45.ハルと不遇の王(11)
毎日、エルはリリアンベイリスの部屋へやってきた。公務と授業の合間を縫って、ほんの数分でも会えるようにと塔の階段を駆け上る。本を読み、言葉や文字を覚え、通常の何倍もの速さでそれを習得していった。まるで言葉に飢えていたかのように、彼の目は次第に生気を取り戻していった。
両の足を除いては。
筋肉が落ちすぎ退化してしまった二本の足は、もう飾りものでしかない。本人が一番よくわかり、むしろ塔から出ることはないのだからと諦めているのに、エルはいつもそれを気にした。
「もし、外に出ることがあるのならば、わたしは誰かにおぶってもらわなければいけないな」
そう言えば、エルは「あまり身長を伸ばさないでくださいよ」自分より少し身長が高くなったリリアンベイリスを一瞥して拗ねたように言った。
いつものようにエルの王族に対す不満を聞いていると、不意にリリアンベイリスの長い銀糸に冷たい指先が触れた。急に近付いた太陽のようなまぶしすぎる輝きにリリアンベイリスはそっと顔を背ける。
「あなたは、わたしの名を呼んではくれないのですね、リリアンベイリス王子殿下」
図星をつかれて、また真剣な声に、きっとあるだろう真摯な瞳を恐れてリリアンベイリスは顔を上げることができなかった。
「何を恐れているのです、あなたがこの国の真の王であるというのに。何が"呪い"ですか。あなたは生まれる前から真の王なのです」
「――――――……お前の方が相応しいだろう。それに、現王には子どもがたくさんいると……」
「何をおっしゃっているのです!」
大人になるにつれ、感情を表に出さなくなったエルのその荒げた声に驚き、がっしりと両肩を掴んだエルに、うっかり驚いて顔を上げてしまったことを後悔した。思った通り、そこには初めてあったときのような真っすぐな瞳があった。
「わたしは魔術師、忌み嫌われるものだ」
エルの肩越しで一年以上も枯れない薔薇の花が、リリンベイリスの感情に反応するかのようにふわりと揺れた。
「それでも。あなたは王です」
「塔から出られない王など、いないも同じだろう。生まれた時から塔で過ごしてきた王に何ができる」
リリアンベイリスは嘲笑を浮かべ、けれどエルの瞳は澱みない。
「わたしはこの国の誤りを変えたいのです。かつて、この国ではその力をもった者の方が多かった。わたしたちは元を正せば同じウィザードの民なのです。なのに今は迫害され、そして……」
エルは何度も熱く語った。"何故そこまで魔術師の処遇を変えたいか"は、何度尋ねても誤魔化すばかりで話そうとはせず、寂しそうに、悲しそうに「それだけです」いつもそう言って、結局、流されてしまう。
「どうしたら殿下はわたしを信じてくださるのでしょうか。わかっております、私たちが殿下にしたことは到底許されることではないと」
エルがしたことではない。リリアンベイリスが生まれた時に、彼はまだ生まれていなかった。なのに一人でその責務を負おうとする。まだ一般の民からしたら保護対象である、幼き子どもであるのに。
真っすぐで、他人を思いやり、この王国の未来を案じ。エルこそが王に相応しいと、リリアンベイリスは思う。自分よりも。見たことも、これからも会うことはないであろう下の兄弟よりも。
「お願いがございます」
リリアンベイリスは、すでにエルを信じている。ただそれを口にしてしまうと何かが崩れて行きそうで怖いだけ。生まれて以来、失うものなど何もないのに。
「御髪をひと房いただけませんか」
「……おぐし?」
返答も待たずにエルはベッドの端に座っているリリアンベイリスの背後に回り込むと、サラサラと流れる銀糸に触れた。
「髪です、髪。いいでしょう?こんなにお美しいんですから」
うっとりとした物言いに、別に否定することもなく小さく頷く。嬉しそうに彼は所持していた王族の紋章が彫られた短剣で大切そうに切った。なんとなく軽くなった後ろ髪にリリアンベイリスは嘆息し、彼の冷たい指先が銀糸で遊ぶのを許した。
「そうそう、ご報告を忘れていましたが、ベータが攻めてきました、殿下」
手中に銀糸の束が収まったところで、彼は何ともないように告げる。
「わたしがウィザードを率いることになりましたので、ちょっと行って参ります」
「ベ、ベータ?」
「隣国です。この間、各国のことはお話ししたとは思いますが、結構な頻度で挑発されていたんですが、とうとう土足で踏み込まれまして。現王も王弟もご自分の資産を増やすことと隠すことしか興味がないようですので、従兄兄弟の中で一番年長のわたしが出ることになりました。一週間ほどで戻ります、それまでにウィザード歴史大全をお読みになってくださいね」
信じている。
「殿下、わたしは負けるつもりはありません」
銀糸をハンカチに包み、そっと胸元に仕舞うとエルはやはりサラリと言い捨て、颯爽と立ち上がり法衣を翻す。ひとつに結わいた金色の髪が背中で揺れた。
エルは気付かない。その様子をリリアンベイリスがいつも眩しそうに見ていることを。
リリアンベイリスに戦況を知らせる者はなく。
次の日、リリアンベイリスは誰に言われるでもなく、食を絶った。まるで願いを叶えるための糧として。太陽が上がり、夜の帳が下りて、指折り数えていたリリアンベイリスは急に不安に駆られた。8本目を数えたその日。
「お前は約束を違えたことはなかった」
リリアンベイリスは塔の格子窓から高く昇った太陽を見上げ、浮かびつくままに宙に文字を書き記していく。
「エル」
青白く文字は輝き、リリアンベイリスの周囲を楽しそうに嬉しそうに回った。長い長い文字、それは式となり。
「エル」
どうか、そのぬかるみがお前を助けますように。
どうか、その薔薇の花がお前の援護をしますように。
どうか、風がお前の前に立ちはだかる敵を蹴散らしますように。
どうか……――――――!
リリアンベイリスの体を歓喜と喝采が駆け抜ける。熱く、血脈が青白く浮かび上がる。
「ああ、これがわたしの力」
途方もなく湧き上がる熱さと痛みを認識した時、歓喜も喝采も遠いところとなり、リリアンベイリスは口元に生まれて初めての笑みを浮かべ塔の上、高くに昇った太陽に全力を注いだ。
「エル。お前以外に王はいらない」
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