六話〜今の俺が生まれた日〜
「お母さん、早く行こうよ。」
興奮しながら、急かすように言った。
俺は、紅羽正文、5歳。
今日は、家族で旅行に出掛ける日だ。いつもより早く起きて、準備も整っている。
「ちょっと待ってて。お父さんが、まだ支度出来てないから。」
隣にいる小学3年の兄は、まるで、いつものことだ、と言いたげに、平然と座っていた。
「悪い、悪い。」お父さんも、いつものように、何食わぬ顔で、家から出てくる。
そして、いつものように、車に乗り込む。
それから数時間。
千葉県の九十九里町に着いた。
今は、8月。夏真っ盛りのこの日に、九十九里まで来たのだから、することはただ一つ。
そう海水浴である。
着くと同時に、俺は水着に着替え始めた。
すぐに着替え終えると、海に向かって走り出す。
その後を追うように、兄も駆けてくる。
俺達は、足の着く、浅いところで、遊ぶ。
お父さんとお母さんは、昔から、トライアスロンをやっていたらしく、俺のことは、兄に任せて、沖の方まで泳いで行った。
「お昼までには戻って来るからね」お母さんは、そう言った。
その言葉を信じ、俺達は、水を掛け合ったり、岩場で蟹や貝を捕ったり、砂浜でお城を造ったりして、昼まで遊んだ。
12時になったが、まだ二人は戻って来ない。
1時になっても、まだ二人は戻って来なかった。
2時になり、不安とお腹の鳴りが、ピークに達しても、二人は戻って来なかった。
その後、二人が見つかることはなかった。
住んでいた家の、家賃など、払えるはずもなかったが、たまたま、叔父が、二つのマンションを借りていたので、その内の一つに、兄と二人で暮らすことになった。
それから、俺は、外出が嫌いになった。いつも、家にいた。自分の部屋の天井をみつめていた。