其ノ拾九 ~迫リ来ル怨鬼~
一月の中で形成されていた既成概念が、粉々に崩れ去っていく。
あの廃屋にさえ入らなければ、鬼となった琴音に遭遇することも、彼女に取り殺されることもない。そんな確証などどこにもないのに、いつの間にか一月はそう信じていた。信じてしまっていたのだ。
だが、甘かった。ただ廃屋に入らなければいいだけのこと、事態はそんな単純ではなかったのだ。
鬼となった琴音は、自ら移動して人間を殺める能力を有していたのだ。
彼女がこの家に現れ、そして今まさに一月の母を餌食にしようとしている。今この状況こそが、その証明だった。
「くそっ……!」
自身の短慮に苛立ちを感じる。
しかし、今は後悔している余裕すらもなかった。このままでは、母が殺されてしまう。
急いで助けなければ、そう思い至ったが、一月はその場から駆け出すことができない。廃屋で殺されかけた出来事を思い出し、足が凍ったように動かなくなってしまったのだ。
あの時は千芹のお陰で死を免れた。だが、刻まれた恐怖は一月を蝕み続けていた。
そうこうしている間にも一月の母は黒霧に吊り上げられ、苦し気な声を発し続けている。
千芹が駆けつけ、息を呑む。
「まさか、もう『霊場』から離れられるほどの力を……!」
驚いたように言うと、千芹は小刀を取り出した。
一月に希望が芽生える、彼女なら自分を救ってくれた時と同じように、母を助けてくれる……と思った矢先、千芹は小刀を下ろしてしまった。その表情には歯がゆさが浮かんでいた。
「どうしたの、母さんを……」
その時、一月の言葉を遮る形で、千芹は言った。
「ダメなの……」
悲痛な面持ちで、彼女は続ける。
「前にも言ったけど、わたしはいつき以外の人は助けられない。決まりだから……!」
千芹は両目を固くつぶり、今にも泣き出しそうだった。反射的に小刀を取り出したことといい、本心では、一月の母を助けたいに違いない。
断腸の思いで、母を救う手を止めた彼女を、一月は責められなかった。
(このままじゃ……!)
母の手足の動きが小さくなっていくのが、一月には分かった。
もう、一刻の猶予も残されてはいない。
(動け、動け……!)
恐怖にまばたきもできなくなり、両手には汗が滲む。
廃屋の時と同じ目に遭うか、今度こそ本当に殺されてしまうかもしれない。
しかし一月には、引き下がるという選択肢はなかった。母が殺されるのをただ指をくわえて見ているだなんてことは、絶対にならない。
(頼む、動け!)
強く念じたその時だった、凍ったように動かなかった両足が動いたのだ。
恐れを食い殺して、一月は鬼と化した琴音に向かって駆け寄る。その最中で叫んだ。
「琴音、やめろ!」
琴音が振り向き、生気を宿さない瞳が一月の顔を映す。
同時に母が黒霧から解放され、その身が今の床に落下した。
首を押さえてむせ返る母を遠目に見て、一月は安堵を覚える。しかしすぐに彼は状況を思い出した。確かに母は助かった、しかしそれは同時に、琴音の殺意の標的が自分自身に変更されたということに他ならない。
琴音は一月に向かってゆっくりと歩み寄ってくる。風もない室内で、彼女の黒髪がザワザワと不気味に揺らぎ始める。
逃げようとした時、一月は自分の体が動かせないことに気づいた。
(体が……廃屋の時と同じだ……!)
琴音の発した意思が、一月の頭に浮かび上がる。
《殺してやる》
彼女が右手を上げる、同時に一月の首に黒霧が絡みついた。
「うぐっ!」
声だけは出せた。しかし体は硬直したままで、抵抗する手段はなかった。
黒霧はまるでそれ自体が意思を有しているかのように、ギリギリと一月の首を締め上げていく。苦しみの中で、一月は琴音へと視線を向けた。
そしてどうにかして、彼女に呼びかける。
「もうやめろ琴音、こんなこと……本当の君は、そんなんじゃないだろ……!」
返事はない。
鬼と化した想い人には、かつての優しさも、憐れみも感じられなかった。憎しみや殺意、そして怒り。今の琴音は言うなれば、それらの負の感情だけが充満する怪物だった。
一月の言葉など、もう届いていないのだ。
(なんで、なんで琴音がこんな……!)
こんな最中でも、一月は思わずにはいられなかった。どうして琴音がこんな恐ろしい鬼になり、人を殺め続けているのか。どう考えても、一月の知る生前の琴音と、今の鬼と化した琴音を結びつけることなどできない。
一体、彼女になにが起きたというのか。答えなど得られなかった。彼女から一月に与えられるのは猛烈な殺意と、苦しみだけだ。
次第に息ができなくなり、脳に酸素が届かなくなったのか、耳鳴りとともに視界が揺らぎ始める。
辛うじて口を動かし、一月は彼女の名を呼んだ。
「琴、音……!」
その時だった。一月の視界に突如白い物が現れた。
それは千芹の着物で、彼女が握る小刀には既に青い光が宿されていた。
幼い外見には不似合いな、勇ましい声が発せられる。
「はああああっ!」
迷うことなく、千芹は小刀の一閃で黒霧を断ち切った。
青い光が飛散する、その最中で彼女は言う。
「それでいいんだよ、いつき。あなたが一歩を踏み出せば、わたしはその背中を押してあげられる」
確かに、そう言った。
しかし黒霧に首を絞められていた一月は呼吸を整えるのに精一杯で、千芹に返事をすることもできず、その言葉の意味を考える余裕もなかった。
千芹が一月に歩み寄って、袂から取り出した竹筒をその口にあてがってくる。
「飲んで、楽になるよ」
むせ返りながらも、一月は千芹に従う。
「んぐっ、う……!」
千芹がくれたのは、以前にも貰ったことのある茶だ。彼女が言った通り、たった一口飲み込んだだけで呼吸が楽になり、苦しみが消えていった。
咳き込みながら、一月は千芹と視線を合わせる。
すると彼女は問われるよりも先に、一月が訊こうとしていたことの答えを教えてくれた。
「お母さんは大丈夫。意識を失っているけれど、命は助かったから」
一月は頷きながら、どうにか言葉を発した。
「良かっ、た……」
空気が漏れ出るような音が混じった声だった。首を絞められていた影響で、喉が異常を来たしているのかもしれない。
千芹が立ち上がり、鬼と化した琴音に向き直る。
手に握った小刀、その銀色の刃に指を添え、
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽……」
再び、小刀が青色の光を宿す。




