54.ハルと薔薇のひと(5)
「ハル、大丈夫?」
嗚咽までは漏らさなかったものの、急に涙をこぼしたハルに慌ててイルルージュはハンカチを差し出す。仄かに香る花の匂いにハルは息を吐いた。爽やかな、それでいて太陽の匂い。
「す、すみません、お借りします」
「うん、気にせずどうぞ」
「……良い香りですね。"イルルージュ"ですか?」
「そうだよ。ああ、それにしても、ごめん。夜に急に来て……しかも泣かせて。はぁ、兄様にも怒られるなぁ」
「イルルージュ王子のせいじゃありません!この話を持ち出したのはわたしですから、気にしないでください、ね?」
「もう、大丈夫」と微笑み返す。稀代の魔術師のせいで、ロサ・エルを身近に感じていたから反応しすぎてしまっただけだ。確かに、小さなしこりは胸に残ったままだけれど。
「……よかった、あの時出会ったのがハルで」
ふわりとハルの目じりに残っていた涙を拭い、優しく翡翠色の瞳が微笑む。何ともないようなその所作にハルの顔は一気に熱を帯びる。
「あれ、熱でも……」
「なっ、ないっ、ですからっ、はい!」
子犬子犬子犬子犬、ハルは呪文のように心の中で必死に唱え続ける。
しばらくして呪文が効いてきたのか、ただ夜風にさらされ落ち着いたのか、冷却された顔を上げるとイルルージュは何事もなかったかのようにスコーンを食べていた。美形王子様効果に振り回される自分にげんなりとしていると、目の前にスコーンが差し出された。
「ハル、どうぞ」
「……作ったのは私ですけどね」
イルルージュに促され、自分で作ったスコーンを口に入れる。ホロホロと生地が口の中で溶け、甘味を抑えた中に苦いクルミの欠片がアクセントになっていて、自画自賛だが美味しい。よくよく考えてみれば、味見もしないでレインに押しつけてきたが、これなら何とかしてくれてそうだ。
「……本当は、ハルに謝りに来たんだ」
「え?」
「今日の、強引に孤児院へ連れて行ったこと」
「あ、あぁ……そんなの」
「"そんなの"じゃないでしょ!ハル、つらかったでしょ」
急に怒り出し、頭を下げたイルルージュに驚いて、スコーンを取り落とした。
「孤児院の話を前に聞いて、ハルにとって良い思いはないことはわかっていたのに。それなのに、無理矢理自分の目的のために連れて行った。ごめん」
レインの言った通り、イルルージュはわかってくれていて。
けれど、反対に"自分の目的のために"を突っ込むべきか、真剣に迷う。できれば、このままサラリと流したいところだけれど。
「イルルージュ王子、頭を上げてください。わたしはもう大人ですよ、大丈夫です」
その結果として、大量のスコーンが目の前にあるとは付け加えない。
「……ハル」
「友達が困っているときに助けるのは当たり前です」
「ありがとう、ハル。あーでも……友達以上でもいいけどな」
今にも抱きつかれそうな勢いで、翡翠色の目が輝く。本格的に子犬だ。
「それは兄様に怒られるからおいといて……で、ハル。それで、どう思う?」
「――――――どう、とは?」
「ダチュラ子爵、今日行った孤児院はダチュラ家が運営しているんだけど、何か変わったことはなかった?気付いたこととか」
残念なことに、どうやらすでに巻きこまれていた。
「……イルルージュ王子」
「ん?」
「……知っての通り、わたしは商人街の料理人です」
「うん。美味しいよ」
「そして確かに孤児院出身ではありますが」
「うん……」
「料・理・人ですよ?そのわたしが、何を異変に思うと?なぜか帝王学を学ぶことになってますけど料・理・人ですよ?これ以上、料理人に何を求めてるんです?」
「……ハル、もしかして怒って、る?」
恐る恐るそう子犬が尋ねるので。
「もしかしなくても当たり前です!わたしは普通普遍に穏便に過ごして一ヶ月後、リジの元に帰りたいんです!なのに、王子も王子も王子もっっ、好き勝手言って!一体、わたしが何をしたって言うんです!」
「……ひとり王子が多いような」
睨みつけた。
イルルージュ、シュネーリヒト、一番厄介な大元。計3名。間違いなく3王子。
「うっ、ハル……」
「ただひっそり、好きなお料理作って生きていけたらなぁなんて思ってただけなのに、……ああ、もしかして王子を怒ったって知られたら、不敬罪ですかね。死刑磔刑は免れたいですね。まあ、もちろんその前に逃げますけど。でも、これ以上巻きこまれたら無事に普通普遍に戻れるか、怪しいところだしな……」
「ハル、声、漏れてる漏れてる」
「……なんでこんなことに」
「そ、そういえば!兄様もハルも"普通普遍"にこだわるよね。思い出した、兄様だよ、昔『"普通普遍"こそ平和安泰そのものです』って言ってたの」
チラリとイルルージュを横目で見て。
"奇異な種族"ですから、と、その言葉を胸に飲み込んだ。イルルージュにとっては"魔術師"であろうとなんであろうと分け隔てなく、前置きなくシュネーリヒトであり、ハルでしかない。
「どっちが奇異なんだかわかりませんね」
苦笑いして、「勝手に行動を起こされたらそれこそ大変か」呟き、イルルージュに視線を戻せば、びくりと肩を震わせ。
「イルルージュ王子は何を知りたいんですか。ダチュラ子爵をどうされたいのです。それに対する覚悟は御有りですか?」
「……かく、ご」
「王子は王族ですから、どうすることもできると思いますけど。だからこそ、覚悟を持って臨んでいただきたいと、一般市民としては思いますね」
「覚悟」
一瞬、考えるように目を伏せ、けれどそれもすぐに顔を上げた。
「ある。わたしは民のための王族でありたい」
ハルは遠いどこかで聞いたそのフレーズに、静かに笑みを湛えた。
「とりあえず、こちらも材料が足りませんから、また明日来てくれますか?明後日でも、わたしはいつでもいいです。違うお茶会おやつをご用意しておきますよ」
イルルージュは嬉しそうに手を振り、待っていた騎士とともにいるべき場所へと戻って行った。
そして。
ハルは溜息ひとつとともにベルを上げた。
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