34.ハルと魔術師(6)
「イルルージュは狙われています」
さっきまで甘い声で囁いていた、はず。一気に底辺まで落ちた冷たい声で耳元に囁かれる。囁きも頬に触れる吐息も変わらないというのに、天と地の温度差にハルは項垂れた。
"項垂れた"、そんな余裕が出てきた自分にさらに肩を落とした。明らかに"普通"は遠のいてる。
「驚かないんですね」
「すでに誘拐されてるじゃないですか。夜な夜な襲われてるじゃないですか」
そのどちらも自分が関わっているわかりきった墓穴は、敢えて口にせず。
「理由をお伺いしても?」
「残念ですが」
「つまり、王位継承権以外にもあるってわけですね。続きをどうぞ、朧」
「ああ、ハル!理解力の早さが完璧です。ああ、やっぱりイルなん……」
「つ・づ・き・を・ど・う・ぞ?」
綺麗な湖面がじっと見つめているのがわかった。
「なんでわかってくれないんですかねぇ。まあ、まだ時間もありますからゆっくりと」
本題に入るのに一体、どれだけの時間がかかるんだ、ハルはシュネーリヒトが何かつぶやいているのを気にも留めず、背中越しに文字を書こうと手を開く。
なのに。
シュネーリヒトはハルの体を強く抱いて、それを止めさせた。
「わたしの前でその力を使うことは許しません。その怪我がどれほどだと思っているんですか」
「でも」
「ハル」
言い返すのにはわけがある。使うのにもわけがある。
「……兄様」
その声にシュネーリヒトはピクリと肩を震わせ。
「時間切れだったので、隔離しなおそうと思ったんですけれど」
ハルはそう冷たく言い放った。
燃えるような赤い髪の少女を抱きすくめる、自分の兄。いきなりそんな光景を目にしたイルルージュの翡翠色の瞳が見る見るうちに大きく丸く広がる。
が。
その光景がハルの目の前からいきなり消えた。
「あなたとの大切な時間ですので」
「……他人に規制しておいて、自分で軽々使うってどういうことです」
無論、その力を行使したのは、この部屋にいるもう一人の魔術師。
「怪我。治らないのならずっと王宮にいてもらうだけの話です」
サラリと、こういうときだけ見事に誰にでも察知される素敵な笑顔を浮かべて彼は言う。
ああ。
投げ遣り気味だが、観念した。彼に勝とうと思う方がきっと間違っている。いや、戦いを挑む時点で間違えてる。
「はぁ。代償は大きいな……じゃあ、朧。今までのところを復唱しますので、違うところがあったらおっしゃってください」
「は?はい」
まだ抱きついたままなのが若干、気になるけれど、もういいや。
「朧の前では術を使わない」
「はい。というより、王城にいる限り使わないこと。わたしでも手出しのできないことがありますので」
「……わかりました。契約内容の詳細は別にして、イルルージュ王子殿下とできる限りご同行すること」
「ええ」
「期間は1か月」
「それ以上でも結構ですが、まあ、取り急ぎ、はい。それだけいただければ何とでもします」
そう言い切った最後の言葉は、いつになく真剣で。深い湖色の瞳は、獲物を見据え鋭く細められていた。
きっと何物にも代えがたい、シュネーリヒトの真実の姿が今なのだろう。
それだけ義弟を大事にしていて。
イルルージュが幸せであることがシュネーリヒトの幸せであり、忌み嫌われる者として生まれた彼の生きる糧なのだと思った。
そうして、ハルは緩んだシュネーリヒトの腕の中から抜け出し、空中に浮いていた文字式を攫い消した。
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