35.ハルと不遇の王(1)
商人の朝は早い。
どうやら朝でも夜でも薄暗いと思われる廊下に、薄らと香辛料の香りが漂っていた。
その、さらに1時間前のこと。
「ぉぉぉぉぉぉ…………」
ハルは後ろでひとつに結んだ漆黒の長い髪を、肩越しに垂らしながら覗いた保管庫の中身に感嘆を漏らした。けれどすぐに氷で冷却された保管庫の扉をしっかりと締めて、首を傾げる。壁際の丸椅子に座らされた巨大なクマのぬいぐるみが、ぎこちなく傾いた。
「お、お宝?」
あるごく一部の人間にとってはそれに違わず。
さらに反対に首を傾げると、顔よりも大きな不格好な瓶底黒ぶち眼鏡ナンバー2が傾いた。
「むう」
閉めたばかりの目の前の保管庫の中には、ぎゅうぎゅうに押し込められた"燻製の肉塊"と"燻製のチーズ"。その上に各種香辛料の紙袋。思い返しただけで涎が垂れた。
真横に塵ひとつ焦げひとつない新品の窯と寸胴鍋。大小それぞれのボウルに杓文字、菜箸。まるで早く使ってと言わんばかりに新品で。
「まさか」
"ハル"
「ほ、本当に?」
"ここでわたしのために作って、一緒に食べてください"
思い至った昨日の言葉に、真っ赤に染まった頬を両手で押さえた。
「まさか本気だったとは……よくわからないひとだなぁ。あの綺麗すぎる顔に他人を惑わす効果があるんだろうな」
と、勝手に判断しながら、みずみずしく張りのある大玉キャベツの外皮を一枚剥く。
「……良い季節になったなぁ」
早速、話題はすり替わり、ハルは「ほう」としみじみと息を漏らした。ザクリと大玉キャベツに力を入れて四等分。寸胴鍋の底に置いた燻製肉ブロックの上にこんもりキャベツを乗せる。隙間がないよう詰める詰める、さらに詰め切って、バターをひとかけ、頂上に月桂樹の葉を一枚。最後に一仕事終わったとばかりに蓋をキャベツの上に乗せた。
弱火に火を落とし、巨大なクマのぬいぐるみを抱きしめながら丸椅子に座って鍋を眺める。
「喜んでくれるかなぁ。あの謎の不審者さんは」
ひとり、くすくすと笑って夜が明け始めた茜色の空を窓から見つめた。高い外壁が近く、その先の眼下に懐かしい町が広がっていた。
花祭りの前には思いもしなかった事態。一生、関係ないと、関係したくもないと近づきもしなかった白亜の城の中に自分はいる。しかも、ありえない。
孤児が王城の中で料理を作っているなんて。
"ここでわたしのために作って、一緒に食べてください"
だけど、きっと。それは真実なこと。
「うん」
本当に彼がハルの料理を気に入ってくれているのだということ。
それだけで。
それ以上は何もいらないけれど。
わたしは料理人として、ダロンさんとリジーとそして。彼に認められたのだろうから。
「変わったひと」
どれだけ自分が信用されているのか、それとも一挙手一動がシュネーリヒトに筒抜けなのか定かではないが、昨日、ふたりの王子はなんとなく微妙な空気とともに去って行き、そのあとこの屋敷にはハル以外の誰もいない。
仮にも、シュネーリヒトは王族なわけで。それを狙う者だと勘ぐらないのか。それとも彼には容易く処理できると確信を持っているのか。
「きみのご主人さまは帰ってこないねぇ」
寸胴鍋の蓋がしっかりと鍋の淵に落ち着いたのを見計らって、鍋をゆするためにクマに席を譲り立ち上がった。
ふわりとキャベツのみずみずしくて甘い香りが、真新しい台所に漂う。もうひとつの保管庫からフレッシュチーズを取り出し、ふわふわの白いパンにたっぷりと塗りつけた。そのうえに皮をむいた謎の黄色い完熟フルーツを一口大に切って乗せる。
「一緒に、って言わなかった?あの不審者は」
昨日、昼食と夕餉がハルの部屋に騎士によって運ばれてきた。そもそも、食事を運ぶのは彼の仕事じゃないだろうに、物言わぬ若い騎士はぎこちない動作でハルの前に食事を並べ、その後、壁と化した。ハルは初めて目にする豪華な食事を、作法に戸惑いながらもすっかり食べ終わると、食器を下げてワゴンごとそそくさと引き揚げて行った。
王城から隔離するように置かれた側妃の子、シュネーリヒトの屋敷。突然現れた謎の少女に食事を運べと指示されたら、戸惑うだろうけれど。
それにしてもと思う。
「冷たい食事」
そして。
この屋敷にひとりっきり。
ふう、とため息を宙に吐き出し。
「朝ごはん、できますよー」
遠いどこかへ向かって呟いた。
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