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作者: 伊藤 直人

 ある夏の、夜明け前。この日、長い長い地中での生活を終えた一匹の蝉が、地上へ這い出てきました。

 蝉は一本の大きな木を見つけると、その幹を伝って這い上がり、精神を統一しました。

 すると、蝉の背中の殻が破れ、白く柔らかい体が、徐々にその姿を現し、真っ白な体は、やがて緑と黒の斑模様へと変わり、小さくしなびていた羽も、夜が明ける頃には、張りのある透明な翼へと変わっていきました。

 俺にも、ついにこの時が来たか。

 蝉は、感慨深げに、胸の内でつぶやきました。

 これから俺に残された時間は、そう長くは無い。そのわずかな時間に、綺麗な歌歌って、雌の心を引きつけて、そして俺達の愛の結晶を、彼女に産んでもらう。その為だけに、俺達蝉は、生きているんだ。俺の子供達は、元気に育ってくれるだろうか。卵が帰る頃には、俺はもうこの世にはいない。生まれて来る我が子の成長を見届ける事ができないのは、心残りだし、凄く不安だ。だけど、それはどの蝉にだって言える事だ。俺だって、父さんや母さんの顔を知らないけれど、こうして立派に羽化する事ができたんだ。きっと俺の子供だって、立派に逞しく生きて行ってくれるはずさ。おっと、いつまでも感傷に浸っている暇は無いぞ。時間は無いんだ。可愛い奥さんを見つけない事には、何も始まらないからな。

 蝉は慌てて飛び立ち、手頃な木を見つけると、そこに止まって、独特のリズムで歌いました。

うぃーん、うぃんうぃんうぃんうぃんうぃいぃいぃいぃいぃいぃ……

ういーん、うぃんうぃんうぃんうぃんうぃいぃいぃいぃいぃいぃ……

 それでも雌は、寄ってきません。

 さすがに、そう簡単にはいかないか。

 蝉は一旦別の木に飛び移り、そこで再び歌い始めました。

うぃーん、うぃんうぃんうぃんうぃんうぃいぃいぃいぃいぃいぃ……

うぃーん、うぃんうぃんうぃんうぃんうぃいぃいぃいぃいぃいぃ……

 まだダメか。でも、そう簡単には諦めないぞ。

 それからも、蝉は歌っては飛び移り、飛び移ってはまた歌い、時には細い口で樹液をすすり、夕暮れ時まで、一生懸命歌いました。

うぃーん、うぃんうぃんうぃんうぃんうぃいぃいぃいぃいぃいぃ……

うぃーん、うぃんうぃんうぃんうぃんうぃいぃいぃいぃいぃいぃ……

 まだダメか。こりゃ思ったより、大変そうだぞ。今日はこのくらいにして、もう休もうかな。

 蝉が歌うのをやめようとしたその時、突然、当たり一面が真っ白になりました。驚いて飛び上がった蝉でしたが、蝉の白い体は、その白い何かに包み込まれ、蝉は身動きが取れなくなってしまいました。

 しまった、虫捕り網だ!

 そう、蝉の体を包み込んだものの正体は、子供の虫捕り網だったのです。

 網の持ち主は、小学生くらいの、小さな男の子でした。男の子は、首から提げた籠の蓋を開けると、その中に蝉を閉じ込めてしまいました。 

「今日はセミ一ぴきかぁ。やっぱりカブトムシは、夜になるまで出て来ないのかな?」

 男の子はそう言って、帰り道をとぼとぼと歩いていきました。

 まずい。このままじゃ、俺はこの狭い籠の中で、一生を終えることになってしまうぞ。

 焦った蝉は、籠の中で必死に叫び、暴れましたが、籠の蓋は開きません。そのまま蝉は、男の子の家まで、連れ去られてしまいました。

 家に上がった男の子は、夕ご飯の支度をしているお母さんに、こう言いました。

「お母さん、ジョンはまだ、うちに帰って来れないの?」

「先生は、まだ何とも言えないって言ってたわ。でももう、ジョンも十五才だからね。犬の十五才って言ったら、人間の歳でいったら大お爺ちゃんだから。もしかしたらもう、そんなに長くはないかもしれないわね」

 そういえば、玄関の脇に立派な犬小屋があったけれど、犬の姿は見当たらなかったな。二人の話から察すると、この家の飼い犬が、獣医の所に預けられているということのかな。

 お母さんの言葉を聞いた男の子は、俯いたきり、黙り込んでしまいました。目には涙が浮かんでいます。

「もう、死んじゃうの?」

「それは、お母さんにもわからないわ。でも、そろそろそういう覚悟は、決めておかないといけない時期かもしれないわね」

 男の子は、こぼれ落ちそうになる涙を、手の甲で拭って、とぼとぼと自分の部屋へ入りました。そして蝉を入れた籠を机の上に置くと、灯りもつけずに床に座り込んで、泣き出してしまいました。

 君は優しい子なんだな。でも君は、その優しさを俺に向けてはくれない。そりゃ何年も家族同然に暮らした犬と、カブトムシの外道で捕まえた蝉とじゃ、同じように扱えって言うのも無理な話かもしれないよな。でもな、君の愛犬が病気と戦っているように、俺達蝉だって、みんな精一杯生きているんだぜ。暗い土の中で何年も過ごして、ようやく外の世界へ出られるようになった頃には、もう残された時間はわずかしかない。そのわずかな時間に、俺たち蝉は、全てを賭けて臨むんだ。その一生は、他のどの生き物の一生とくらべても、決して恥じる事のない、貴いものだと、俺は思っている。もっと華やかな一生を過ごせる生き物に生まれていればと、思ったことが無いわけじゃないけれど、だけど蝉として生まれた以上、俺は蝉としての一生を全うするしかないんだ。だからこの籠から、俺を出してくれ!

 蝉はもう一度、声の限りに叫びました。しかし、男の子には、ただうるさいだけだったのか、蝉の入れられた籠は、バルコニーからベランダに出されてしまいました。

 待ってくれ!ここから出してくれ!あんた達人間からすれば、取るに足らないちっぽけな存在かもしれない。だけど、蝉に生まれた、俺にとっては、この一生が全てなんだ。このまま死んじまったら、俺、何の為に生まれてきたのかわかんなくなっちゃうよ……。

 しかし、男の子は部屋に戻って、バルコニーの戸を、しっかりと閉めてしまいました。外はもう、すっかり暗くなっています。そして男の子は、その日はもう、戻って来ませんでした。

 やがて夜が明けて、蝉は、どこからともなく聞こえる、仲間たちの歌声に、目が覚めました。

 あのまま、眠っちまったのか。みんながああして元気に歌っているってのに、俺と来たら……

 男の子に捕まってから、蝉は何も口にしていません。このままでは、蝉は寿命が来る前に、飢え死にしてしまいます。

 みんな俺の分まで、精一杯頑張って生きてくれよ、俺は、もう、ダメみたいだ……。

 蝉が全てを諦めかけたその時、不意にバルコニーの戸が開いて、男の子がベランダへ出て来ました。

「ごめんね。ひとばん中、せまい所にとじこめちゃって」

 男の子は涙声でそう言って、籠の蓋を開くと、蝉の体を手でつまみ出しました。

 助かったのか!?でも、どうして……。

 男の子が、蝉の体から手を離し、蝉はすぐさま羽を広げて、無我夢中で飛び上がりました。だけど蝉は、その時最後に男の子が口にした言葉を、はっきりと聞きました。

「ジョンの分まで、長生きしてね……」

 蝉は、どこまでもどこまでも、高く高く、飛んでゆきました。


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