56.ハルと薔薇のひと(7)
ハルは、久しぶりの眩しい太陽の光のもと、目を細め、しかめっ面で歩く。
決して、隣に一緒に歩いている、この町にも自分にも似合わない美形のせいじゃない。
「そんなに可愛らしい瞳で見つめないでください、ハル。溶けちゃいますから」
切れ長の湖色の目が静かに微笑む。
こそこそ眺めている女子達から歓声が上がったが、当の本人は至って気にする様子もなく、肩下の背丈の小柄な少女を見続けている。
「……前、向いて歩いてください。ここは王城と違って平坦じゃありませんので。朧」
「ご心配なく。周囲は察してます。いつ、どこからハルさんを危険が襲ってもわたしが守りますから」
極甘だ。朧に変装した彼を心配したのではなく、ただ単に商人街で目立ちたくないだけだなのに。いくら変装したとはいえ、庶民基準から大幅に外れている容姿はいずれも目の毒でしかない。
「朧に懸心中のすべての女の子を引き取ってくれるなら、全く構わないんだけど」
「だだ漏れです、ハル。わかってませんねぇ、わたしは他の女性方なんてどうでも良いんです」
のんびり言って、久しぶりに法衣から騎士の軽装に衣替えしたシュネーリヒトは忠告通り前を向いた。
ハルは瓶底眼鏡に三つ編みおさげ、質素な長袖ブラウスにサルエルパンツ、バスケットといったいつもの軽装で、町の中を逃げるように足早に縦断していく。
この微妙な状況は、心配事と調べたいことがあるからと一時帰宅を申し出た昨晩の結果だ。
「朧。ひとりで家に帰れます。大人なんで」
昨夜から、そう何度言ったことか。
「帰れるけれど戻ってこないという説は捨てきれません」
何度、その返事を聞いたか。
「わたしは誰も裏切りません。特にイルルージュ王子は」
何度、そう返事したか。本心だ。けれど、シュネーリヒトはどこが気に食わないのか、ますます眉間に皺を寄せ「絶対に、譲れませんから」と不明なことを言って、結局今に至る。今まで知りあいに会わなかったのが、せめてもの救いだ。
商人街の中心部を抜けると、小さな家屋がひしめき合う日中でもひっそりとした住宅街がある。二人並べば道を塞いでしまうほどの小道を入り込み、薄暗く雑然とした中をしばらく行けばハルの部屋があった。鍵を開け、何日かぶりに質素な部屋に足を踏み入れ、滞留した重い空気にそっと息を吐く。古書独特のカビの匂いと薄らとスパイスの香り。
「……ふう」
一緒に入ってきたシュネーリヒトに見向きもせずに、一週間以上放ってあった部屋の中を簡単に確認して回る。備蓄の食材、各種スパイス、両手鍋、寸胴鍋、そして小鍋。盗みに入っても誰も得しないようなものばかりで、それでもハルにとっては大事なものだ。最後に、壁際の書棚に近付く。
ぎっしりと詰まった書棚。花祭りのたびに少しずつ買い足したスパイスや実用的な古本が前面に並ぶ。
前面は。
瓶底眼鏡とバスケットをベットの上に置き、宙に文字を書き記す。
突然のことにシュネーリヒトが何事かと声を上げるのが聞こえたが、無視だ。
ハルの両腕に青白い血脈が浮かび上がり、電気が走るような痛みが全身を駆け抜ける。歓声と喝采と。彼らもまた"王城"という、もしかしたらあの特別な空間に怯えていたのかもしれないと思った。
「ハル」
静かにけれど怒気を含む声色に、ハルは振り返ることなくそれを完遂させる。
「ここは王城ではありません。それに、心配事がありまして」
宙空に浮かびあがった文字を攫うと、書棚へと霧散した。きらきらと、いつもより多めに降り注ぐ青白い光の粒は、書棚に触れるとまるで溶けたかのように吸い込まれていく。
そして前面の本が透け、後ろにさらにぎっしりと詰まった本が現れる。
「これは、リリアンベイリスの!まさか、こんなに……」
信じられないと、自分以外の魔術師を見つけた時と同じようにシュネーリヒトは呟く。
「さすが、稀少な大魔術師。"禁断の書"なんて相変わらず物騒な」
すべての青白い光の粒が消えると、前面の古本が現れ元の書棚に戻る。ハルはそれを確認して、一息吐き振り返ると、珍しく大きく目を見開き驚いているシュネーリヒトがそこにいて、むしろその様子の方が稀少だと苦笑いした。
「最初に見つけたのは花祭りの古本市でした。魔術の香りがしたので、探してみたら『術と式3』でして、組み込まれた式があったのでちょっと使ってみたら……あれはひどかった。今はこの世界にいない猫とやらのニャーっていう鳴き声がたまに聞こえるんです」
ずっと鳴いているなら、根源の本を探って何とかしようと考えるけど、『たまに』思い出させるように鳴く。『たまに』だから、根源が『術と式』によるものだと気付くのに、まず1か月もかかった。気のせいだと、難聴だと、あれこそ地味に姑息なあの魔術師にありがちな呪いだ。
「ハ、ハルさん?」
「ああ、すみませんちょっと回顧を。それからは、わたしの動ける範囲で古本市が開かれる際は行って、回収してるんです。中々……趣味で発動されたらこの上なく面倒ですからね。心配事は、わたしがいない間のあれらの管理でしたがこれで大丈夫でしょう」
しっかり印を付けたから盗まれたとしても行方はわかるし、そもそも、購入と同時にかけるハルの魔術によって条件が揃わなければ本を開くこともできない。
「まだあんなにあったとは……」
「多分、あの阿呆はわざとばらまいたんでしょうね。リヒト様の書庫がどれくらいの蔵書かわかりませんが」
「ハルさん、これらをわたしのところで引き取ります」
やっぱりそうき来たか。
「嫌、です」
「しかし、危険です!」
「しかしも何もありません。実際、盗んでもわたしの許可なく開けません」
折角、時間と労力と大枚と大枚と大枚!をはたいて購入した『呪われた本』をむざむざタダで譲るなんてできない。
「違います!危険なのはハルでしょ!」
手首を力強く引かれ、何事かと見上げた彼の目に宿る"思い"をハルは小さな痛みと共に、無視した。
「痛いです、シュネーリヒト様。なぜ、わたしが購入して収集したものをお渡ししないといけないんですか」
「ハル。リリアンベイリスは普通の魔術師ではないんです、あなただって知って……」
言い淀むその先に続くリリアンベイリスの評価は、"稀代の魔術師"ではなく"世界相手に楽しんで喧嘩を売る超危険な魔術師"と言ったところか。
「あれらが危険なことは重々承知ですが、わたしの研究対象です。それに、まず、わたしが本のせいで死ぬことは絶対ない」
「ハルはリリアンベイリスの魔術量を知らないからそんなことが言えるんです!」
「…………そう、でもないですけど」
「え?何かおっしゃいましたか?」
「いえ。どちらにしろ、お渡しはできません」
シュネーリヒトの"思い"。
この町に来て、リジーやダロンに会わなければ、一生ハルには理解できなかったに違いない。無償に授けられるものだとは知らなかった。
『心配』。
「わたしはもうハルを傷付けたくないんです」
何がそこまでシュネーリヒトをわたしに執着させるのか。
ハルは思う。魔術師だからだけではない『何か』。
「何であろうと、あなたを傷つけるものは排除します。たとえリリアンベイリスだろうと」
王族であり、契約終了後は会うことさえないだろうシュネーリヒトは何故そこまでこだわるのか。
まだ、ハルが知ることのない"想い"がそこにあった。
けれど、それに思い至る以前にハルはげんなりと思う。
「世界の脅威って……リヒト様、あの大魔術師と何があったんですか……」
いつも読んでくださってありがとうございます。この前の(6)について、わかりにくい文章進行だったので、ネタバレ含め解説を感想の方に入れてみました。ご指摘ありがとうございます。誤字・脱字等ありましたらお知らせください。引き続きよろしくお願いします。