37.ハルと不遇の王(3)
どうやらキャベツのスープは好評だったらしい。
残ってしまうのはもったいないとハルに嘘泣きの涙ながらに懇願された騎士は、最初は恐る恐るハルのスープを少量口にして。その一口に顔がかなり青ざめていたけれど、ハルは見なかったことにした。考え込むようにした後、もう一口。
「ああ」
騎士は確かにそう声を漏らした後、次々に口に運び、最終的にスープボウルを空にした。そうして、急いで詰め込むようにハルが食べ終えた王城の料理人作った料理の皿をワゴンに乗せると、感慨深そうに考え込みながら去って行った。
もちろん。
「今まで食べたことがないものばかりで、とてもおいしいです。だけど私ごときにご面倒をおかけするわけにはいかないので」
昼食以降の今後の王城の料理は丁重に断り。これで昼食以降は好きなだけ好きなものを料理れると、ハルは上機嫌で部屋に戻った。
「あんなに良い食品庫を持ってて使わないなんて、ありえないでしょう!ああ、いまから楽しみだなぁ……」
リジに負けず劣らず、ハルはうっとりと宙空を見据えた。
濃紺の長袖のワンピースに漆黒の黒髪をきっちりひとつにまとめ、分厚い眼鏡をかける。傍から見ればその格好は地味で地味で地味で……、年頃の子女なら絶対嫌がるに違いない。けれどそれを身に付けた当の本人は、明らかに納得し、むしろ歓迎さえしていた。
「ああ……地味。目立たないってスバラシイ」
サイズがぴったりなのは、とりあえず放置して、ハルは多分シュネーリヒト王子が用意したのだろう地味でシンプルでそれでいて布地は肌触りの良い最高級物のワンピースを着て、うっとりと鏡の中の自分に向け呟いた。
同じように用意されていた白いレースのエプロンを掛け、それほど高くない踵の黒い靴に履き替える。
「目立たず目立ちすぎず。普通普遍最高」
呪文のように朝の一言をいつものように繰り返す。すでに普通普遍は破られているけど、その中でもどちらかといえば"普通"に偏っていたい。
「それにしてもこの服は明らかに"姫様"じゃないでしょう。もっとも影の薄い侍女さんってところ?うん、さてはふたりして楽しんだな。どうしよう、もっと本を持ってくるんだったなぁ、試してみたいのがまだ残ってたのに……ああ。だれか近づいてくるなぁ」
規則正しい歩幅。廊下に当たる硬い靴音が響いているけれど、今はまだ遠く。
のんびりと扉を見据えながら、ハルは家から一冊だけ手持ちにしていた『術と式8』を後ろ手に抱える。
「なにがあるか、わからないからねぇ」
例えば。この部屋ごと吹き飛ばすような何かが、例えが物騒だけど、よくよく考えてみればイルルージュ王子暗殺の主犯が野放しになっている以上ありえない話じゃない。そうなった場合、自分の雀の涙のような給金で購入した本だけは死守したい。
そもそも。
稀代の魔術師が書いた本を、この世に送り出したくない。
「なにが起こるか、見当もつかないですからねぇ」
踊る花ならまだしも。(しばらく消えないだけだから)
風の魔方陣、制御なし10連発とか。
床が底なし沼のように柔らかくなって溺れるとか。あれは救いがあったけれど、底なし沼(仮称)の縁に藁一本。突然、出現したそれに藁をもつかむ思いで……
「……結局、藁は藁。藁一本。ああ、どう考えてもどれもひどすぎる」
彼が書いた本に誰でも発動できる魔術を発見したときは、その力を同族として讃えるより何よりも怒りを覚えた。その意図など知りたくもない。この世の普通普遍を簡単に壊そうとする彼に。後世の魔術師をどうしてそこまで陥れたいのか。稀代の魔術師はバカじゃないことなどとっくにわかっている。
彼の作り出す"術"も"式"も。
一寸のぶれもなく完璧で、何よりも浮かび上がる文字式は泣きたくなるほどに美しい。
一定間隔で近づいていた靴音が扉の前で止まり、稀代の魔術師に思いを馳せていたハルは、一気に現実に戻りため息をついた。
「……よく考えてみれば、なんでわたしが稀代の魔術師の尻拭いを」
本当は。
稀代の魔術師の真実が知りたい。
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