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其ノ拾五 ~一月ノ行ク先~


 その日の放課後、一月は自宅ではなく別の場所へと向かっていた。


「いつき、どこ行くの?」


 隣を歩く千芹が問うてくる。登校する時と同様、大雨にその身を晒しているにも関わらず、彼女は全く濡れていない。

 雨粒が傘を叩く音を聞きながら、一月は彼女に応じた。


「鵲村修剣道場、黛先生に会いに行く」


「まゆずみ……先生?」


 千芹は小首をかしげた。話題に出た人物が誰なのか分からないのだろう、当然の反応だった。

 一月は補足する。


「黛玄正先生、僕や琴音に剣道を教えてくれていた先生だよ」


 一月や琴音や、剣道場に通う他の子供達の師として、彼らに剣道を教えていた男性が黛玄正だった。顔を会わせなくなってから数年が経過しているが、一月は今もなお黛のことを覚えている。

 黛は年若く子供好きで、優しい男性だった。いつも優しく、時には厳しく一月や琴音に接してくれていた。剣道だけに留まらず、一月が悩みを抱えていた時は親身になって相談に乗ってくれた。単なる師匠と弟子の間柄ではなく、一月にとって黛はまるで、兄や父のような暖かみを感じさせる人物だったのだ。

 一月はもちろん、琴音も、黛に師事していた者は皆彼を慕っていたに違いない。


「もしかして、あの本を書いた人?」


 千芹の質問に、一月は頷いた。


「小さい頃に聞いたことがあったんだけど、黛先生はルポライターでもあるんだ」


 社会的事件や事象について現地取材を行い、記事にルポタージュする者のことをルポライターと呼ぶ。剣道の先生という仕事の傍ら、黛はルポライターとしての顔も持っていたのだ。

 一月が見つけたあの本の著者は黛だった、不思議な巡り合わせだった。今の一月と同じように、黛は琴音が殺された事件の真相を探ろうとしていたのかもしれない。面倒見がよく弟子想いで、琴音にも慕われていた黛なら十分にあり得るだろう。


「もしかしたら黛先生、あの本に書かれていたこと以外にも情報を持っているかもしれない。それに……」


「それに?」


 千芹の言葉に、一月は口ごもった。

 ふと視線を上げ、傘の内側から空を見上げた。汚水を吸った脱脂綿のような雲に覆い包まれた空からは、容赦なく雨が降りつけている。もう二度と、太陽は昇らないのではないか……思わずそう感じてしまった。

 一月には、灰色に染まった空が自分自身の心境を表しているようにも思えた。

 琴音が亡くなってから、彼は心を雲に覆い包まれたような想いで生きてきた。永久に朝が訪れない、明けない夜を迎えたように。


「黛先生に伝えておこうと思うんだ。廃屋で会った、あの鬼になった琴音のことを……」


「伝えて、どうするの?」


 一月の足が水溜まりを踏み、濁った水が飛散する。靴や制服の裾が汚れたが、一月は気にも留めなかった。


「分からないけど、伝えておかなければいけない気がする。そうしたら、あの本に書かれていた黛先生の考えが間違いじゃなかったって分かってもらえる、先生なら力になってくれるかもしれない」


 かつての師であった黛に接触することが、現時点での最善策であると一月には思えた。

 降りしきる雨の中、一月は千芹と共に歩を進めていく。

 そして程なく、一月は目的の場所に辿り着いた。


(二年ぶりか……)


 眼前の道場を見つめ、一月は心中で呟いた。

 一階建てで、少しばかり年季が入っているものの、古風で独特な趣を持つ道場。ここが、かつて一月が通っていた鵲村修剣道場だ。


「ここが、いつきが通ってた道場?」


 一月は、首を縦に振った。


「そうだよ」


 二年ぶりに訪れた、かつて一月が稽古に励んだ場所。

 見る限りでは、どこも変わっていないように思えた。味のある筆字で書かれた表札や、荘厳な雰囲気を醸す日本風の外観……全てが、あの頃のままであるように思えた。

 しかしながら、今日の天気のせいだろう。

 灰色の空を背に立つ剣道場は、どこか陰鬱で、どこか不気味な雰囲気を纏っているように感じられた。

 天気一つで、こうも印象が変わるものなのか。一月がそう思った時、


「あっ……?」


 後ろにいた千芹が、驚くような声を発したのだ。一月は彼女を振り返り、


「どうかしたの?」


 千芹は、その澄んだ瞳で剣道場をじっと見つめた。

 少しの間を開けて、彼女は首を横に振る。


「ううん、なんでもない」


「そう……?」


 怪訝には思ったが、一月はそれ以上問いを重ねようとは思わなかった。

 と、その時だった。剣道場の入り口が開き、一人の青年が姿を現す。外の様子を見るや否や、彼は呟いた。


「あちゃー、全然雨やんでないな」


 青年が傘を広げる。その時ふと、彼と一月の視線が重なった。


「ん、君も剣道やってる人かい? 見ない顔だけど……」


 不意に声をかけられて、一月は内心面食らった。


「あ、いいえ僕は……」


 青年の言葉を否定しようとしたその時、千芹が急に提案してくる。


「そうですって言って、その方が話がややこしくならないよ」


「えっ……」


 千芹の方を向きそうになったが、一月は思いとどまる。

 彼女の姿は一月以外の人間には見えないし、声も一月にしか聞こえない。誰かの前で千芹と会話すれば独り言を喋っているように見えてしまう。無論、彼女の言葉に反応することだって同様だ。

 青年が、「ん?」と疑問の滲んだ声を発する、一月は慌てて弁解した。 


「ああいや、なんでもないです。ええ、自主練しようと思って」


 この道場は、決められた練習時間以外の時でも自由に出入りし、練習することが認められている。入門者にとっては、交流の場でもあるのだ。

 誤魔化しきれた自信はなかったが、青年は追及してこなかった。


「そっか、頑張ってね」


 一月を激励する言葉を残して、青年は去っていく。その背中には、竹刀入れが背負われていた。

 彼の姿と、二年前までの自身の姿が重なって見えた。そう、一月もあの頃は、あの青年と同じように竹刀入れを背負って剣道場に足を運んでいたものだった。

 隣には、いつも琴音がいた。だが、琴音が亡き今ではもう、あの日々はどんなことをしても取り戻せない。

 死んだ者は、生き返らない。


「いつき?」


 千芹に呼びかけられて、一月は我に戻った。


(こんなこと、思い出してる場合じゃない……)


 自分自身にそう言い聞かせると、一月は千芹に応じた。

 そして彼は、二年ぶりに鵲村修剣道場の入り口へと向かう。






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