其ノ八 ~白ノ少女~
手の平を壁に打ちつけられた一月には、抗うことも逃げることも不可能だった。
体温を宿さない手が、容赦なく彼の首を絞め上げていく。琴音にはもう慈悲も哀れみもなかった、あるのは一月に向けられた敵意、悪意、そして凄まじいまでの怒りだった。
――どうして?
苦しみの中、一月はただ疑問に思った。
なぜ、死んだはずの琴音がこうして現れたのか。なぜ、彼女はこんな恐ろしく禍々しい……悪霊のような姿になっているのか。そしてなぜ、彼女がこれほどまでの殺意を持ち、一月を殺そうとするのか。
疑問はいくつも浮かんだ。しかし、答えなど与えられなかった。
与えられるのは苦しみだけであり、その先には死が待ち受けていることを、一月は悟っていた。
(琴音……!)
想い人だった少女の名を、一月は心の中で叫んだ。
その時だった。聞き覚えのない少女の声が、彼の頭に浮かんだのだ。
《だから言ったでしょう? その家に入ったらだめって》
揺らぐ視界の中に、一瞬だけ見慣れない後ろ姿が見える。直後に締め上げられていた首が解放され、一月はその場に膝をついた。
「がはっ、ごほっ! うおえっ……!」
気道が開通し、一気に空気が流れ込んできて吐きそうになる。苦しみは止まったものの、まだ視界はグラグラと揺れ続けていた。
助かったのか……? そう思った途端に、今度は打ちつけられた右手の痛みが蘇り、一月は全身を強張らせた。
苦悶の声を発する。
「うぐっ……!」
少し身動きしただけで、耐え難いほどの激痛に襲われる。自力で抜くことなど出来なかった。
その時だった。
「動いたらだめ、わたしが必ず助けるから……だから少しだけ我慢して」
先程のそれとは違い、はっきりと耳に届いた声だった。思わず一月は顔を上げ、そして言葉を失う。
(え……?)
目の前に、見たこともない女の子が立っていたのだ。
歳は十歳ほどだろうか、白地に何かの花の模様があしらわれた着物を纏い、その黒髪は腰にまで届いている。その体は幼い外見相応に小さく、恐らく彼女の背は一月の胸のあたりまでしかないだろう。
一月からはその横顔しか見えないが、とても綺麗で整った容姿をしているのが分かった。
美少女と呼んでなんら差し支えない、着物姿の幼い女の子。一月はむせ返りながら、彼女の背中に問う。
「ごほっ……君、は……?」
返事はなかった。
彼女はただ前だけを注視しているようだ。その視線の先には、異形な存在と化した琴音がいる。その体は依然として黒霧に覆い包まれ、その制服や髪がザワザワと不気味に揺らいでいた。
一月が何かを言うより先に、少女が叫ぶ。
「立ち去れ、いつきには触らせない!」
可憐ながらも覇気を宿す声が、暗い仏間に響き渡る。
琴音が、少女に視線を向ける。
《邪魔を……するな……!》
右手の激痛に苛まれながらも、一月は琴音が地面を蹴ったのを見た気がした。次の瞬間、琴音は少女のすぐ傍にまで距離を詰めていて、その片手を伸ばしていた。
掴まれればどうなるか、それを知っていた一月は少女の身を案じ、叫んだ。
「逃げて!」
しかし少女は逃げるどころか、迫りくる琴音を前に微動だにしない。
彼女はその白い和服の袂を探り、そこから何かを取り出す。十数センチほどの刃を有する小刀だ。
少女は刃に指を添えると、
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽……!」
呪文とも経とも聞こえる、一月には全く理解できない言葉の羅列を発した。
すると、小刀の刃が青色の光を纏う。まるで、少女に呼応したかのようだった。
(これは……?)
少女の有する謎の力に、一月は思わず目を奪われる。
琴音がその小刀のリーチに踏み入った瞬間、少女は横に振り抜く形で小刀を振った。刃が琴音の体に触れた瞬間、バチッという火花が散るような音と共に、青い閃光が炸裂して仏間全体が照らされた。
《ぐっ……!》
苦悶の声を発しながら、琴音は腹部を押さえつつ後退する。
それを確認すると、少女は一月に駆け寄ってきた。
「じっとして……!」
少女は先程と同じように、袂を探る。
彼女が取り出したのは竹筒だった、飲み物を入れておく水筒のような物だった。
一体何をしようとしているのか、それを問う間もなく彼女は竹筒の栓を外し、壁に打ちつけられた一月の手にその中身をふりかけた。
「うっ……!」
冷たい液体が傷口にしみて、一月は全身を強張らせる。
しかし、それは一瞬だった。
(痛みが、引いていく……?)
信じられないことだったが、痛みがゆっくりと消えていったのだ。
手の平を串刺しにされた激痛は、一月がこれまでの人生で経験した中で、並ぶものなどない程だった。しかし、目の前に現れた少女はそれを容易く消し去ってしまったのだ。
竹筒の中身は何らかの薬液だったのか、あるいは少女の力なのだろうか。
「抜くよ……!」
少女がその両手で一月の右手を持ち、手の平を貫いていたそれを引き抜く。
そしてすかさず、彼女はまたあの液体をふりかけた。血が洗い流され、風穴のように開いていた一月の手の傷がみるみるうちに塞がっていき、ものの数秒で治癒して跡形もなくなった。
(まさか、こんなの……!)
どんな医者がいかなる手段を用いようとも、こんなことは不可能だろう。
右手の平を見つめつつ、一月は手を握ったり開いたりしてみる。やはり傷は完全に消滅し、少しの痛みも残ってはいない。
少女が問いかけてくる。
「もう痛くないでしょ?」
驚きつつ、一月は答えた。
「うん……」
その時だった。
琴音が発する殺意の言葉が、再び一月に投げかけられた。
《殺してやる……!》
一月も少女も、すぐさま琴音を振り返った。
少女によって腹部を切りつけられた琴音は、何事もなかったようにその場に立っていた。邪悪な雰囲気は、更に増しているように感じられる。
変わり果てた想い人に、一月は叫んだ。
「琴音、僕のこと分かるだろ……? 一月だよ!」
琴音は答えない。彼女はただ、負の感情で満たされた瞳を一月を向けるだけだった。
一月は更に呼びかけた。
「一緒に遊んだり、剣道の練習に励んだじゃないか……!」
やはり琴音は応じなかった。応じるどころか、僅かも表情を変えはしない。まるでテレビ画面に映った人間に話しかけているような気分になる。
「もう、いつきの声は届いていないよ」
一月を守るように立っていた少女が、代わりに口を開いた。彼女はその片手に小刀を握り、琴音から視線を外さないまま言う。
「ことね……ううん、あの『鬼』にはもう、いつきとの記憶は残っていない。理性も同情もない、ただ怨念だけに突き動かされて現世を彷徨い、人を殺めて死の世界に引きずり込む存在……それが、今のことねなの」
受け入れがたいことだったが、一月には少女の言葉が嘘ではないと分かった。
琴音に首を絞められた時、一月は彼女が抱く怒りや憎しみ、そして殺意を間近で感じた。それらは全て、他の誰でもなく一月に向けられていたのだ。
琴音が自分を殺そうとした、その事実が一月に重くのしかかる。絶望と困惑に支配され、何も考えられなくなる。
(琴音、どうして……)
誰よりも大切だと思っていた、彼女もそう思っていればいい……琴音が存命の頃、一月はそう思っていたが、そんな淡い気持ちは最悪の形で踏みにじられた。
分からなかった、理解ができなかった。
どうして、彼女に憎まれなければならないのだろうか。
どうして、彼女に恨まれなければならないのだろうか。
どうして、彼女に殺意を向けられなければならないのか。
(僕が、琴音に恨まれるようなことをしたのか……?)
不意に、一月は自分の手が暖かい物に包まれるのを感じた。
少女が、彼の手を握っていたのだ。
「ごめんいつき、今はここから離れないと」
問い返す間もなく、少女は片手で印を結ぶ。
そして、その口から何かの呪文が発せられ始める――途端に一月の視界が白い光に満たされ始め、急に意識が遠のいていった。
「っ、これは……?」
目視可能な範囲がみるみる狭まっていく最中、一月は最後まで琴音を見つめていた。
そして異形の存在へと成り果てた想い人もまた、その眼差しで一月をとらえ続けていた。