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其ノ拾弐 ~雨音止マヌ保健室~


 仄かに薬品のにおいが漂う保健室で、一月はパイプベッドに身を横たえていた。

 少しの間横になっていれば気分も良くなる、特に調べたりもせず、養護教諭はそう告げた。一月は特に、その言葉を疑おうともしなかった。身体に異常をきたしたわけではない、ただ廃屋で目の当たりにした凄惨極まる光景を思い出し、吐き気を催してしまっただけだ。


(そう簡単には、消えてくれないか……)


 一月は目を閉じて、布団に顔を埋める。

 思い出さないよう努めていたが、忘れられるはずがなかった。

 数分前に、養護教諭は用事で保健室を出ていった。他に生徒の姿もなく、ここにいるのは一月のみだ。

 ベッドに横たわったまま、一月はしばらく動こうとしなかった。絶え間ない雨音が、否応なしに耳に入り込んでくる。

 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。突然、誰かが一月を呼んだ。


「いっちぃ……」


 うとうとし始めていた一月の耳にも、その呼び声は鮮明に届いた。

 気のせいだろうか? そう思いつつも布団から顔を離し、一月は声の方を向く。


「え……?」


 直後に、パイプベッドの脇に誰かが立っていることに気がついた。紺色のプリーツスカートに、胸元の赤い三角タイ……学生服を着た少女だ。

 一月はゆっくりと視線を上げていき、彼女の顔を見る。そして少女と視線が重なった瞬間、絶句した。


「こ、琴音……?」


 秋崎琴音だった。廃屋で遭遇した時のような鬼の姿ではなく、生前の彼女そのものの姿で、琴音が一月の前に現れたのだ。

 どうして――そう声を発する間もなく、琴音が一月に手を差し出してくる。誘われるかのように、一月も手を伸ばし返した。琴音が命を落としたということも、あの廃屋での出来事も、全て悪い夢だった……そんな希望が芽生える。


 しかし、一月が琴音の手を取った瞬間、


(っ!?)


 芽生えた希望は、脆く崩れ去っていった。

 琴音の手は氷のように冷たく、体温が感じられなかった。明らかに人間の手の感触ではなかったのだ。

 一月はとっさに振りほどこうとしたが、琴音は一月の手をがっちりと掴んで離さない。少女とは思えない、恐ろしい力だった。

 

「許さない……」


 呟くように発せられた、憎しみの込められた声。

 一月は思わず顔を上げた、そして絶句する。

 彼の前に立つ琴音、その身を黒い霧が覆い包んでいたのだ。風もない室内で琴音の髪や制服がザワザワと不気味に揺らぎ、見えない力に煽られるように保健室内の椅子が倒れ、机の上の筆記用具などの物品が床に落ちる。

 

「許しはしない、絶対に……!」


 みるみるうちに、琴音の顔が変貌していく。

 数秒前までの普通の顔は見る影もなくなり、目が真っ赤に充血し、口からはドボドボと鮮血を溢れ出させ……鉄の生臭さを放つそれは、一月の腕にボタボタと落ちてきた。


「あ、あああ、あああっ……!」


 凄まじい恐怖に抵抗することも出来ず、一月はただ無意味な声しか出せない。

 琴音の姿はまさに、二年前のあの時……校庭で殺された琴音を発見した時の、無残な骸と化した彼女の姿そのものだった。

 邪悪で無残で、醜悪に変貌した想い人の姿――否応なく、一月はそれを間近で見せつけられる。目を背けたかったが、体中が石のように硬直し、目を閉じることも出来なかった。

 琴音の体を覆い包む黒霧が、それ自体が命を有するかのように蠢き、一月の腕を、肩を、首を、顔を、やがて全身を覆い包んでいく。黒霧からは肉の腐ったような臭いがし、不気味な生暖かさを帯びていた。

 

「うわあああああああっ!」


 悲鳴だけは発せられた。しかし、抵抗は許されなかった。

 黒霧に目も口も鼻も塞がれ、意識が遠のいていく。ここで意識を失えば大変なことになる、取り返しがつかなくなる――もう一月に成す術はない。

 

「ぐ、う……あ……!」


 呼吸すらできなくなり、視界が闇に侵食されていく。


「思い知れ、お前が犯した罪の重さを……思い知れっ!」


 もう何も見えなくなったはずだった。しかし、意識を失う直前に、一月は琴音の顔を見た。

 血まみれの歯を見せながら自身を糾弾する、想い人であった少女の顔を……はっきりと見たのだ。



  ◎  ◎  ◎



「はっ!」


 自分自身が出した声に、一月はびくりと身を震わせた。

 目を覚ました時、一月は保健室のパイプベッドに仰向きに身を横たえていた。そこに琴音の姿はなく、保健室内も荒れてはいなかった。ただ、雨音だけがせわしなく鳴り渡っているのみだ。

 深くため息をつき、一月はがっくりと脱力する。


「くそ、なんて夢だ……!」


 夢だったという事実に一応の安堵を覚えはした。だが単なる夢だと一蹴にはあまりにも生々しく、そしてリアリティーがありすぎたのだ。一月はこれまで夢を見た後、夢を見たということは記憶に残っているが、その具体的な内容は忘れてしまっているというのが常だった。今のはまるで夢ではなく、自身が過去に体験した事実そのもののようにすら思えた。

 一月の頭には、あの鬼と化した琴音の姿が鮮明に焼きついていた。

 そして、彼女が最後に自分に向けて放ったあの言葉も。


“思い知れ、お前が犯した罪の重さを……思い知れっ!”


 どういうことなのか気にはなったものの、現時点ではなにも理解できなかった。


(ただの夢……だよな)


 気がつくと、喉がカラカラに渇いていた。そして全身が汗まみれで気持ち悪かった。

 保健室内にも水道はある、少し水を飲もうか……と思ったその時だった。


「いつき」


 自らを呼ぶ幼い少女の声に、一月は横を振り向く。

 いつしか姿が見えなくなっていたはずの謎多き少女、千芹がいた。


「君か……」


 千芹は一月に歩み寄りつつ、彼を気遣うように言う。


「大丈夫? すごいうなされてたよ」


「嫌な夢を見たんだ」


 ベッドから立ち上がり、一月は蛇口を捻って水を出す。手の平にそれを掬び、口に運ぼうとした時だった。


「あ、待っていつき」


 千芹に制された一月は、手の平の水を捨てて振り向く。

 和服の袂を探ったかと思うと、千芹は竹筒を取り出した。竹を切り抜いて水筒に加工し、飲み口の部分に小さな栓をはめた物だ。

 栓を抜き、彼女は一月にそれを差し出した。


「喉渇いたんでしょ? これ飲んで、気分も良くなるから」


 一月は受け取ったが、すぐに口をつけようとはしなかった。

 中身が液体なのは分かるが、具体的に何なのかは分からない。さらに竹筒というのは使いなれないので、どこか抵抗を感じたのだ。

 そんな一月の心中を察したのだろう、千芹が促してくる。


「大丈夫、中身はお茶だよ。心配しないで飲んでいいから」


 少しばかり逡巡し、一月は思い切って飲み口に口をつけた。

 中の液体は千芹の言った通り、よく冷えたお茶のようだった。


(このお茶……)


 しかしながら、そこらで手に入るような物とは違うのが分かる。

 少量を飲んだだけで喉がみるみる潤っていくだけでなく、気分までもが良好になった。全身から汗が引き、驚くほどに体が軽くなったのを一月は感じた。

 一月の顔を見上げながら、千芹が問うてくる。 


「具合、良くなったでしょ?」


 一月は頷き、


「大分……ありがとう」


 栓をはめ直し、一月は竹筒を千芹に返した。

 

「どういたしまして」


 楽しげに応じつつ、千芹は竹筒を袂へしまった。

 

(そういえば……)


 彼女の姿を見て、一月はふと思い当たることがあった。

 あの廃屋で一月が琴音に殺されそうになった時、彼女は突然現れて助けてくれた。もし彼女がいなければ、一月は間違いなく殺されていた。千芹は一月にとって、命の恩人と呼んで間違いない存在だった。

 しかしながら、廃屋の仏間で目にしたあの二人の女子生徒の遺体。死んでなお残虐極まる遺体損壊をうけ、ゴミのように放置された少女達――琴音に殺されたと考えるのが妥当だろう。

 命を落とす間際、彼女達も一月と同等か、それ以上の痛みと苦しみを味わったに違いない。


(どうして……)


 一月は思わず、千芹の顔をじっと見つめた。

 彼女は無垢で可愛らしい笑みを浮かべながら、問うてくる。


「どうしたの?」


 自分の命を救ってくれた女の子だ、疑いを抱いてなどはいない。しかし、どうしても一月は尋ねずにはいられなかった。


「あのさ、君はあの廃屋で僕を助けてくれたけど……殺されたあの二人は、助けてあげられなかったの?」


 千芹が助けに入っていれば、あの二人の少女は命を奪われることも、あんな無残な骸に変じることもなかった。千芹の行動一つで、助けられたはずの命なのだ。

 途端、彼女の顔から笑みが消えた。俯き、その表情を悲しみに染め……今にも涙を流しそうだ。

 一月は慌てて弁明する。


「ごめん、別に君を責めるつもりで言ったわけじゃ……!」


 千芹は黒髪を泳がせながら、その場で踵を返した。一月に背中を見せながら、


「助けてあげたかったよ」


 可憐ながらも、悲しみが滲んだ声を発する。


「でも、わたしはいつき以外の人を助けることはできないの」


 千芹が立つ場所の向こうには窓があって、その先には学校のグラウンドが見える。

 容赦なく打ちつける雨は、まるで湖のように巨大な水溜まりを作り出し、無数の波紋が広がっているのが見えた。

 雨音に乗せるように、千芹の言葉は続く。


「わたしはいつきを鬼から救うために遣わされたから、他の人は助けられない」


 少女が振り返る、その澄んだ瞳が一月を映す。


「それがわたしたち……『精霊』の、大事な掟だから」






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