其ノ拾六 ~空白~
玄関の隅に設置された傘立てに傘を置き、千芹も土間に入ったのを確認し、一月は玄関の戸を閉めた。
靴を脱いで、一段高い床に踏み入る。
(練習に来ている人はいないのかな)
土間には一月以外の靴は見当たらない。しかし、この道場には教員専用の玄関が別に存在しているし、最低でも一名は誰か大人がいる規則になっているはずだ。
もちろん、一月が探す人物――かつて一月や琴音の師だった黛がいる可能性だって、十分にある。
後ろにいた千芹を振り返り、一月は告げた。
「行こう」
千芹が頷く。
一月は、玄関と道場を仕切る引き戸を開けた。
「懐かしいな……」
二年ぶりに訪れた道場を一瞥し、一月は呟いた。
足の裏から伝わる床板の感触に、鼻腔を撫でる独特のにおい、ここを訪れるたびに見てきた、壁に掲げられた『心技体』の書筆。なにもかもが、二年前と変わっていないように思えた。
一月の後ろで、千芹が呟く。
「誰も、いないね」
玄関に靴が無かった時点で想像はついていたが、道場内には誰の姿も見受けられなかった。
竹刀や木刀を振る音も、足さばきの音も、稽古に励む少年少女達の勇ましいかけ声もない。雨音だけが、せわしなく鳴り続けていた。
「でも、最低でも誰か一人は大人がいるはず……」
千芹に説明するように言いながら、一月は道場の隅の扉に視線を向けた。その扉には、『教官室』と記されている。読んで字のごとく、教官が事務仕事をする際に使う部屋であり、学校でいう職員室だ。備品を破損させたり、怪我人が出た場合は大人に申告する決まりになっているし、教官との個人面談の際もこの教官室が使われるので、一月も何度かここに入ったことがある。
一月はその扉に歩み寄り、迷いもせずにノックした。そして返事を待たず、教官室に入る。
「失礼します」
挨拶は大きな声で、というのが教えの一つだった。もうここで剣道を学んでいる身ではないが、当時の習慣が染みついているのだろう。一月の声は、張りのある大きなものになっていた。
瞬間、机に向かって書類にボールペンを走らせていた女性が顔を上げ、一月と視線が重なる。
大いに見覚えのある顔だった、彼女は驚いた顔をしながら、
「あら、金雀枝君……?」
セミロングの髪形をした、年若くて活発な雰囲気を放つ女性。彼女は一月の知人だった。
「漣先生……」
漣朋花。この鵲村修剣道場で少年少女達に剣道を教えており、一月にとっては黛の次に接する機会が多い教員だった。
ボールペンを置いて椅子から腰を上げ、漣は一月に歩み寄ってきた。
「久しぶりね、二年ぶりじゃない……!」
かつての教え子に会えたのが嬉しいのか、彼女の表情は溌溂としていた。
二年の時を経て、当時中学生だった一月は高校生となった。しかし漣は一目で、かつてここで剣道を学んでいた少年だと気づいたようだ。
昔を振り返るように、彼女は続けた。
「金雀枝君、琴音ちゃんが亡くなってから突然この道場を辞めちゃったから……」
黛ほどの関わりはなかっただろうが、漣は琴音を知っているだろう。
一月と琴音が仲の良い間柄だったということも知っているだろうし、琴音が亡くなった時はショックを受けたに違いない。
「それで、今日はどうしたの?」
一月は、自身が二年ぶりにこの場所を訪れた理由を語る。
「黛先生に用があって来ました」
「え、黛先生?」
黛の名前を聞いた途端、漣は目を丸くする。彼女の口から小さく「そっか……」という声が漏れる。一月には漣の表情に、心なしか悲しい色が浮かんだように見えた。
なにか不都合でもあるのだろうか、と思った矢先、漣は一月が尋ねるより先に告げた。
「金雀枝君、知らなかったものね。黛先生ね……半年前くらいから体調を崩して、今村の外の病院に入院しているの」
「入院……?」
予想だにしなかった答えに、今度は一月が目を丸くした。
「だから今黛先生はこの道場にはいない。退職はしていないから、黛先生の机は今もそのままにしてあるけどね」
漣が、教官室のどこかへ視線を向ける。
その先を一月も目で追うと、黛の机が見えた。どうやら、二年前から机の配置は変わっていないらしい。
さらに漣は、黛がどこの病院に入院しているのか、いつ頃退院できる見通しなのか、そういった詳細は聞かされていないとのことらしい。唯一つの手がかりが、失われてしまった。
彼女は何かに気づいたような顔をすると、
「でも金雀枝君、黛先生になんの用なの?」
一月は息を呑んだことを悟られないように、
「いえ、大した用じゃありません」
とだけ答えた。
漣は怪訝な表情を浮かべたように見えたが、それ以上は問いを重ねてこなかった。
一時の間を置いて、彼女は、
「ごめん金雀枝君、ちょっとお手洗い行ってくるね」
そう言い残して、教官室から出て行ってしまった。
「手詰まり、だね……」
金雀枝と漣の会話をずっと見守っていたであろう千芹が、口を開いた。千芹の姿は一月以外の人には見えないし、声も聞こえない。一月に配慮して、ずっと沈黙を続けていてくれたのだろう。
一月は振り向かず、雨音に吸い込まれてしまいそうなほどに小さな声で返事する。
「ああ……」
黛の机に歩み寄る。
沢山のノートや筆記用具などが整理整頓されている……ふと、透明なデスクマットの内側に収められた一枚の写真を見て、一月は少しばかり驚いた。
(この写真は……!)
二年前の日付が入ったその写真には、三人の人物が写っていた。まず中学の頃の一月、そして琴音、さらにもう一人……朗らかに笑う一人の少年だ。
背伸びして写真を覗き込んだ千芹が、問うてくる。
「いつきとことね……それと、この人は……?」
一月はその少年を見つめながら、
「出間蓮、僕と琴音と同じように黛先生に剣道を習ってて……同門だった仲間だよ」
何年も前に、三人で撮った写真だった。一月が道場を去ってからも、黛はこの写真を保存していたらしい。
懐かしさを感じた一月は、思わず写真に写った蓮をじっと見つめた。一月や琴音とは違う中学校に進学した彼は、それを期に道場を辞めたので、最後に会ってからもう四年余りが経過していることになる。
明るく和気藹々としていた蓮は、一月や琴音にとって良き仲間だった。琴音が一月にとっての想い人ならば、蓮は一月にとって親友と呼べる存在だったのだ。
別れ際、自分と琴音に見せた蓮の涙が、一月には今も忘れられない。
雨音を聞きながら、一月は彼に思いを馳せる。
(蓮、元気かな。今なにしてるんだろう……)
と、その時だった。
千芹が突然、黛の机の下にその小さな体を潜らせたのだ。
「ん、ちょっと……!」
一月の声など意にも介さず、彼女はゴソゴソと机の下を物色し続け、そして、
「あった……」
その言葉と同時に千芹が出てきて、彼女が両手に握っていた物を見た一月は、仰天する。
「ちょ、それって……!」
千芹が見つけてきたのは、鞘に納められた一本の真剣だった。竹刀や木刀とは違い、正真正銘に本物の剣、一振りで人間の命も奪える凶器だ。
「この道場に入る前にわたし、感じたの。霊的な力……これがその大元みたい」
自らの手に余る程の大きさの真剣を見つめ、千芹は呟く。
すると彼女は真剣を一月に差し出し、その鞘を指差した。
「見ていつき、不空大灌頂光真言だよ」
一月は視線を凝らす――すると、鞘の表面に、何かの文字が刻まれているのが分かった。
『唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽』
見たこともない漢字が多用された、判読不能な言葉の羅列だ。
しかし、一月はそこから只ならぬものを感じた。まるでこの漢字一文字一文字が力を持つような……表現しようのない、なにかを。
「それといつき、近くにこれが落ちてた」
千芹は、四つ折りにされた一枚の便箋を一月に手渡した。
便箋を受け取り、広げる。そこに書かれていた字を見た一月は、すぐに確信した。
「これ、黛先生の字だ……!」
それは、かつての師が書いた手紙だったのだ。
雨音が鳴り続ける教官室の中で、一月はその内容を読み始める。