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薄緑色の部屋は数十の電灯に照らされている。
光の注ぐ先には半透明のカプセルとそれに寄り添う少女だけがあった。
ケイマ邸のどの部屋より入念にセキュリティがかけられたこの部屋こそが、超高度機能人工知能型人工生命体ロボット、別名フランシス専用整備室である。
寒々しい静寂の中、少女は横たわる青年を見つめていた。
「傷つけてばかりでごめんね・・」
少女の指は、頬に触れて傷跡をなぞる。
青年は人形のように冷たかった。
* * *
トムキンスは落ち着かない様子であわただしくコーヒーカップを口に運んだ。
視線は明日の医療学会で発表する資料に注がれているが、頭に入っているかは定かではない。
それはニコにも分かった。
「先生・・飲みすぎです。」
恵永は恐る恐る19杯目を差し出す。
「やはりうまいな、君の入れる珈琲は。
世界中飛び回ったがここのが一番だよ。」
トムキンスは資料から目を離さずにカップを受け取る。
恵永とシャナは目を合わせて肩をすくめた。
「ねえおじさん、雪洞様が治療室にこもってからもう6時間だよ。
これじゃ雪洞様が倒れちゃうよ!」
ニコが苛立たしげにつぶやく。
「だから俺がこうして待っているんだろう、明日は久々の総会だっていうのに。
雪洞ちゃんに何かあったが倒れたらすぐ駆け付けなきゃいけないからな。」
「何かあったらってなんだよ!」
思わず立ち上がったニコを慌てて恵永が抑えかかる。
逆上した猫のように毛を逆立たせているニコを一瞥し、
トムキンスは珈琲を飲んだ。
「うまい。」
シャナがやれやれと首を振った。
「雪洞様が倒れたら、もともこもないのに。」
ニコが泣きそうな声で呟いた。
「唯一の僕の居場所が、なくなるのに。
雪洞様はフィニステールさんのことしか考えてない・・」
「それは違うよニコ、」
恵永は少年の栗毛をなでながら言った。
トムキンスは何も言わずに資料をめくった。
「恵永にはわからないんだよ、独りの世界は見たことがある人にしかわからないもの」
「そうかもしれない。
でも、そうじゃないかもしれないよ」
恵永は続けた。
「今はただ待とう。」
「ねえじーじ、りーぼはどうしてお兄様を作ったの?」
シャナがトムキンスの空のカップをのぞきこみながら尋ねた。
「んん?」
「シャナ聞いたことないよ」
シャナはぱっと顔をあげるとトムキンスを見つめた。
「俺も聞いたことない、というか考えたこともなかったけど。」
「あ、私もです。
・・・そういえば、昔ケイマ家にゆかりのある客人がお見えになったとき、フィンさんの顔を見てたいそう驚かれていたことがありました。
フィンさんは、ただの執事用ロボットではないのですか?
」
ニコと恵永も顔をあげてトムキンスを見た。
一同の視線を横目で受け止めると、トムキンスはきょとんとした顔で
「そうだなあ、作りたかったからじゃないのか」
と答えた。
「そ、そうですよね。」
「なんだ、おじさんも知らないの?」
ニコと恵永の溜息が響く一方で、
シャナはトムキンスを食い入るように見つめている。
ピピッという音とともに、ピンク色の瞳が大きく見開かれ
「嘘!知ってる!」
シャナはぶうっと口を膨らませた。
「じーじのケチ!顔に知ってるって書いてある!」
トムキンスは苦笑して
「おうおう、女の勘は怖いねえ」
と答えた。
「カンじゃない、ドクシンジュツ!
大人っていつもそうよね!」
「シャナ、また変な言葉を覚えて・・・」
「おじさん、知ってるの?教えてよ!」
ニコも身を乗り出して目を輝かせている。
トムキンスはとぼけた様子で
「君たち、こういうデリケートな問題は他人が軽々しく口にしちゃいけないんだよ」
と答えると、そそくさと資料を片づけ立ちあがった。
「いつも医療界の裏事情軽々しく口にしてるくせに・・・」
ニコの声をあしらうように手をふってトムキンスはドアに向かったが、走ってきたシャナに足をつかまれた。
「いやいや!家族は隠し事しちゃだめなの!りーぼ言ってたもん!」
「シャナ・・・」
頑として動かない少女を見つめると、トムキンスは屈んで
「ごめんよ。でもな、大人は矛盾した感情も持つ生き物なんだ。」
と困ったように微笑んだ。
シャナの目に涙が浮かぶ。
「ま、お前も大きくなったらわかるさ。大人の深さも、珈琲の上手さもな」
感慨深けに無精ひげをさすりながら、少女をなでようと手を伸ばした時
「あ、まずい」
とニコがつぶやいた。
次の瞬間
「うわーーーーーーーーーん!!!」
つんざくような泣き声が部屋中に響き渡り、
それを合図に部屋中の家具が宙に浮かび始めた。
「わああああああ!シャナ、ストップストップ!」
ニコが叫ぶ。
「お皿が!!東洋の特注工芸品が!!」
数十万の皿が砕けるとともに恵永の血の気も散っていく。
「し、シャナがやってるのか!?やめなさい!」
「うわーーーーーーーん!!!」
抱きかかえようとするトムキンスの手を振り払い、シャナはさらに泣き続ける。
テーブルに骨董品、花瓶に絵画と部屋中の装飾品が集まって渦をまき始めた。
「おじさんもう嘘でもなんでもいいから話してよ!!」
戸棚を抑えながらニコも怒鳴る。
「それはできない!」
「なんで!!?」
トムキンスも叫んだ。
「俺は理系だからだ!!
雪洞ちゃん、早く帰ってこいーーー!!!」
* * *
ロタは一人砂漠の真ん中に立っていた。
あたりを見渡すと、そこには茶色い砂がどこまでも広がっているだけだった。
遠くのところどころに黒いものが見えた。
目を凝らすと、何かの部品のようだった。
「ここは・・・篝?」
ロタはぼやけた頭を振り、風の吹く方向へ歩き始めた。
2011/05/17 (Tue) 16:43
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雪洞が整備室からでるとシャナがそれを待ち構えていた。
「りーぼ!どうして兄様を創ったの?」
「シャナ、雪洞ちゃんは疲れているんだ。」
トムキンスが止める。
「じーじは黙ってて!」
「また今度にしようぜ。」
疲れている様子の雪洞をみてニコも止める。
「そうやってまたうやむやにするつもりなんだ!
なんでみんなシャナの邪魔するの!?
りーぼ言ったの!隠し事はダメって!あれは嘘なの!?」
「シャナ…」
「じーじには教えててシャナには教えてくれないんだ!
うわーーーーーん!」
シャナはまた家具を浮かせた。
「シャナ…ごめん。
隠していたわけじゃないの。」
「じゃあ、話してくれる?」
家具がそっと地につく。
「ごめん、話せない。
……認めたくないの…。自分の中でもまだ整理がついていなくて。」
雪洞は下唇を噛んだ。
「嘘でいいから。」
シャナは懇願する。
「駄目。シャナは大事な家族だから、嘘はつきたくないの。それがどんな形であれ、ね。」
「りーぼ…。」
切なそうな表情でどこか遠いところを眺める雪洞をシャナは見つめていた。
トムキンスが少女の肩に手を乗せ、雪洞を彼女の部屋まで誘導した。
雪洞は部屋で一人、ベッドに腰掛け外を眺める。
彼女の気持ちなど知らないような快晴だった。
そう…あの日もこうだった。
まるで私を嘲笑うかのように…。
最初に彼に出逢ったのは雪洞が幼いときだった。
雪洞は身寄りがなく、一人であった。
そんな彼女を引き受けたのが彼の両親だった。
彼とその御両親は身体の弱い雪洞を実の妹や子のように可愛がってくれた。
振り返ってみればあれが少女にとって一番幸せな日々だったのかもしれない。
しかしその幸せも一瞬にして崩れ去る。
両親は亡くなったのだ。交通事故だった。
彼は偶々、車に乗っていなかったため無事だった。
後にそれはただの交通事故などではなく、彼の親戚による殺害だと判明する。
彼の親戚は一家全員を殺害しようと考えていた。
というのも彼の家は財閥の本家であり、莫大な財産をもっていたからだった。
対して親戚は莫大な借金を抱えていた。
遺産は勿論、彼一人が引き継ぐこととなる。彼の後見人も彼の親戚は適応者から外れ、どこかの法律家がなることとなった。
彼はあまり人を寄りつかせなくなったが雪洞にだけはとても優しかった。
彼女を学校に通わせ、まるで本当の兄のようだった。
雪洞も他人を嫌がるようになった彼のために、身体が弱いながら出来る限り、彼の身の回りの世話をするようになった。
彼は成人し、遺産は正式に彼の手に渡る。その途端、彼は降る程の縁談を持ちかけられ、人が彼に近づこうと集まってくるようになった。
遺産の継承が早過ぎた。あまりに彼は若かった。
経営の『いろは』の『い』もしらない彼に企業は動かせる筈もなく、気づいたときには会社の権利は全て他人へと渡っていってしまっていた。
とうとう彼は酒に溺れ笑わなくなってしまった。
彼は雪洞以外には全く会わず、一日中酒を呑み現世に絶望していた。
彼は口癖のように「この世界には居たくない」と言う。雪洞はある異世界への輸送システムを開発することを決心した。
篝が出来たが、篝は滞在時間の関係上、現実世界に引き戻さなければならない。
彼は精神分裂は気にしなかったであろうが、雪洞は彼を変にさせたくはなかった。
少女は開発を進め、やがて陽炎が生まれる。
動物実験をしていたのだが、まだ上手くいかなかった。
少女が大学から帰ると彼が見当たらない。雪洞は血眼になって探す。
最後に研究室を覗くと停止している筈システムが稼働していた。
まさか…。
雪洞の胸がざわつく。
嫌な予感は的中する。彼が陽炎の内部にいたのだ。
雪洞の必死の救出作業も虚しく、救えたのは身体だけ…。彼は帰らぬ人となった。
雪洞は遺体にすがりつき、泣き叫んだ。
雪洞は彼に笑っていて欲しかった。ただ生きていて欲しかった。
彼には雪洞が必要だったがそれ以上に雪洞には彼が必要だった。
少女には彼しかいなかったのだ。彼女の生きる意味は彼が生きているからだったのだ。
これなら…これなら、私も道連れにしてくれればよかったのに。
これからどうしていけばいいというの?
「雪洞ちゃん…」
彼の訃報を聞いて真っ先に駆けつけてたトムキンスが雪洞の背中をさする。
「ドクターー!どうにかしてっ!ねぇ、ドクターー!!!」
雪洞は泣き声で叫びながらトムキンスを前後に揺する。
トムキンスは悲痛な顔で首をよこに降る。
「あぁぁぁぁ…。」
雪洞は再び泣き崩れた。
トムキンスは何も言わず少女のそばに座る。
それから何時間たったろう…。
雪洞は放心状態のまま座りこんでいた。
目の前は真っ黒である。
今は昼なのかそれとも夜なのか…。
それすら少女はわからなかった。
しかしそのようなことは彼女にとって大した問題ではない。
問題は彼がこの世にいないこと、そしてその原因を作ったのは陽炎を開発した彼女自身だということだった。
悪意はなかった…むしろ彼のために開発していた…。
それが研究段階で…。実用化には達していなかったのに…。
「君が雪洞さん?」
「え…。」
死んだような目で雪洞は振り返った。
スーツをきた中年男性が立っている。
「これを前々から預かっておりました。」
そういって手渡されたもの、それは遺言書だった。
そこには全ての財産を雪洞に渡す旨がかかれてあり、彼の直筆の署名と印鑑がおされていた。
ぼーっと立ち上がりなんとなく引き出しを開けると見覚えのない封筒が見つかる。
封を切ると彼からの手紙だった。
『雪洞。
今までありがとう。一杯迷惑をかけたね。
このシステムも私のために創ってくれたのだろう?感謝しているよ
すまない…日記をみた…。プライベートなものだからみてはいけないとわかっていたし、見るつもりはなかったのだが、ノートを落としてしまって…。見てしまった。それでも見てしまったことには変わりない。すまなく思っている。
上手くいきそうでいかないようなのだね。私は此方の方面に強いわけではないからわからないが、君の日記にメモされた数字の字から、君が苛ついているのがよくわかるよ。
私はこれ以上この世界に居たくない。
だから、この異世界にこれから行こうと思う。
まだ研究段階なのはわかっているよ。でも私は君のシステムは大丈夫だと思うんだ。いや、信じたいのかもな。だって君は私のためだけに創ってくれたのだから。
駄目だとしても責任は感じないで欲しい。後追いなんかもってのほかだ。これからも君には笑って生きていて貰いたい。
私のことはもういいんだ。君は君の人生を歩んでくれ。私は君の将来を邪魔したくない。
君に幸あらんことを。
追伸 そして最後に願わくば君、雪洞が、立派な企業を設立してくれ。誰にも負けない企業を…。
そして私の家を潰した汚名を晴らしてくれ。
頭の良い君なら絶対できる。確信しているよ。
愛していたよ。』
雪洞は泣いた。泣いて泣いて涙が涸れた…。
そして彼に誓った。
世界一の企業を建てる、誰にも負けないと。
彼は企業こそ手離したもののそれでも莫大な財産を残していた。
彼女はその資金で彼の遺体をロボット化させた。
彼の遺体は脳こそダメージを受けていたものの他は驚く程綺麗なものであった。
そして残りの資金を企業の設立とシステムの開発に充てる。
彼との制約通り、これまで男性社会の中で肩で風を切りながら精一杯やってきたつもりだ。
私…ちゃんとやれませんでした。
ロタを守れなかった。社長として失格です。
貴方との約束、守れなかった…。
「申し訳ありません。」
彼女は窓際に立ち、空に向かって呟いた。
『敬語はやめろって。』
いつも雪洞に敬語を使われることを嫌っていた彼の声が聞こえたような気がした…。
2011/05/18 (Wed) 23:00
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その後陽炎に取り残された彼はどうなったのかーー
消えたのだ。
いくら失敗策と言え、輸送そのもの、つまりは心身の異次元化は成功したわけであったから
身体のみの回収後もなんらかの電磁波は残るはずである。
死んだわけではないのだから。
そう、死んだわけではーーー
そう信じた雪洞は必死で回路を探した。
一般人には一文字もわからないような何回な数式を駆使し、陽炎内にどこか異常な周波数は起こっていないか日夜調べとおした。
しかし結果はーーー
「異常、アリマセン。」
何度繰り返しても何度すがりついても、陽炎の人工オペレーターボイスの電気音は告げた。
彼女をめぐる日常世界が、何事もなかったように回り続けると同じように
陽炎の中にも何ら痕跡は残って居なかったのである。
かろうじて転送時のかすかな焼け跡が確認され
データの焼失ーーーーーそれは即ち、「死」を意味していた。
雪洞は誰にも、一連のことを唯一知るトムキンスにも、陽炎の存在は告げていなかった。
彼は実験の途中の事故で、くらいしか認識していないはずだ。
陽炎の存在を知れば、彼らはまちがいなくそれを「壊せ」というだろう。
明らかな危険物、彼女にとっても禍まがしい思い出のそれであったが、
雪洞はそれを壊すことができたなかった。
それは、ーーーもしかしたら、まだ彼が中にいるかもしれない
まじないにも似た空虚な希望が、そうさせてくれなかったのだ。
雪洞は結局、陽炎を誰も知らない北の海底へと埋めた。
今回リディアがどうやって陽炎を手に入れたのかは分からない。
陽炎は水を被った程度では壊れないけれど、この広大世界の8割りを占める海の一ヶ所をどうやって探り当てたというのか。
はたまた一から篝を似せて作ったというのか・・・
とにかく今は、ロタを探しにいかなくては。
「もう・・・」
雪洞はため息をつくと思いきり息を吸い込み、
えいっと顔を叩いて机に向かった。
固く閉ざしていた記憶の箱をゆっくりと開き始め、一心不乱に陽炎の解読コードを書きだし始めた。
横顔を写す窓の外には、いつの間に降り始めたのか真っ白な雪がしんしんと積もっていた。
*******
どれくらい歩いただろう。
ロタは背中で息をしながらどこまでも続く砂漠を歩いていた。
「暑い・・・」
メイド用のエプロンを脱ぎ捨てると、ロタがふぅっと息をついた。
「溶けそう・・・あぁ汗もすごい。これは帰ったらはやく洗濯しないと。」
自分に言い聞かせるようにロタはつぶやいた。
「大丈夫、きっとおじょうさまが助けてくれる。それまでに私に出きることをしなくっちゃ。
リディア様が何かして、おまけにこの感じだと・・・ここは篝よね?でも身体の感触はある。おかしいなあ・・・」
ロタは屋敷内の家事を一任されるだけあって、誰よりしっかりした娘だった。
おまけに気丈で、明るい。
「何か歌でも歌おうかな・・・」
負けそうな心を持ち直すように、ロタは故郷の民謡を歌ってみた。
羊飼いの陽気な歌だ。
「らん、らんらららん・・・・」
しかしいつまでたっても先は見えてこない。
篝なら、身体の負担は擬似的なものなはずだ。
しかしどうだろう、この張り付くような気だるさ、あがる吐息、段々動かなくなる手足。
まるで本当の身体みたいだ、ここは、どこ?
「あっ!!!」
呆けていた瞬間、ロタは足元をとられ前に倒れた。
転ぶ・・・!!
思わず目を瞑ったその瞬間、
ふわっ とした甘い香りがロタを包んだ。
くるはずの衝撃も無い。
感じるのは暖かい何かと、聞きなれたはずのーーーー
「大丈夫?」
ロタはうっすらと目を開けると、金色の髪を見た。
「フランシス・・・さん?」
まさか、こんなところに。それに・・・違うわ、目の色が違う。
「あなたは・・・」
そこまで言いかけて、ロタは力尽きたように眠りに落ちた。
青年はふっと微笑んで立ち上がると、
少女を抱えてゆっくりと歩き始めた。
「ようこそ。陽炎へ。」
2011/09/24 (Sat) 17:19
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雪洞はコードを書き終えた。
私がつくったのはこれだわ…
さて、問題はこれから。
あのリディアはこれをどういじったのかよ。
まさかこのままということはないでしょうね…。
いや、あのリディアなら有り得なくもないかしら。
まあ、これは悩んでも仕方ないわ。その内わかるでしょ。
それより、これからこれをどうするかを考えなきゃ。
篝のコンピューターにこのコードを入れるのは危険だわ。
このコードを入れれば、陽炎という世界を通してリディアのもつコンピューターと私のコンピューターが繋がってしまう。
篝のメインコンピューターには顧客のデータが何万とある。
それが失われては我が社の信用はなくなる。それだけで済めばまだいいほうだ。ウイルスでも送り込まれれば、篝利用者に精神障害を引き起こさせるか、篝から帰れなくされてしまうリスクがある。
今まで以上に多額の賠償金を支払うことになるだろう。
フランシスにまた、怒られてしまうわ。
少女は苦笑した。
髪の毛をかきあげ、雪洞は真剣に考えた。どう考えても他に手はない。
やはり『あれ』しかないようね。
少女は、ここ何年間、開けていないデスクの二段目の引き出しの鍵を開け、そこから、十字架の形のブロックを取り出した。
*****
フランシスはその頃、『ユメ』をみていた。
彼には今みているもの、それが現実に起こっているものでないことはわかっていた。
また、お嬢様が私の性格を再プログラミングしようと目論んだものだろう。これまで幾度となく試みたその計画は全て失敗に終わっている。
無駄だということを学習しないのだろうか。
馬鹿としか言えない。
雪洞は、フランシスの気の強い性格を嫌っていたわけではない。気が強いなかにも優しさがある。少女はそれを十二分に理解していた。しかし、『彼』に少しでも近づいて欲しかったのである。勿論そのようなことをフランシスが知る由もない。
そんなフランシスはこれが雪洞の仕業だと思いながらも、またこの『ユメ』に違和感を感じていた。
なぜなら、いつものパターンであれば『雪洞=可愛い』や『雪洞=か弱い』というイメージを植え付けたいのが見え見えなものだった。
しかし、これは…。
『ユメ』には、今より少し幼い雪洞と思われる少女がいた。
少女は覗き込むように上目使いでフランシスに話しかけていた。
「…大丈夫?横になってなくていいの?」
「ああ、大丈夫だよ。心配しなくて大丈夫だから。」
どこからか自分の声がした。
「元気ならよかった。でも無理しないでね。……がいなくなったら、泣くんだから。」
「大丈夫だから。」
また自分の声がする。
「絶対だよ。私と……の約束。」
「ああ」
「……。」
何かを嬉しそうに呟き、少女は彼の体に顔をうずめた。
フランシスはそんな彼女の頭を優しく撫でていた。
フランシスはそこで目が覚めた。
「はぁはぁはぁ…」
フランシスの呼吸は乱れており、尋常ではない量の汗をかいていた。
フランシスは汗で額にはりついている前髪を右手でかきあげた。
誰だったのかあいつは…。お嬢様か!?まさか!?気持ち悪い。
あれはお嬢様ではない。
断定できる。
いや、むしろそうであってほしくないのかもな。
あの方にはいつでも強くあってほしい。
そんな風に真剣にお嬢様のことを考えている自分自身に苦笑すると、フランシスは、重い身体を動かし、ベッドから起き上がった。
*****
雪洞は、彼女の部屋にある壁の前で立っていた。彼女は手で十字架を弄んでいた。
はあ、でもそんなこと言っても仕方ないわね。
決心して、少女は十字架を壁に押し当てた。
十字架は壁の窪みに綺麗にはまった。
ガコッと何かが動く音がして、センサーが雪洞ということを確認する。数十秒後、「ショウニンシマシタ」という無機質な声がし、床の扉が開いた。雪洞は陽炎のコードを書いた紙を片手に階段を降りる。
最後の一段になり、扉を開くと、そこには白いワンピースを着た女性が少女に背を向けて立っていた。キャラメル色をした長いストレートの髪の一部を編み込み、綺麗に纏めている。
彼女は扉が開く音に気づいて振り返り、丸い大きな眼鏡をかけた髪と同じキャラメル色の眼で雪洞をみてこういった。
「そろそろ来るころだと思ってたですよ、雪洞たん。」
思わず俯いた雪洞の顔を彼女は歩みより覗き込んだ。彼女の大きな丸い瞳に雪洞の少し不安げな顔が映る。
「鶺鴒(SEKIREI)…あなたは私を憎んでいないの?恨んでいないの?」
鶺鴒と呼ばれたその女性は雪洞が昔開発した意志をもつ、コンピューターである。それは意志を持つため、ユーザーが指示しなくても自身でデータを更新をし、知能が上がる仕組みだ。また人の形はしているが、実体はない。屋敷の中でしか『ヒト』の形を留めることができないのである。
雪洞は幼少から利発すぎる子であり、凡人には彼女の思考回路は理解できるものではなかった。
そのような中で人間ではないにしろ、鶺鴒は雪洞の良きパートナーであり、理解者だった。
いつも共に研究、開発を進めてきた仲であった。
しかし、陽炎の開発に関しては彼女は反対だった。彼女はいつの間にか開発者である雪洞の精神年齢を大きく上回っていた。
鶺鴒は陽炎を開発することは彼を逆に失うことになりかねない。リスクが大きすぎる。そして成功したとしても陽炎という世界を生むことは彼のためにはならないといい、協力しなかったのである。
雪洞はまだ精神的に幼く、彼に尽くすことを生きがいとしていたため、彼女の意見は聞き入れなかった。それどころか、強固なキュリティーシステムを導入し、彼女をこの地下からでれないようにしたのであった。
「憎んでも恨んでもないです。ただ…ただ鶺鴒は悲しかったですよ。」
意外な言葉に雪洞は戸惑う。その顔をみて鶺鴒は言葉を続けた。
「この何年か、雪洞たんはセキュリティーシステムを更新しなかったです。鶺鴒のことなんてもう忘れてしまったのかと思ったですよ。」
女性は哀しそうな目で遠くを見つめる。
「鶺鴒…。」
「さて、湿っぽい話は終わりにするです。この鶺鴒、屋敷の監視カメラなどから、現在の状況は把握しているですよ。」
「え…何があったか知っているの!?」
あのセキュリティーはこの空間を外部と文字通り遮断するものであった。情報を手に入れることはできない筈だ。
「ここ数年で鶺鴒は、人の姿ではこの空間を出れなかったですが、ネットワークを駆使して、情報収集くらいはできるようになったですよ。
雪洞たん、コードをみせるです。」
差し出された左手に少女は持ってきた紙を渡した。
彼女はそれをパラパラとめくり、そして目を閉じた。
鶺鴒の脳内でコードが組み立てられる。
彼女が目を開いたと同時にその右の手のひらの上には陽炎と思われる世界が立体的可視化される形で構成されていた。
「これは雪洞たんのにかなりアレンジを加えたですから、陽炎とは繋がってないですよ。それに陽炎より安定してるです。」
「リディアのもこのコードかもしれないじゃない」
「雪洞たん、鶺鴒を舐めるでないです。屋敷に設置された監視カメラの映像から全てみてたですよ。あれは篝をそっくりそのまま反転しただけだったです。」
「でも、あの周波数は…」
「だから舐めるなといっているですよ。あれくらいでダメになる鶺鴒ではないです。
あ…フランたんが起きたみたいですよ。」
鶺鴒が後ろを指した。
フランシスの映像が彼女の背後にうつる。
「ところで雪洞たん。ここを陽炎の空間に繋げる…いえ、陽炎の一部にすることはできるです。しかし、人体に負担がある陽炎は危険です。陽炎自体のプログラミングを変換できれば負荷を減らすことはできるですが、それは結果として、アシェンバート家とここを繋ぐことになるですよ。
それに、雪洞たんが身体ごと陽炎にとらわれてしまう可能性もあるです。」
鶺鴒は眼鏡を人差し指で押し上げながら言った。
「そこで、です。鶺鴒は雪洞たんに篝で精神を分離させ、そこからの介入をしてもらいたいと思ってるですよ。」
「でも篝は…」
顧客のいる篝と危険な陽炎という世界が繋がることは避けたい。
「それはわかっているですよ。
…何か考えるしかないですね。」
少しの間沈黙し、女性がまた口を開いた。
「雪洞たんと鶺鴒なら大丈夫ですよ。」
鶺鴒は不敵な笑みを浮かべる。
「そうね。最強コンビだもの。」
雪洞もニヤリと笑った。
2011/09/27 (Tue) 23:01