草葉の陰
誰かが物陰に隠れてじっとこちらを見ています。でも、その人はすでにあの世の住人です。
生きている人に対しては絶対にこの言葉を使ってはいけません。例えば、スポーツの大会などで応援してくれる人に対して「一生懸命頑張りますんで、草葉の陰から応援してください!」などと決して言ってはいけません。笑い事では済みませんよ。
さて、ではなぜ死んだはずの人が草葉の陰にいるでしょう?
なぜお墓の下ではないのでしょう?
ここでいう”草葉”とは、原っぱのことです。また”陰”とは影のことではなく、もっとぼやけた、薄暗い、空間的な広がりをもった”世界”のことです。
現代では人が亡くなればお葬式を行い、お墓に埋葬し、定期的にお墓参りをします。しかし、中世において人が死ぬ場合、その多くは野垂れ死にでした。道ばたで、普通に、行き倒れたまま、亡くなる。それが一般的だったのです。
彼らの死は、誰にも見送られることはなく、道ばたに死体が転がっていても誰も見向きもしません。
なんて薄情なんだとお思いでしょうが、それが普通の光景なのです。日常のことですから、そこに転がっている死体は、自然の一部、景色の一部であって、行き交う人々がそれを見ても別段何の感情もわきません。
死体を見つけたからといって、どうするわけでもなく、誰に言うものでもありません。言ったところでそれを処理する人などいないし、放っておいても獣に食われるか、いずれ風化して無くなります。
つまり、生も死も、ともに等しく、ただそこに在るだけです。
死は、悲しいことではありますが、ありふれた日常の出来事でした。死を境にして肉体は無くなりますが、その人の精神は空間全体に広がり、季節が巡ればやがて草花に宿り、別の命に宿り、皆のもとに還ってくるのです。
土とは、命の循環を司る土台であり、その中にはたくさんの意識が内包されていると考えました。だからこそ古代の人は、良い土からは良い生命が育まれると考え、土を大切にしたのです。
時には、そうした過去の死者たちをこちら側の世界に招き寄せ、一緒に踊り、遊びました。それが盆踊りの始まりです。
子供のころ、原っぱで我を忘れて遊んでいるうちに、夕方になり、辺りが急に暗くなって、さわさわっと草木が揺れ、急に怖くなって家に逃げ帰った経験はありませんか?
それが、草葉の陰です。そこから先の闇は人ならざる者たちの空間であり、そのから先の時間は人ならざる者たちの時間です。
かつて、死はもっと自由なものでした。現代社会においては、死ぬことすら自由ではありません。そうやって、死を嫌い、汚いもの、迷惑なものとして遠ざけ続けた結果、ますます死ぬのが怖くなるのです。
皆さんは、自分の死を想像したことはありますか?
あなたはどこで死にたいですか?