5.ハルと神様(4)
「そろそろかな」
すでにリジーの手によって発酵と整形が終わっていた。こう、2、3か月同じことが続くと、やっぱり暗黙の了解のうちに、月に一度の酵母菌育成日は焼かせてもらえることになっているらしい。信用されているのは嬉しくてたまらないけど、せめて前日に言っておいてくれればとも思う。いや、普通言うよね?
釜の中からきつね色に焼けたバケットを取り出し、熱さがミトンに沁みる前に木箱へと移動させる。熱が冷めないうちに次の種を釜の中に入れて、一息ついた。
「でも、でしゃばっちゃいけない。きっとこういうもの。リジーが言い忘れているだけのような気もするけど、師弟関係なんだから。うん、そうそう」
そう思うのは、まだ自分が"普通"だという自信がないからだ。こだわるのもおかしいだろうけど。「偏見を恐れている?今さら」自嘲気味に笑い、床の木目を見つめた。
身長170cm細身で抜群の体躯。太陽のように燦々と輝くブロンドの髪。澄ましたように整った顔。初めてリジーと会ったとき、わたしが作ったスープを一口食べて、何故か目の前で仁王立ちされて、なんとなく数歩後退てしまった。
『ね、わたしんとこ来ない?』
「は?」思わず出そうになった声を咄嗟に飲み込んで、気が付いたら彼女は人懐こい笑顔を向けていた。
『うちで働かない?』
『おいで』と一言目に声をかけたダロンさんと同じ血が流れてるんだなと妙に納得した。
リジーは、王城の許可を得た"普通以上の調理師"だ。彼女ならば貴族街でも働くことができる。ハルにとっては夢のまた夢。生まれ変わるまでありえない。なのに。
『わたしパン屋なんだけど、絶対合うと思う。ハルのスープ』
なのに、そんなリジーは即決した。
いとも簡単に。
三言目には昔からの知り合いのように『ハル』と呼び、ダロンさんがその突拍子もない申し出に苦笑いしていたけれど、第一印象で恐れていた差し出された手をそっととった。
『よろしくね、ハル』
決して、その手は貴族のような手ではなかった。荒れていて、ああ、ここにくるまでにどれだけ努力したんだろうと、そう不意に思えるような力強い手だった。
わたしの、スープ。
「……冷えてるといいんだけど」
井戸水で冷えた鍋の蓋を取ると、なみなみと白い表面が揺れた。大丈夫そうだ。
「今日は冷製のスープ?おはよ、ハル。早いねー」
顔を上げると、笑顔でリジーが立っていた。さっきまでの酵母菌中毒者っぷりは全くない。
「おいしそー」
金色のウエーブの髪をひとつにまとめてから、腰をたたむようにして鍋を覗き込む。細身のパンツに半袖のシャツ。彼女があの風船のようなダロンさんの妹だとはいまだに信じがたい。
「おはようございます、リジー。今朝、ダロンさんがジャガイモをたくさん持ってきてくださったので」
説明をしながら、リジーが持参したマグカップに濃く綺麗な白色のスープを注ぐ。
「急遽、ヴィシソワーズにしてみました。どうぞ」
「いっただきます!」
嬉しそうにマグカップを傾けるリジーに自然に口元が綻んだ。こうして何も疑われずに自分が作ったものを口にしてもらえる日が来るとは、思いもしなかった。
「おいしー!!!」
「よかったです」
「これ、好き!毎日これにしない?おいしー」
「……それはどうかと」
「えー、えー……じゃあさー、ねえ、ハル」
なんて首をかしげる。
「どうぞ。多めにあるんで」
リジーの手元からカップを受け取り、なみなみと注ぐ。
「えへへ。いっただきます!」
きっと、今日も良い日になる。
パンの焼ける優しい香りに満たされて、ハルも笑った。
『リジーのパンとスープのお店』
赤い扉を開けて、こんがりと焼けたプールとスープの形が彫られた看板を下げた。すでにナスタチウムの階段下に常連のおじいさんの顔があった。
「ハルちゃん、今日はなに?」
「いらっしゃいませ。今日は白パンとジャガイモのヴィシソワーズのスープです」
少し先にある広場の時計塔の針が間もなく12時を指そうとしている。
いつもの常連さんたちが次々とお店に入っていき、パンとスープを買って出ていく。
慌ただしい時間が始まった。
ここからあの時計が14時を指すまでは、戦場といっても過言じゃない。もともとリジーのパンは人気があって、ランチの時間だけスープをつけるようにしたら、さらにお客さんがたくさん増えたらしい。
よかった。リジーの役に立って。
すべては神様のために。
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