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真夏の夜の廃校で

私と親友と人食いバエと『呪物』の猫

作者: 桜 夏姫

 じりじりと焼けこげるかのような日差しが、グラウンドに降り注いでいる。つい数分前まで、陽炎がセミの声の下踊っているあの場所で走っていたせいで、体の中に太陽が入り込んだかのような熱を感じる。半分凍らせたペットボトルのスポーツドリンクを飲みほし、莉乃は、空っぽの机の上にぐたりと身を倒す。日陰にあったせいか、ほんのりとひんやりした机が気持ちがいい。

「っうう、何」

 突然感じた冷たさに、驚きびくっと体が跳ね上がる。睨むように、背後を振り返るとそこには保冷剤を右手に掲げた同じパートの彩月がいた。

「あははは。すっごい、驚きよう。どう、身体が冷えた?」

「いや、むしろ急に動いたせいで余計に熱くなった」

 投げるように渡された保冷剤をタオルにくるみ、頬にあてるとひんやりとした涼しさが火照った体の熱を吸い取ってゆく。田舎にある莉乃の中学にはまだ都会の学校のように教室にクーラーが設置されていない。クーラーのある部屋といったらパソコン室と音楽室、職員室くらいしかなかった気がする。音楽室で練習している先輩たちと打楽器の子が心底羨ましい。莉乃の演奏するクラリネットは問答無用で空き教室で練習させられている。

「そう、ならお詫びに涼しくなる話しをしてあげる。ほら、この町って道祖神が結構たくさんあるじゃない?」

 莉乃は、頭の中で赤い前掛けをかけた道祖神の数を指を折って数えていく。記憶にあるだけでも11か所近くある。机に、ほおづえをつきながら、無言で続きを促すと彩月は、声を潜めて耳元でささやくようにして続きを話す。

「下の道祖神の頭がね、一夜のうちに消えていたんだって」

「そう。それのどこが怖いの。よくあるいたずらじゃない。そんなこと言うなら、上の道祖神なんてずいぶん前から頭二つないじゃない」

 胡乱気な目で彩月を見ると、手を軽く振り「まだ続きがあるのよ」と口にする。いつの間にか愚痴大会になりかけていた教室は静まり返り、アルミ枠の向こう側から野球部の練習の声と蝉の声がやけに大きく聞こえる。

「その首はね、まだ見つかっていないんだけど。毎夜毎夜、廃校になった小学校の屋上のフェンスからね、その首がブル下がっているのが見えるんだって。その首をね、ある時、廃校をたまり場にしていた不良が見上げたの。そしたらね、その首がにたりと笑って」

 怪談の空気にあてられた後輩の一人がごくりとつばを飲み込む。じわりと、背中にたまった汗が流れ落ちる。時計の針が、カク、カクと秒針を刻む。教室中が、彩月の口元に意識を向け、次の言葉を今か今かと待ちわびる。秒針が12の位置でカチッと止まる。彩月の口が、開かれ、吐息のようなものが混じった第一声がこぼれ出るのと同時に、

 ―――キンーコン、カンコン、キーンコーンカーンコーン

 教室に設置されたスピーカーから大音量で流れる4限目終了の鐘の音に、心音が不自然に跳ね上がり、ドクドクドクドクと早鐘を打ち始める。それは、莉乃だけではないようで、「うわっ」と声をあげたり、胸に手を当てている者がいたりしている。話を続けようとした当の本人だけは、飄々としていて別段驚いた様子がない。むしろ、付き合いの長い莉乃にはわかる。彩月の口元がわずかに持ち上がり、この現状を作り上げたことに満足していることを。つまり、彩月はこれを狙ってやったということだ。

 開けっ放しのドアから、サックスの三輪先輩が顔をだし「帰りのミーティング始めるよ。急いで」と声をかける。怪談の続きは気になるものの、顧問先生を怒るとねちねちと長く、なかなか帰れなくなる。がたっといきおいよく黒板近くに座っていた子が立ち上がったのに釣られるように、右肩にスクールバッグ、右手に楽器を持ち廊下にぞろぞろと出る。

 隣を歩く彩月に、莉乃は階段に上りながら小声で尋ねる。

「彩月、狙っていたよね、絶対」

 彩月はニヒルに笑い、イエスともノーとも明言しない。ただ、その目だけは莉乃の言葉を肯定していた。

「あの続きってどうなるの?」

「あぁ、あれ? 一応、その首の周りに青火がいつも一つ漂っていて、黒い煙を漂わせたその首を見たら呪われてしまうっていうありきたりなオチ。まぁ、道祖神の頭がなくなってたのは本当だよ。じいちゃんが、すげぇ怒ってた」

「あはは。彩月のじいちゃん、そのうち頭に血がのぼって倒れちゃいそうだね」

「本当だよ。まぁ、健康だけが取り柄だからね」

 短パンのポケットが、わずかに振動する。そっと手を入れて取り出すと、『一緒に帰ろう! 下駄箱で待っているね‼』という吹き出しの文字とともに、CMで登場するキャラクターのスタンプが一つ押されている。莉乃は手早く、スタンプを一つ押し了解の旨を伝えると残りの階段を駆け上がった。



 校庭の黄色がかった砂が付いた、靴を下駄箱から取り出し、靴に履き替える。靴紐がほどけていることに気づき莉乃は、前かがみになって結わき直す。

「りぃ~の」

 ぐいっと背中に重みと熱が加わり、のろのろとレンガ色の床を歩いていたダンゴムシがアップになる。ほとんど空になった下駄箱が大きく口を開けている。

「久しぶりっ」

「久しぶりだね、琴音。終業式以来だね。重い、暑い」

 言外に、早くどけと訴えているのだが、より隙間なくぴたっと密着してくる。うっすらと汗をかいた腕がお腹に回される。首筋をくすぐる髪から、フローラルの香りが鼻孔に入り込む。莉乃の身体からいつもは香らない消毒液のにおいがした。ガラス窓の外では、けたたましく蝉が鳴いている。

「もう。莉乃ったら、照れ屋さんなんだからん。本当は、嬉しいくせに。あ~ぁ、宿題さえなきゃ、夏休み、幸せなのになぁ。莉乃は宿題終った?」

「あと、読書感想文だけ。昨日部活帰りに本借りてきたけど、そのまま鞄に入れっぱなし。ねぇ、琴ちゃん早くどいてくれないかな。そろそろ足が限界」

 琴音は、「ずるいっ」と文句を言いながら、機敏な動作で離れると、靴を履きかえる。ズルいといわれても正直困る。別に、ドリルの後ろの答案を見ながらやったとか、絵を誰かにやってもらったといったズルをしたわけではないのだ。そもそも、やることをきちんとやらなければ、部活をやめさせられる危険があるのだ。せっかく、楽譜も読めるようになり、指も初めの時とは比べ物にならないほど動くようになったのだ。一番楽しい時期にやめろといわれるほど嫌なことはない。

「琴ちゃん、勉強おしえて」

「無理。っていうか、こう毎日暑いと余計な事をやる気力が出ないというか。しかも、今日から親いないしさ。ご飯自分で作んなきゃだし、メンドイ」

 目の前で披露されたあざとらしい上目づかいでのお願いを一刀両断し、炎天下の歩道を歩きだす。琴音はかわいいというより、美人系なのだから、可愛い系の仕草は似合わない。ああいうのは、怪談で怖がっていた千佳ちゃんのような子犬系の子がやるのに限る。

「じゃあさ、今日のお昼はこの琴音さまが作ってあげる。だから、うちに来なよ。そして、勉強を教えてください。特に英語。本当にやばいの。絵日記どうしよう。絵は大丈夫なのよ。むしろ得意なほう。なんせ、美術部だし」

 莉乃は、思いがけない誘いに瞬きを繰り返す。それなら、莉乃は一食分、食事の手間が経る。つい最近までシングルマザーの家庭で育ったせいか、莉乃は自分のお弁当を自分で作っている。味見させてもらったけれど、味は普通においしかった記憶がある。

「はぁ。ご飯作ってくれるなら、絵日記だけ引き受けるよ」

「いいの、やったー」と喜びの声をあげはしゃぎ、年齢の割に豊富な胸元をポンと叩いて「お昼は、まかせなさい」と琴音が力強く請け負ったので、逆に琴音は不安になった。



 琴音は飼い猫のアンリのマスコットが付いた鍵をカバンから取り出し、玄関を開ける。琴音は、せわしなく視線を動かすと、やがて振り返ってにっかりと笑った。

「莉乃、ちょっと、ここで待っててくれる? 部屋片づけるから。5分だけ、待ってて」

 スカートを翻し、二階建ての家に入っていく琴音を見送り、じわりとにじむ汗を下敷きで仰いだ風でごまかしながら待つ。夕飯は、どうしよう。暑いから火を使うのは避けたい。親の目もないし、スーパーまで歩いて菓子パンでも買い込むべきかと、思考をめぐらす。「いいよ」という声が、二階のベランダからかけられる。

「おじゃまします」

「どうぞ。どうぞ」

 琴音の部屋には最近は少なくなってきたが、昔はよくお邪魔していたので、靴の向きを直し、二階へ上がる。一番奥の部屋のドアノブを軽くひねる。畳の部屋に洋風の机とベッドが置かれていて、莉乃の部屋とそう大きく違わかなかった。琴音の部屋は、ひんやりとして気持ちがいい。外で待っている間に冷やしておいてくれたのだろう。

「ご飯作るから、ここで待ってて。あ、そこの本棚とか好きに見てていいよ」

 バタバタと足音を立てて、駆け降りていく。莉乃の本棚のほとんどは、父親の目もあり勉強関連だが、琴音の本棚には、猫関連の書籍のほかに、「半妖陰陽師」「悪魔契約の異端魔法使い」といったライトノベルに混ざって、「妖怪図鑑」「呪大全」といったユニークな本もあり、そのうちの一つを手に取り、ぱらぱらと頁をめくる。

『人を呪わば穴二つ』

 赤いインクでおどろおどろしく書かれた文字が、妙に印象に残ったものの、「丑の刻参り」といった有名なもの以外は、あまり興味のない莉乃は読み流していく。「あけて~」という声が聞こえた。

 ドアノブをひねると香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。お盆の上には、二人分の素麺と天ぷらがのせられている。

「琴ちゃん、揚げたの?」

 座布団に座りながら、二人で素麺を囲む。窓の向こう側で風鈴がチリンと鳴り、電信柱と電信柱の間をつなぐように、紅白の糸にしめがひらひらと風に揺蕩っている。つるつるとした細い麺を冷たい汁につけて食べると、体感温度が一気に下がった気分がする。

「そうだよ。ぱりぱりでしょう。こう見えても、料理は得意なの。母さんは、仕事で家に留守することが多かったもの。最近は、朝夕母さんの手作りなの。三上さん、じゃなかったお義父さんのおかげなのかもね」

 こんなに暑いのに、揚げ物を作らせちゃって申し訳ないという気持ちと、誰かと一緒の食卓という暖かさが心の中でカフェオレのように混ざり合う。渡された黒色の箸で、揚げたてのテンプラを摘まむ。ポン酢にちょっとだけ浸してから莉乃は口には運ぶ。じゅわりとひろがる香りと、ぱりぱりとした感触、それからほんのりとした甘み。

「うん、本当においしい。琴ちゃんはいいお嫁さんになるよ。琴ちゃんちの天ぷらには、サツマイモが入っているんだね。私のところは、玉ねぎが多めかな。そういえば、アンリちゃん今家にいないの?」

 お腹に響くバイクの低いエンジン音が、大きくなりやがてすぐ近くで止まる。コップの中の氷がからんと崩れる。それと同時に玄関がガラリという重たく引きずる音を立てる。

 びくんと、琴音の肩が揺れ、真っ黒な瞳に影が差す。

「琴ちゃん?」

「なんでもない。ア、アンリなら、動物病院だよ。ちょっと足を悪くしちゃったの。そうだ、莉乃。今度の祭り、一緒に浴衣着ていかない?」

 一階から荒々しい足音が、響いてくる。唇を無理やり持ち上げたようなぎこちない笑みを作る琴音の姿に莉乃は違和感を覚えるものの、小さく唇が、音にならない言葉を形作ったが深く追求するのは止めた。

「いいよ。神社まで、私の家の方が近いよね。岩小の隣の隣だしね。どうする、いつもみたいに……、直接神社で待ち合わせにしようか」

 いつもみたいに道祖神の前で落ち合おうかと言いかけて、部活の休憩中に聞いた不吉な噂話を思い出して、やめる。せっかくのめでたいお祭りの日にわざわざ目に入れたいものではない。パリンとしたから皿の割れる音と聞きなれない男の人の怒鳴り声がして、琴音の方をうかがう。琴音は、一瞬顔をこわばらせると、「気にしないで」とだけ口にして最後の素麺をつるりと啜った。

「あ、そうだ、ご飯の御礼にってわけじゃないけど、これあげる。この間、デザインが可愛くて買ったんだけどペアものだったんだよ。二つもいらないし、よかったら使って」

「もらっていいの」

 琴音は小さな茶色の紙袋を、受け取りセロテープを器用に爪先で剝がしていく。袋の中から、銀色の鎖に蒼い石のはめ込まれたブレスレットがはらりと姿を見せる。それは、莉乃の手首に巻かれているものとほぼデザインを同じくするものだ。

「うん。むしろもらってくれると嬉しい」

「ありがとう。さっそくつけてみようかな」

 琴音の白く細い手にまかれる水色の腕輪。銀色のチェンについた半分のハートが手を動かすたびに、揺れる。琴音と目がじっと合う。なんだかそれがとても面白くて笑ってしまった。

「なんかいいね。こういうの。繋がってるって感じがして」

「そう? まぁ、琴音はおまじないとかそういうオカルト系好きだよね」

 本棚を眺めながら莉乃は、麦茶に口をつける。琴音は、身を乗り出して語り始める。

「好き。大好き。最近は、栄田先生の本にはまってて、ああいう本揃えてみたの。結構面白いよ。呪いとかは、結構興味深いし、莉乃も『丑の刻参り』とか『蠱毒』とか聞いたことあるでしょう? ああいうの、詳しいやり方とか乗ってるんだもん」

 琴音は誰か呪いたい人でもいるのだろうか。読んだばかりの本の影響を受けた一時的なブームの可能性が強い気がする。

「宿題、やんないの? 呪いじゃ、課題終んないよ」

「はーい。やりますよ。やりますったら。あとで、食器下げるから、勉強机の上置いといて」

 下に片付けに行くくらいやるのに、とぼやきながらもお盆ごと移動させる。琴音は、机の中から課題と辞書を引っ張り出し、ならべる。まずは、日本語の文をつくるように、指示を出し、莉乃は自分の課題用の本を取り出し、静かに開く。琴音が、日本語で日記の文を作っている間、クーラーの効いた涼しい部屋、莉乃の意識は借りたばかりの本に向かっていった。



 ブゥ―――ン、耳元で蠅が飛ぶ。タオルケットを被りふて寝を決め込むも、ジワリとにじむ汗によってべったりと張り付いたシャツが鬱陶しくてかなわない。一向に消え去らない鈍い羽音にいら立ち、殺虫剤をばら撒く。蛍光灯によって闇を払われた八畳に白い靄が立ち込めた。莉乃は、着替えとスマホを手に軋んだ音を立てる木造の階段を緩慢な動作で降りると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、煽るように飲み干す。どうやら、ずいぶんと喉が渇いていたようだ。空っぽになったボトルを近くのゴミ箱に投げいれるとぺこっとプラスチックがへこむ気配がした。

 莉乃のスマホがメッセージを受信したのはその時だった。フォンという短音がやけに大きく聞こえた気がした。送り主は、琴音だった。

『ねぇ、今から会えない?』

 たったそれだけの文章。だけど、こんな真夜中に送られてくるには似合わない文章。スーパーと薬局が一店舗しかないこの小さな町には、こんな夜更けまで開いているところなんて二十四時間営業のコンビニぐらいしかない。ましてや、出歩く人など祭りの夜でもなければそうそういないのだ。

『莉乃ンとこ、今日誰もいないでしょ? だから、会おうよ』

『どうしても会いたいの』

 確かに今日は、誰も家にいないことを愚痴っていた。莉乃にはこんな夜中に出歩く気は全くなかった。むしろ、早く汗を流したい。今こうしている時間も、防犯のためにと家を締め切っているため蒸し暑いのだ。そもそも、話があるなら昼間、琴音の家にいた内に話す時間ならいくらでもあったはずだ。

『岩小で、待ってる。絶対来て』

 ポップアップされるメッセージは、だんだん速度を増してくる。だんだん、いら立ちにも似たなにかがその無機質な文字からにじんでくる。

『来ないと後悔するよ、莉乃』

 脅迫じみた最後のメッセージをかわぎりに、ぴたりと受信することをやめたスマホ。一方的すぎる言葉に、暑さに比例していら立ちが募る。

 取り合えず、脱衣所で、寝巻を脱ぎ捨て、生ぬるい水を浴びる。まだ完全にお湯になりきっていないその温度が、今は心地よい。いったいあのメッセージは何なのだろうか。脳裏にふと昼間の脅えた色を宿した琴音のまなざしを思い返す。あれと、関係あるのだろうか。

「はぁ~、なんのために蒸し暑いの、我慢してたんだろう」

 熱いお湯は汗を、洗い流し清涼感を与える。すこし、すっきりした頭で琴音は家の人に内緒で抜け出してきたのだろうかとふと疑問に思う。待ち合わせの場所である岩小は莉乃の家から近い場所にある。手早く、新しい服に着替え蚊よけスプレーを体に吹きかける。スマホを操作し、「琴音の家」を表示する。連絡網の関係上、家の番号も知っていた。まるで、告げ口の様で卑怯だと、感じる心を今更何を言っているのだと笑い飛ばし、迷わずタップする。数コールの後に、はきはきと話す感じのよいおばさんの声でなく、気怠そうな男の声は出た。

「もしもし、河野と申します。佐島さんのお宅でしょうか」

 聞いたことのない声に、眉を寄せながら、莉乃は左手を受話器に添えながら、尋ねる。電話の向こうから肯定の返事が返ってきたことに安堵しながら、早口で夜分遅くにすみませんと付け加え、琴音に電話を代わってもらえるように頼む。

「琴音? あぁ、あいつならもう寝てるんじゃないか。緊急の用事? なら、携帯にかければいいじゃねぇかよ。こっちとら、勉強で忙しいっていうのに……あんた、あいつの友達かなんかなんだろう?」

 莉乃は桜色の唇を小さく開けそしてきゅと横に引き結ぶ。思い出したのだ。昼間、琴音の家で聞いた怒鳴り声と電話の向こう側の声はそっくりではないだろうか。電話の向こう側から、ジ―――と電気の変圧器のように聞こえるクビキリギスの鳴き声がやけに大きく聞こえる。

「いえ、緊急のものではないので、寝ているのなら明日の朝かけ直しますので……」

「あっそ。なら早くそう言えよ。まったく。……ん、この声、お前昼間、家に来てたやつだろう。確か河野さんだったっけ、あぁ、もしかしてあの? かわいい声しているよね―――リノちゃん」

 ねっとりと絡みつくような粘ついた声に身震いし、外向け用のぎこちのない敬語が軋んだ音を立てる。なんだか、話しているだけで脂っぽい手で触られてるような気分になる。琴音が、家に莉乃を上げるとき玄関の靴に目を走らせていた奇妙な癖とバイクの音への脅えに似た何かを思い出す。

「待ってて、リノちゃん。あいつの部屋見てきてやるよ」

 上から目線の話し方がひどく不快だった。耳元から距離を置いた受話器から、荒い足音と、耳障りなノイズ音を立てて引かれるドアノブの気配が伝わる。苛立たしげにされる舌打ち。

「ごめんねぇ~、リノちゃん。琴音のやつ部屋にいない、あいつ網戸開けっ放しじゃねぇか。虫が入るだ……ガッツン」

 強く床にたたきつけられた子機。そこから激しいノイズが閃光のごとく走り、ぷっりと通話が切れた。莉乃は、人差し指で頬をかきながら、ふぅと小さく息を漏らす。琴音が家にいないというのなら、やはり岩小にいるのだろう。

 素足にサンダルを通し、もう一度蚊よけスプレーを吹きかけ、スマホを片手に家を出る。鍵をきちんとかけたことを何度も確認して石柱の門を出た。

『今から岩小にむかう』

 ぽつんぽつんとオレンジ色の灯は車一台がやっと通れる細い道々を力なく照らしていた。周囲の家々の明かりは当の昔に消え、時たまチリンと風にあおられた風鈴が鳴る。薄暗い道を莉乃は走歩きで進む。さっきから、気にしてはいるもののスマホに変化はない。

 自治会の掲示板に張られた家から数分の場所にある小さな神社の祭りのポスターや元は緑色だった水色のフェンス、ひび割れたアスファルトから顔を出すドクダミの花、それらがときたま暗闇から街灯に照らされ顔を出す。次第に暗闇に目も慣れてきた。生垣、盆栽、大小さまざまな石が張り出されるような形の石垣、統一性のない家々のうち、いったい何件が空き家だろうか。サンダルが息継ぐ暇もなく前へ前へと体を押し進める。

 五分も走歩きすれば、息が乱れ、汗がにじむ。だけど、視界の右端に基台を含めると六~七メートルほどの塔が見えたから目的地は目と鼻の先だ。左手には、小松石を中心にこの町で発展した石材業を連想させる石貼りの参道がある。その奥には瀧門寺があって、岩小の校庭に隣り合うようにあるその存在を思い出し顔を蒼くする。寺にはつきもののお墓だ。思わず足がすくみ夏の暑さが遠ざかる。フォンという軽快な音とともに、震えたスマホを恐怖のあまり取り落としそうになった。

『うれしい』

『一番、うえのかいだん』

 待ち望んでいたとも、そうでないともいえる返信はやはり変だった。顔や絵文字が一つもないそのシンプルな文はやはりいつもの琴音のものとはどこか違っていたし、後半戦が全部ひらがななのも気になる。

 目の前にはすでにもう古い石造りの門柱に錆が入った黒い門が待ち構えている。門柱に掲げられていたであろう表札は取り外され、そこだけぽかりと穴が開いていた。

 じっとそこを凝視しているとまるで、吸い込まれてしまいそうで、思わず目をそらす。門は、ぎぃと軋んだ金属音を立ててようやく人が一人通れるほど空いた。思ったより大きな音が出て心音が乱れる。この校庭に足を踏み入れたのは、一体何年振りだろう。毎日のように踏んでいたあの懐かしい日々が今は遠いことを肯定するかのように、苔が覆っていた。肯定の三分の一以上がコケに覆われた有様はまるで、じわじわと侵食されているようで、悲しいようなやるせないようなそんな気持ちに陥る。

 ふと彩月のした怪談を思いだした。彩月は何と言っていただろうか。廃校となった学校は、岩小のほかにない。ぞわりと背筋をだれかになでられたような気がして身震いする。あれは、彩月の作った話でしかないのだと言い聞かせた時だった。誰かの視線を感じた。観察するように、上から見下されるようなその視線は莉乃の神経を逆なでした。スマホを操作し、LEDライトで周囲を照らす。左側にあるお墓の存在を頭の隅に追いやり、そっと順に照らしていく。鉄棒、ブランコ、雲梯、ジャングルジム、在りし日に世話になった遊具たちは、潮風にやられたのかひどく錆と蔦に覆われ、まるでここだけ逆さにした砂の流れが速いようだ。学校の七不思議の定番の走る二宮金次郎の像は、微動だにせず、廃校記念碑の横に静かにたたずんでいた。

 鬼火。

 校舎の一番上の端に漂う青白く人の手ほどの大きさの明かりが左右に大きく揺れる。

「ひぃっ」

 じゃりっと足元で、砂が鳴る音がやけに大きく聞こえた。彩月の言葉が―――毎夜毎夜、廃校になった小学校の屋上のフェンスからね、その首がブル下がっているのが見えるんだって―――はっきりと蘇る。両の足がカタカタと笑い出しそうになる。

 その時耳になじんだ着信音が、琴音からの新しいメッセージを莉乃に伝える。

『はやくき』

 突然の音にびくっと肩が震えたが、よく考えればあの青い光は、鬼火なんて非科学的なものではなく、琴音のスマホの証明のはずだ。大きく息を吸い、吐き出す。ダイジョブ、あそこにいるのは琴音だ。決して、お地蔵様の首なんかじゃない。一度思い出してしまったせいか、全てが不気味に思えてしまう。ベビーピンクと水色のペンキが塗りたくられた非常階段をおそるおそる見上げる。キチキチ、どこかで虫か鳥が鳴き声のような耳障りな音がする。莉乃の心のうちに気泡の様に恐怖が浮かび上がる。汗ばんだ手を、ぬぐいしっかりと行く先を懐中電灯で照らし出す。人が通らなくなって久しい外階段はざらつき滑りやすい。

 この先に、琴音がいる。よりにもよってなんで、怪談話を聞かされたその日にその場所に呼び出されなければならないのだろう。もしこれが、彩月と琴音のグルで莉乃へのドッキリだったら、絶対にアイスの一本や二本おごらせてやると意気込みながら階段を昇り始める。

 カサカサ、夜の台所に出る黒い虫が動き回る音に似た耳障りな音がした。


 屋上への鍵も下と同じように壊されていた。ねっとりとした風が、どこからともなく運ばれてきた赤潮の時の海の匂いに似た腐臭に眉をしかめながら、鉄金網のドアを押す。ぎいっという黒板をひっかいたような甲高い音に、鳥肌が生まれる。金網フェンスと、プラネタリウムだけしかない灰色の屋上に、ぼおっと青白い光。光が、手招きする蝋のように白い手が揺れる。熱帯夜にもかかわらず、長袖の服を着た琴音の姿を浮かび上がらせる。

「莉乃。おそいよ。はやく、こっちに来て」

 言われるがまま、琴音に近寄る。真夜中だというのに、琴音のテンションは高い。正直、怪談の舞台になったこの場所に長時間いたいとは、莉乃には思えないので、早く用件を済ませたかった。

「琴音、今何時だと思ってるの」

 自分でも驚くほど低い声が出た気がした。人を深夜に呼び寄せたのだから、何か深刻な事でもあったかと思っていたのにどうやら違うようだ。いったいこの娘は何がしたいのだろうと莉乃は、長く、まるで煙草の煙を吐き出すかのようにため息を吐く。

「えっと、今確認す」

「しなくていい。だから、こんな非常識な時間にわざわざ呼び出した用件を聞いているんだけど」

 すうっと、琴音の顔から感情の色が抜けて、能面のように無表情になる。その瞳は、ぼんやりとどこか遠くを見ている。そのどこか死んでいるような目に、息をのむ。

「アンリが死んだの」

 頭の中が真っ白になる。モフモフとした尻尾で、いつも遊びにいった莉乃を迎えてくれたアメリカンショートヘアのアンリ。琴音がとても大事にしていた愛猫。それが、死んだというのだ。確か、昼間アンリは病院であるといっていた。そのとき、表情が曇っていた。もしかしたら、長くないとわかっていたのかもしれない。頭の中で指折り数えると、アンリは猫としてはもう結構な年だ。

「アンリ、病気だったの?」

 口の中が乾いて仕方がない。それでも今度は口に出して言葉を紡がずにはいられない。ようやく口に出した言葉に、琴音は、静かに首を振る。琴音の瞳に、激しい怒りの炎が揺らめき、強い語調で死の真相を告げる。

「アンリは私の目の前で殺された。轢き殺したのは、母さんの再婚相手の息子、佐島圭」

 前半の言葉に息をのむと同時に、あの男ならばやりかねないという確信めいたものを感じる。直接顔を合わせたわけではない。ただ、同じ建物にいた時に感じた荒々しさ、そして電話口に感じた厭らしさは、まぎれもなく莉乃自身の耳で聞いた現実の欠片だ。

 口を開くが、それ以上はうまく言葉にならなかった。ただぐるぐると激しい感情が自分の中で渦巻いているのが感じられる。月光が、黒い雲に覆われて姿を隠す。

「でも、アンリをこんな姿にしたのは私」

「えっ」

 琴音につられるように、上を見上げる。琴音のスマホが、深い闇をすこしばかり払う。

 闇夜に浮かぶまあるいシルエット。灰色を染める真紅の色素。このままここにいてはいけないといいう激しい予感と、焦りのようなものが胸の中をひっかき傷を生む。

 ただ過去を話すような感情のこもらない淡々としたしゃべりで、飼い猫の死を語る琴音。雲間から月光が地上に零れ落ちる。

「……‼」

 呼吸。今にも体が逃げ出しそうなほど、腰が引けた。真紅の線に囲まれた中心に浮かぶ黒い煙。不吉なほどまんまるなお月様が、煙の正体をあらわにする。血に滲み、ひしゃげ、歪み、萎びて、腐って、蛆と蠅がまとわりついた木乃伊になり果てた琴音の飼い猫のアンリの頭。それは今年の猛暑を鑑みても、とても一日二日の腐敗度ではない。もっと、数週間老いたかのような、そんなありさまで、胃が熱くなる。せり上がってくる吐き気を必死になって抑え込む。

「アンリは苦しんで死んだ。痙攣して、血を流して、胃の中の内容物を吐き出して、苦しそうに鳴いて、今でもあの断末魔は忘れられない。今でも、夢に見る」

 辛かった胸の内を少しずつ言葉にして昇華していくように、口にする。水滴が琴音の頬を伝う。表面を何匹もの蠅が這い回る猫の頭が月明かりに照らされる。

「だから、あいつを呪った」

「え」

 スマホの光が掻き消えた。光に慣れた目が闇に追いつかず、琴音の表情が夜にかき消される。

「あいつを殺すために呪った。恐怖に歪んで、死ぬように、『呪詛』を放った。昔、流れの呪術者が呪力の本尊である『外法』を作るとき、最高級の物として人間の頭がい骨を材料にしたんだって、本に書いてあった」

「何の話をしてるの?」 

 馴染みのない不吉さを感じさせる言葉が次々と琴音の口から飛び出す。じりじりとした焦燥感が胸に走る。

「だから、私はアンリの首で『呪物』を作り、佐島圭、あいつに『呪詛』をかけたの」

 ふと、昼間に読んだばかりの本に書かれていた『人を呪わば穴二つ』という赤いおどろおどろしい文字が脳裏に浮かび上がり、消えない不安を増殖させる。

「琴音……?」

 そう言えば、あの時は放置してしまったが不自然な電話をしなかっただろうか。ツゥーと背中に一筋の汗が流れる。握りしめた両の手の平には生ぬるい水滴が集まっていく。『呪詛』なんて、非科学的なもののはずだ。呪いなんて、創作の産物でしかないはずだ。それなのに。ブゥーンと耳障りな羽音が、琴音の不安を反映したようにどんどん大きく―――否、近づいて来る。

「ふふふ、あはは。成功した。成功したんだ」

 聴いたことのない友人の哄笑。見たことのない歪んだ笑みを浮かべる表情。振り切った針の様な琴音の様子に、地面に足が縫い付けられる。琴音はグリンと首を回し、斜めった頭のまま笑いながら言う。

「ねぇ、莉乃。私たち、友達だよね」

 思わずおそろいの水色のブレスレットを手で隠すように、握りしめる。ふと、視界の端に嵐の前振りのような黒々とした雲は入り込む。

 雲だと思っていた。

 月を隠さんとする濃紺色の厚い雲、それはほかの雲よりも早く移動し、よく見てみると数十、数百、数千、数万、数億もの羽虫の集合体であった。莉乃は、頭上の無数の蠅の群体を見上げ、思わず座り込む。耳鳴りがする。

 ミャーオ……とても近くで猫が鳴いた気がした。次の瞬間、改造されたバイクのエンジン音の比ではない轟音が、天井から振り落とされる。目を開けていられないほど、強い突風が吹き荒れる。莉乃は、とっさに右腕で目をかばう。強いあられが体に吹き付けたかのような痛みが、襲う。

 羽音の唸り音の隙間から、悲鳴が漏れ聞こえる。莉乃は初め自分が挙げているものだと思った。しかし、莉乃の唇は口腔内に虫を入れないように固く閉ざしてある。

「琴、ちゃん」

 頭上にいただけではない、いつからかその黒い煙はアンリの眼窩から這い出るようにして、波うち、次々と飛散していく。この大量の蠅は、アンリの首から生まれているとでもいうのだろうか。

 闇夜に隠されたその姿を、かつんと地面に落ちた琴音の端末から発せられた光が、暴く。黒、黒、黒、黒……無数の蠅に群がられた出来の悪い人形に似た何かが、激しく身をよじらせて、そこ生まれた。

「ひぃ」

 莉乃は、ザザッという音を立てて後ずさる。背中が、金網のフェンスにぶつかる。ブゥーン、ブゥーン、耳鳴りのようなそれに頭がどうにかなりそうだ。見てはいけない。見たら、後悔することになると知りながら、人という生き物は禁忌に触れたがる。罪深い生き物の性。より光度を増したスマホを小刻みに震える手で翳す。細波の様に震える黒い塊、その中心に埋もれる白のワンピース。白く細い手首に巻かれたおそろいの腕輪。

 口を押える。喉が、ひどく乾く。ひりひりとした痛みが粘膜を刺激する。蠢く無数の黒が、琴音を飲み込んでいく。

「いや、琴ちゃん、琴、ちゃん!」

 答えが返ってこないことを知りながら、必死に山を掻き分ける。人を呪えば呪いが返ってくるといっても、琴音に死んで欲しくなかった。取り除いても、取り払ってもどこからともなく湧いて来る虫に辟易しながらも莉乃は手を伸ばす。初対面での印象は最悪で、たくさん喧嘩もしたけど、でもいつもなんだかんだ仲直りして傍にいた大事な親友。頭も中がしびれて目の前の光景に現実感がない。ピチピチと、あたる羽が痛い。いかないで。生かせてなるものか。肌を伝う忌まわしい感触にせり上がってくる熱いものを無理やり押し込め、掘り進める。爪先が、硬い感触にわずかに触れる。

 ―――琴音だ。

 しっかりとその腕をつかみ、勢いよく引き上げる。思わず言葉を飲み込んで救い出したそれを凝視する。目に痛いほどの白。一片の血肉も脂肪も毛のない蝋のように白い骨。水色のブレスレットが、生気を完全に失ったその白に嵌っていた。

 ―――ミャーゴ

 威嚇するような猫の唸り声ともに、右肩に激しい鈍痛が走る。あまりの痛みに、振り解かれる手。その際、わずかに白の欠片が舞い、鈍い音を立て転倒するのを見た。

「っう。痛い」

 何が起きたのかわからない。ただ、いきなり何かにつよく引っかかれたのだ。痛む右肩を左手で触れると、ぬるりとした生暖かさを感じる。はっとして、莉乃は、左手を月夜に翳す。

 べっとりとした赤い血液でぬれていた。莉乃は、腕にしつこく絡みつく、蠅のように見える何かを払落す。染み付いた体液を痛みに顔をしかめながら、裾でせわしなく拭いながら階段に向かって走る。危険だと訴えるアラートに従い、親友だったはずの存在に背を向けて駆け降りる。

「はぁっ、何なの、どうなってるの」

 全て、振り切ったはずだが、まだ耳元で唸る音が聞こえる気がする。足に何かが引っ掛かるような感覚と共に、ふわっと体が浮遊する。とっさに受け身を取ったため、膝を擦りむいただけで済んだ。急く莉乃の足を阻むように、サンダルの鼻緒が切れたのだ。カタカタカタ、哂うように近づいて来る虫以外の何かの音。莉乃は、サンダルを脱ぎ捨て柔らかな素足で苔の覆う校庭を駆ける。墨のような流動する黒に吞まれた白が頭から離れない。

 風が吹くたびに小刻みに揺れる音は、恐怖を生み。山なりのような空気の震えを伴なって近づく羽虫に嫌悪が湧く。

 後ろを振り向いてはダメ。消防車の赤いランプとリィンリィンリィンという音が呼び覚ます本能的な恐怖に従い、手足をがむしゃらに振るう。右肩は、身体を劈くような痛みを脳へ訴え、さっき転んだ時に作った擦り傷がじくじくと熱を生む。小石を踏む度に走る裂傷が、脳に信号を送る。それでもその足を止めない。今すぐにでも傷口を確認したい衝動に何度もかられる。それよりも背後に迫る気配が何よりもおぞましい。砂を蹴る足音がだんだん近くになっていくのが恐ろしい。校門を飛び出す。あんなに悲鳴を上げたというのに、まるで町中の人が深い眠りに落ちてしまったかのように誰も莉乃の窮地に気付かない。全身のうぶ毛が総毛立つ。誰にも気づかれないまま、自分もあの黒に喰われるのだろうか。肉を食まれ、血を啜られ、全てをはぎ取られる姿を想像し、体が震える。

 石垣、松、石垣、盆栽、石垣、プランター、そしてまた石垣。

 視界の端で白い紙きれが、風に飛ばされないように縄にしがみついている。何かが、家の屋根を飛び渡る、ボットン、ボットンという切れ切れの音が背後で鳴る。これではまるで、彩月の冗談みたいな階段が現実になっているみたいじゃないか。

 痛みと疲労で鈍る脚を叱咤し、莉乃はようやく見慣れた門構えを前に安堵の息を漏らす。全身の筋肉がわずかに弛緩する。すべてを閉め切れば、大丈夫。ポケットに手を突っ込む。いくら、指を這わせてもあるはずの冷たい金属の感触がどこにもない。早くしなければ、追いつけられてしまう。

「なんで、なんで、ないのよ」

 今日に限って、いつもは開けっ放しの玄関をしっかりと閉めてしまった。こんなことになるのなら、開けとけばよかったと莉乃は歯ぎしりする。ボットン、タッ……近づく足音から身を隠すために、裏庭に回る。

「どうしよう、助けてママ」

 祈るように両の手を重ねたところで四国に行った両親が帰って来ない。あの悍ましい存在以外、すべての虫や鳥、獣が寝静まったかのように静かだ。あんな、一瞬にして人を骨にする化け物にかなうはずがない。化け物、妖怪、そんな罵詈雑言とともに、夜に慣れた莉乃の目が掲示板に張られた『稚児神社夏祭りのお知らせ』の張り紙に気付く。莉乃は一つの希望を見出した。この裏庭をうまく突っ切れば、神社に着く。正月か縁日にしか行かないような小さな神社の存在を思い出し、そこに向かってもう一度足を進める。

 太ももが重い。息は当の昔に上がっている。莉乃は心も体も疲弊しきっていた。それでも、足を止めない。止めてしまったら最後だとなぜだか強く思うのだ。カサッ……カサ、カサ。生暖かい吐息さえ感じるのではないかというほどに近づく気配に全身の血が音を立てて凍る。もう、目の前まで鳥居は迫っているのだ。前後に振る腕に伸ばされる気配を振り払い、目の前に迫る石造りの鳥居の先に転がるように滑り込む。

 肩で息をしながらも、まだ油断ならないと賽銭箱の影に体を丸めるようにして座り込む。助けを求めようと強く握りしめたスマホの電源を入れる。青白い光が、莉乃の顔を照らす。母親を選択し、タップする。白い光が黒に塗りつぶされる。電源を入れる。今度はピクリとも反応を示さない。ぞっと、背中に冷や汗が流れる。ばっと勢いよく、莉乃はうしろを振り返る。誰もいない。そこには閉ざされた社があるだけ。ほぉっ吐息を漏らし、ふと顔を上げる。

 目があった。いや、それに目という外界を認識する機能はない。真っ黒い眼窩。

 ―――ミャーオ

 生前をほうふつさせる甘い鳴き声をそれは放つ。

「いやあああ、神様、神様お願い、助けて。誰でもいいから、助けて。助けてよぉ。いや」

 とっさに垂れ下がる紐を勢いよくたたきつける。

 ―――じゃらん、じゃらん、じゃらん、

 けたたましくなる鈴の音。その音にガイコツは硬直する。注連縄を力強く握りしめて、いつとびかかられても走り出せるように臨界体制を取って、振り続ける。鈴の音が鳴るごとに、ガイコツは、目に見えて衰弱していく。あの得体のしれない羽虫も近づいてこないどころか、遠くに去っていく。まるで、鈴の音が鳴る範囲に見えない壁があるかのようだ。

 ―――じゃらん、じゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、じゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、じゃ、じゃん、しゃん、しゃん、しゃん……じゃらん、

 月が、沈んいく。いつの間に、目を閉じていたのだろうか。目を閉じていてもそれでもとぎれることなく絶え間なく鈴の音がしていた気がする。気が付いたら、朝になっていた。いつの間にか、目の前にガイコツの姿は消えていた。それでも、莉乃は鈴の音が絶えたらまたどこからともなくあの闇がにじり寄ってくるようで狂ったように鳴らす。それは、白髪交じりの神主が朝の掃除に顔を出すまで、続いた。

 衰退しきった莉乃と、鳴らせ続けられる鈴、そして朝日に照らされる白い粉末。いつもの朝とは明らかに違う光景を眼前に映し出した神主は、息をのんだまま唖然と棒立ちになる。憔悴しきった見知った少女を前にした神主、彩月の祖父は、慌てて近寄って、縄を握りしめた手を掴む。濁った目が、宙を泳ぐ。その目が、人影に焦点を合わさった時、悪夢の光景と目の前の光景を重ね、びくっと肩を震わす。

「おい、河瀬の嬢ちゃん。莉乃ちゃんだろ」

 縄に張り付いたようなその指を一本一本ゆっくりと根気よく、しわがれて骨ばった温かい熱を持つ手が離していく。

「莉乃ちゃん、莉乃ちゃん、しっかり、何があったんだい」

 一晩中鳴らし続けたせいで、莉乃の手は豆がつぶれ、皮膚が向け、ところどころ血がにじんでいた。腕輪の鎖が千切れて境内の砂利の上に横たわっていた。

「莉乃ちゃん、莉乃ちゃん、しっかり、何があったんだい」

 彩月の祖父は、脅える孫娘の友人である琴音をやさしく暖かい腕の中に閉じ込める。初めは拒否するように、暴れていた莉乃も、みなれた穏やかな顔を見て、やがて張り詰めたいとがぷつりと断ち切れたように気を失った。


 そして、そのまま三日三晩高熱と悪夢でうなされ続けた。無数にできた足の裏の裂傷に膝の擦り傷は莉乃が眠っている間に治療されていた。

「ここは」

 頭を撫でるやさしい手。それから、消毒液と、懐かしい畳の匂い。

「莉乃ちゃん。目が覚めたのね。よかった、一時はどうなるかと思ったわ。目覚めてくれてよかった」

 声を詰まらせながら、母親は横たわった莉乃に抱き付く。体はこわばることなく、その抱擁を受け入れる。首筋に髪があたってくすぐったい。触れあった体が互いの体温と心音を伝え合う。耳に届くのは正常な呼吸音。胸の奥から熱いものが駆け上がってくる。

「よかった。あなたが無事で。ごめんね、一人にしちゃって。もう、絶対にしないから」

 その声は湿っていた。かさつく唇を開き、母親を呼ぶ。堰を切ったように溢れ出す想い。

「ママ。あ、あたしっ……あぁあああん」

 莉乃は母親の胸に抱き付き、子供のように声を上げて泣く。母が力強く莉乃を抱きしめる。背中を撫でる温かい手とリズムに安心する。過呼吸になりかけ、ひとしきり泣き止んだ莉乃に、母親はためらいがちに口にした。

「莉乃ちゃん、心して聞いてね。佐藤さんの所の圭君がね、一昨日、白骨遺体で見つかったんだって」

「え、それって、琴音ちゃんのお義兄さん?」

 莉乃の瞳は大きく見開き、左右に激しく揺れる。乾いたくちびるの皮がめくれ、口の中に鉄の味を広げる。

「それだけじゃないの、莉乃ちゃんのお友達の琴音ちゃんもね、一昨日から行方不明らしいの。莉乃ちゃんは、神社で倒れたっていうし、一体一昨日何があったの?」

夢じゃなかったのだ。あれは、現実に起こった出来事なのだ。琴音は両手で顔を覆おうと手をあげ右肩にずきりとした痛みが走る。

「つぅ」

「まだ、治っていないのよ。無理しないで」

手首にはもうあのブレスレットはない。琴音と莉乃をつなぐ糸がちょきんと切られたように、そこにはなにもない。

 ……。耳元で、あの忌まわしい羽音が蘇る。あれは、ほんとに莉乃を諦めたのだろうか。そもそもあれは、あの大量の蠅は、いったいどこからやってきてどこへ向かっていたのだろうか。夜の屋上での出来事を回想する。あの蠅は、まるでアンリの眼窩からあふれ出ていなかっただろうか。常識的に考えてあの量の蠅は、あの頭蓋骨の中にとても入りきるようには思えない。

 ――――ブゥン―ン、莉乃の鋭敏となった聴覚が、羽音をとらえる。

「ママ、殺虫剤」

「え、あ、はい」

 莉乃は、粘膜にわずかに刺激を与える白い霧で部屋を満たす。ケホッと咳き込む。畳の上に転がる蠅の死体。だけど、あの甘えたような猫の鳴き声はどこからもしなかった。






 人を呪わば穴二つ

 ゆめゆめ、そのことをわすれることなかれ

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