チョコレートドリンク×屋根の上で
そんな主人の姿を見ていたフランシスは、突如「失礼」と言って顔を近づけると
雪洞の額に手を当て出した。
ピピッ
と電子音が鳴る。
雪洞が黙っていると、
「心身の疲労により血中糖度が下がっております。
免疫力が落ちて風邪をひかれる前に、こちらを」
と言って車内のボードからチョコレートドリンクを取り出した。
雪洞は何も言わずにそれを受け取り、ぱくりと口に含む。
少し苦味のある甘さが、ふわりと口の中に広がっていった。
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雪洞はかろうじて焼け残った廃屋の屋根に座り、地上の喧騒を眺めていた。
「はは…」
さすがフランシスだ。
彼はいつも、人間の予想のはるか先にあることをやってくれる。
それに何度救われたことだろうか、と雪洞はもう一度、はは、と笑った。
そして、何故だか体が軽くなった気がした。
――そうか、篝は精神世界だから、心が暗くなると体も重くなるのね
なるほど、と思った拍子に、頬を涙が伝った。
「えっ」
と歪む視界に驚いて、慌ててそれを拭う。
「たまにはロボットも単純でいいかもしれないわね。
いっそ私もなっちゃおうかしら」
なんて馬鹿ね、と雪洞は笑った。
「んー、さて、この後どうしよう」
思いきり背を伸ばしてよしっと気合を入れると、雪洞は高速で思考を回し始めた。
「まずはサウスエリアの再建ね、頑張って一から耕してもらわなくちゃ。
『大災害からよみがえった不死鳥の街』、なんてフレーズをつけとけば
住民は単純だから大丈夫でしょう。
あとは自治会長の演説次第だわ、あの成金、頭は良いけど相応の報酬を出さなきゃ動かないから交渉が必要ね。
賠償金も仕方ないからだそうかしら。
なるべく他の都市に情報を公開させよう、おそらく公共セクターと民間セクターの連携が要になるわね。
時系列に合わせて強度を変えた連携方法を提案しなきゃ。
それから…」
篝に入る際、人々は同意書に押印が求められる。
『篝内で生じる一切の事に、弊社は責任を持ちません。
万が一外部世界、日常生活へ何らかの影響が出た場合も、ご自身による対処をお願いします。
また弊社では万全の安全体制を整えておりますが、篝内における財産所有権の強制的譲渡、理不尽と思われる剥奪行為、疑似自然災害の発生も事前にご理解の上…』
別世界には連れてってやるが、あくまで自己責任。
何があっても文句は言うな、というのが原則である。
しかし理屈と感情は往々にして異なる。
高額な慰謝料や雪洞の失脚を求めて訴訟を起こす者も、実のところ今回ばかりではなかった。
それでも大抵が事なきを得てきたのは、彼らにとって最も恐ろしいのはが篝の利用停止であるからだ。
『篝とは新しいドラッグだ』
以前どこかの社会評論家が、巻き起こる篝現象を批判して言った。
相応のコストさえ払えば、篝内では顔も体も自由に変えて生きることできる。
すなわち、それまでのしがらみや鬱憤から解放された新たな生活を
新たな議事世界で試行的に営むことができるのである。
加えて町や物質も、現実のそれより遥かに美しく、便利なものが多い。
それはそうだ、本物では無いのだから
そのため、その高額な料金から利用者層はまだ一部の富裕層に限られてはいるものの
一度その解放感を味わった者は、もう篝無しには成り立たない生活になるのだった。
しかし現在の篝は、掲げられている崇高なユートピア構想とは裏腹に
人間の欲望の吐き場と化してしまっていた。
「やっぱりそんな簡単じゃないわよね」
雪洞はぽつりと言葉を零した。
「それでも…」
――今更やめるわけにはいかない。
ようやくここまで来たのだから。
私は必ず、貴方の望んだ『篝』を完成させてみせるわ。
そしてもう一度、貴方とそこで笑い合うの。
そんな頼りない希望だけが、今の私を支えているんだから。