其ノ九 ~鬼ノ謎~
眩い光の中で、一月は一人の少女の前にいた。
彼女の顔はよく見えないが、黒い髪を長く伸ばし、一月と同じ中学校の制服を着ていることは分かる。
――これは? そう声に出そうとしたが、喋ることは出来なかった。声を出せなかったというより、一月にはそもそも発言する権限が与えられていないかのようだった。
少女は悲痛な様子で言う、その声は断片的にしか聞き取れない。
――私に……わか……よ、いっちぃの……気……ち……――
琴音? 一月は思った。
そう、今目の前にいるのは一月の想い人の少女だった。顔は見えないし、声もほとんど聞こえないが、目の前にいるのが秋崎琴音だと分かったのだ。
彼女の瞳が潤んでいることに気づいた。
泣いている? 琴音がどうして……そう思った時だった。自分の口から、信じられない言葉が発せられたのだ。
「いいや、君には分からない!」
一月の意思とは無関係に、彼自身の口から発せられた言葉。それは想い人である少女に向けているとは思いえない、強いものだった。
(どうして……僕はこんな言葉を琴音に……!?)
困惑する一月、しかしそれで終わりではなかった。
まずい、まずい、この先の言葉を言ってはいけない。止めなければ……! そんな一月の本心など構いもせず、彼の口は動く。
理由は分からなかった、だが一月にはなぜか、この後の自分の言葉を絶対に止めなければならない気がした。止めなければ取り返しのつかないことになる、大きな大きな、一生消えない後悔を生むことになる……そう感じたのだ。
「だって、君にはもう……」
(それを言ったら駄目だ、頼むやめてくれ、やめろ――ッ!!!!!)
必死になって叫ぼうとするが、もう止められなかった。
◎ ◎ ◎
「はっ……!」
気がついた時、一月は自室に仰向けになっていた。
いつの間に降りだしたのだろう、雨粒がせわしなく屋根を叩いていて、パタパタという耳障りな音が部屋中を満たしている。
(今のは、夢……?)
ゆっくりと身を起こして、辺りを見回してみる。
畳張りの床に、机や本棚、部屋の角に立て掛けられた竹刀などの剣道具……ここは間違いなく、一月の部屋だった。
まだ少しばかりぼんやりとしている意識を覚まさせつつ、思案する。
雨音にすら負けてしまうかもしれない小さな声で、一月は呟いた。
「さっきまで、僕は……」
思い出すまでに、ほんの一瞬しか要しなかった。
生前、琴音が祖母と共に暮らしていた廃屋に踏み入ったこと、女子生徒達の惨殺死体を目の当たりにしたこと、そして恐ろしい姿に変じた琴音に襲われ、危うく命を落としかけたこと……あまりにも非現実的で、人に話せば正気を疑われかねない話。だが全ては真実であり、間違いなく一月が体験した出来事なのだ。
湧き始めていた安堵の気持ちは、一瞬で消え去った。
慌ただしい様子で、一月は携帯電話を取り出して番号を入力する。人が殺されていたのだ、とにかく警察に通報しなくてはならない。
しかし発信しようとしたところで、一月はその手を止めた。
(待てよ、こんなことをしたら……!)
一月が通報すれば、警察はきっとあの廃屋に踏み入るだろう。そうすれば、彼と同じように琴音と遭遇することになるに違いない。
悪霊のような、恐ろしい姿に変貌した琴音……警察官が彼女を止められるのだろうか。そんなことは分かりきっている、絶対に止められはしない。今の琴音は、恐らく人智を超えた存在なのだ。警棒でも銃でも、どんな武器をもってしてもかなわないだろう。
あの二人の女子生徒のように顔を抉り取られるか、もしくは腹を裂かれるか……それ以上にもっと惨くて、残虐な殺され方をするかもしれない。
「駄目だ……」
力の抜けた手から、携帯電話が滑り落ちる。一月はそれを拾おうともしなかった。
こんなことをしても無駄だった、なおさら犠牲者を増やすだけだ。
(どうすればいい、一体どうなってるんだよ……)
非現実的なことばかりが起きて、心身が疲弊しているようだった。体がひどく重くて、立ち上がるのも億劫になる。
廃屋での出来事を思い出すたびに、心臓が凍りつくような気持ちになる。
一月は困惑していた。意味が分からなかった。
琴音に殺されそうになったことは勿論だが、それ以上にどうして彼女があんな姿で現世にいるのか。ふと、廃屋の琴音の部屋で見た日記が気になった。彼女が殺される前日、汚れと傷みが酷くて断片的にしか読み取れなかったページ。
琴音が殺された日の前日に、一体何があったのだろうか……そこに鍵があるような気がした。
その時、不意に一月を呼ぶ声がした。
「いつき」
聞き覚えのある、透き通るような声。
振り向くと、いつからそこにいたのだろうか、少女が机の上に腰かけて一月を見つめていた。
「わっ……!?」
黒い髪を腰あたりまで伸ばし、白い和服を着た幼い女の子――あの廃屋で一月を琴音から庇い、救ってくれた少女に間違いなかった。
一月が驚きの声を上げると、少女はくすりと微笑んだ。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったの」
見た目には、どこにでもいそうな普通の女の子だった。しかし、彼女もまた琴音同様、あるいはそれ以上に得体の知れない存在であることに間違いない。ただ、彼女は敵ではないということだけ、一月にははっきりと分かっていた。
彼女が助けてくれなければ、一月は間違いなく、あの廃屋で琴音に殺されていたのだから。
「大丈夫?」
発する言葉を見つけられずにいると、少女は一月を気遣うように言ってきた。
一月は落ち着くよう自身に言い聞かせつつ、彼女へ問う。
「君は……君は誰なの? どうしてあの廃屋に……」
「それはこっちの台詞だよ。いつき、どうしてあの廃屋に入ったの?」
すかさず返された質問に、思わず一月は面食らった。
少女はぴょん、と机から飛び降りて歩み寄ってくる。彼女の凛とした瞳が、一月の顔を映した。
「入ったら駄目だって教えたのに……どうして入ったの?」
少女の言葉の意味が分からず、一月は問い返す。
「どういう意味……」
その時、一月はあの廃屋に踏み入ろうとしていた時、どこからともなく聞こえてきた少女の声を思い出した。
「まさか、あの声は……」
疑いの余地はなかった、あの声の主はこの子だったのだ。
少女は頷く。
「分かった? もしわたしが助けなかったら、いつきは今頃あの鬼に……」
少女はそこで言葉を止める。一月のことを慮って、あえてその先は言わないようにしたのだろう。
(ん? そういえば……)
ふと。一月の頭に、少女の言葉の一部が引っ掛かる。いつきはあの鬼に……彼女は間違いなくそう言った。思い出せば、廃屋でも彼女は琴音を『鬼』と言っていた。
「鬼って何? あれは、琴音の霊じゃ……」
死んだはずの琴音が現世にいたことや、彼女のあの姿……それらから考えて、『霊』と表現するのが適切だと、一月は考えた。
しかし少女は即座に、それを否定する。
「霊? あれはそんな生易しいものじゃない。あれは鬼なんだよ?」
鬼と言われて一月がイメージするのは、桃太郎に出てくるような体が大きくて、角が生えており、棘のついた金棒を持っている怪物の姿だった。しかし廃屋で遭遇した琴音は、そのどれにも該当しない。
「分からないんだね、それじゃあ教えてあげる」
言葉に発せずとも、少女には一月の意思が伝わったらしい。
彼女は一瞬だけ目を瞑り、息を吸う。そして再び一月の顔を見上げ、口を開いた。
「『人が死を迎ふる時、その肉体は土へと帰るが、生前にその者が抱きたりし想ひは現世に残る』」
そして突然、少女は意味不明な言葉を並べ始めた。
「え……?」
一月に構わず、少女は続ける。
「『怒りや恨み、憎しみ、嫉み。現世に残されし死人達の負の想ひは連なり、寄り添い、やがて“鬼”となりて形を成す』」
(ん、これ……どこかで……?)
最初は分からなかったが、一月は少女の言葉に聞き覚えがあるような、以前どこかで聞いた、もしくは目にしたことがあるような気がしはじめた。
「『“鬼”となりし負の感情の塊は、行き場のなき想ひを鎮める生贄を求めて生者を襲い、死の世界へと誘ふ』」
どこだ? 一体どこで聞いた?
穴を掘り返すように、一月は記憶を辿り続ける。
「『死の世界へと誘はれし生者の魂は“鬼”の負の思念に取り込まれ、思ひ出も記憶も、理性も全て失ひ、“鬼”の一部となる』」
深く、もっと深く記憶を辿り、ようやく一月は思い出した。
「鵲村の、古い言い伝え……」
「思い出したんだねいつき、その通りだよ」
そして、少女はこう続けた。
「あれは鬼。幾人もの亡者の負念が連なり、寄り添って生まれた……恐ろしくて忌むべき存在なの」