57.ハルと薔薇のひと(8)
押し問答の挙句、とりあえず勝った。
「まあ、わたしのものはハルのもの。ハルのものもわたしのものにいずれなることですし……」意味不明な言葉と、渋々といった表情とともに。
しっかり鍵を掛け、それでも不用心だとシュネーリヒトが軽々とハルの家全体に防壁を張り、ふたりは商人街へと戻ってきた。そのまま後ろ髪をひかれる思いでリジーのパン屋を通り過ぎ。
「ハルさん、よろしいんですか?リジーさんも喜ぶのでは……」
心配そうなシュネーリヒトに首を横に振る。
「リジーはわたしが最後までやり遂げることを望んでると思います」
シュネーリヒトは少し考え「そうですか」湖色の目を細め、そっとハルの頭に手を乗せた。本当は、リジーの姿を一目見てしまったら王城に戻りたくなくなるのはきっと自分の方だ。
「朧。お腹がすきました。植物図鑑を借りに王立図書館に行って、ついでにお昼にしましょう」
「楽しみです。やはりご一緒した甲斐がありました」
バスケットを軽く上げて見せると、シュネーリヒトは顔を綻ばせる。相変わらず変わった王族にハルは苦笑いした。
静まり返った王立図書館の奥の、さらに空気が張り詰めた奥の部屋。薄暗く人気がないのはあまり人気がない分野だからか。
「詳細な形状が図で載ってるのがいいです。ああ、その二冊隣のとさらにその隣の」
ハルは首を伸ばし、見える範囲で指示をする。悠々と書庫の上段で本を手に取るシュネーリヒトに口を尖らせながら。
「わたしだって」
「魔術はなしです」
即答された。
『浮遊』の魔術を普通に使い始めたハルをシュネーリヒトが慌てて止めたのは、ついさっきのことだ。周囲に誰もいないことは確認したし、いつものようにしっかりと誰にも目が触れないように空間を隔離もした。ただ、そう文句を言ったら一気に疲れたように「本当にどうして今まであなたに気付かなかったのか……」呟かれた。
「これは戻します。そっちの大きめのを取っていただけますか、はい、それです」
「植物がお好きなんですか?」
「……女子はそれなりに好きだと思いますよ」
索引に目を通しながら答える。
「ハルさんはどんな花がお好きですか」
普通の会話だと思う。けれどハルは一番嫌いな話題に、うっかり苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ハル、さん?」
「……嫌いな花以外は好きです。基本的に」
「そこまでその花が嫌いなんですか……まさか"シュネーリヒト"とか言わないでくださいね」
「好きです」
清々しくどこか冷たい鎮静の空気をまとった薔薇"シュネーリヒト"を思い浮かべ、ふわりと微笑む。薔薇は好きだ。まがい物のようなあの花とは雲泥の差だ。
「ん?朧?」
手で口元を覆ったシュネーリヒトの顔が赤く染まっているのを見つけ、本を受け取るのと引き換えに片手をすっと頬へ伸ばす。
「大丈夫ですか?あまり外出はなさらないんでしょう?今日は夏日ですから」
「い、いえっ、そんなんじゃなくて!ああ、わかっているんですけどね……花が好きだってことですよね。まったく、不意打ちすぎです……」
「朧?大丈夫ならいいんですけど。これとこれを借りることにしました。さっ、用事は終わりましたし、図書館の前の噴水芝生でお昼にでもしましょうか」
入口付近の貸し出しカウンターで、以前に作った貸出カードを提示して手続きをする。よく見かけるカウンターのお姉さんだった。ハルの隣に立つシュネーリヒトに一瞬視線を向けたが、いつも通りに職務を遂行する。すぐに手続きが終わり、片手にバスケット、反対側に図鑑二冊を抱えようとしたらひょいとシュネーリヒトに取り上げられた。
「……持てますけど?意外と力持ちですし、お昼が終わればバスケットに入れますから」
「そういう問題じゃありません。これはわたしの仕事です」
嘆息したシュネーリヒトはハルに本を渡す様子はない。
こっちこそ嘆息だ。
さっきの受付女性のプロ根性もこの美形の前にもたなかったらしい。シュネーリヒトはきっと知らないだろうが、ずっと彼の周囲に好意の視線を向けている女性が多々いる。さらに隣に普通にいるハルに殺意が送られていることも。
「……はぁ。せっかく変装できるんだから、もう少し無難な顔にしてくれればいいのに。ダロンさんとか。いいなぁ、絶対、楽」
「――――――ダロン?それ、誰です」
単純な独り言のはずだったのに、シュネーリヒトの声色が一気に冷気を帯びた。
「リジーのお兄さんですよ、ダロンさん」
「なるほど。それで……親しいんですか」
「……親しいでしょうねぇ」
雇い主のお兄さんだから。
さらには雇い主を紹介してくれた命の恩人でもあるし。
考えながら言うと、何を勘違いしたのかシュネーリヒトの視線が冷やかなものに変っていた。今日は赤くなったり色々忙しそうだ。
「そうですか」
地の果てまで落ちていた。
何が地雷だったのか、ハルには見当もつかない。けれど空いた片手をしっかりと握られて、シュネーリヒトはずんずんと歩き始める。
「え、ええ!?朧、朧!お昼はそこで……」
「嫌ですね。あなたとその男が一緒に歩いたかもしれないこんなところで、大切なお昼を食べたくありません」
「は!?」
どうやらダロンにおかんむりの様子だ。
「朧、朧!ちょっと、もしもーし!」
「絶対、嫌です。王城も嫌いですが、仕方ありません。屋敷で食べましょう。まったく油断も隙もありません」
「いや、朧。朧ってば!」
そうして、ハルの久しぶりの商人街への帰郷は早速終了したのだった。
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