたあの真言を思い出した。あれは恐らく、千芹自身に鬼を払う力を与える効果を有していたのだろう。
黒髪と白い和服をたなびかせながら、千芹は瞬く間に琴音に迫った。そして、小刀を振り抜く。
「はあっ!」
青い光を宿した刃の一閃は、琴音の胸へ的確に命中した。
耳を塞ぎたくなるような悲鳴が、琴音の口から発せられる。
《ギャアアアアアッ……!》
想い人であった少女の苦悶の顔を見ていられず、一月は視線を外した。
切り裂かれた部分を起点として、琴音の身が黒い煙のような物体に変じていく。その最中、断末魔の叫びのごとき絶叫が響き続けた。
琴音の胸が消え、足が消え、腕も消え、最後に顔だけが残る。
その時、琴音の視線が一月を捉えた。
《絶対に、赦さない……!》
「っ……!」
憎しみと殺意の念をぶつけられ、息を呑んだ。
琴音が完全に消滅した後にも、一月の頭の中で彼女の声が反響し続けていた。
(どうして……!)
何故、彼女が自分をこれほどまでに怨むのか……考えても考えても、答えは出なかった。
ふと、居間に倒れ伏した母の姿が視界に入り、我に返った一月は慌てて駆け寄った。
◎ ◎ ◎
その後、一月はすぐに救急車を呼び、母は病院へと搬送されていった。
駆けつけた救急隊員達には、『帰宅したところ母が倒れていた、呼びかけても揺すっても反応がなく、ただ事ではないと感じたので救急車を呼んだ』と事情を説明した。事実とはかけ離れているが、やむを得ない。鬼の話などしても信じてもらえないどころか、正気を疑われるだけなのは目に見えている。
琴音の放つ黒霧によって、母は長時間首を圧迫された上に吊り上げられもしていた。
母の身に影響でも残るのではないか……そんな一月の心配は、一先ずは杞憂に終わったようだ。
「ごめん一月、心配かけて」
パイプベッドに横になったまま、母は一月に言う。
医者の説明によれば、母が倒れた理由こそ不明ではあるものの(一月は先刻承知だが)、その命に別状はないとのことだった。後遺症などの心配も特にはなく、病院へ運ばれてから一時間程で母は意識を取り戻した。念のために詳しい検査をするので、ほんの数日間だけ入院するとのことである。
「別に。それより母さん、体は大丈夫なの?」
独特のにおいが漂う病室の中で、一月は問いかけた。
彼の隣には千芹も立っていた。しかし、一月の母にはその姿は見えない。
「うん。でも、なんだったのかしら、あの女の子……」
「女の子?」
一月が訊き返すと、母は病室の天井を見上げながら言った。
「うん、居間にいきなり現れた、あの真っ黒な霧に包まれた女の子。どう見ても、普通の人間には見えなかった……」
あれは鬼と化した琴音だ――そんなことを言えるはずもなかった。
母は一月に向き直る、
「ねえ、一月もあの子を見たでしょう……?」
あの時の恐怖がまだ残っているのだろう、布団の上からでも、母が身を震わせているのが一月には分かった。
迷った後で、一月はなるべく笑顔を取り繕って答えた。
「真っ黒な霧に包まれた女の子? 母さん、悪い夢でも見たんじゃないの」
夢などではないとは、一月自身がよく分かっていた。
もしも本当に夢だったなら、どんなに良かったことだろうか。
「そう言われたら、ええと……なんだか釈然としないけど……」
非現実的な出来事が唐突に起きて、理解が追いつかなかったに違いない。
余計なことは言わず、このまま誤魔化しておくのが最善策だと一月は判断した。
「きっと、仕事の疲れが出たんだよ。少し休んだ方がいい」
一月がそう諭すと同時に、病室のドアがノックされる。横に開かれたドアの隙間から、看護婦が姿を覗かせた。
「金雀枝さん、面会時間終了ですよ」
「あ、分かりました」
看護婦に応じると、一月は母に向き直る。すると先んじて、母は口を開いた。
「それじゃあ一月、詳しい検査が終わったらすぐに家に戻るから……」
「分かった。それじゃあ母さん、また来るよ」
そう言い残すと、一月は病室を後にした。後ろには、千芹が続いていた。