31.ハルと魔術師(3)
「おぼ……もぎゅ!?」
咄嗟に口を塞がれ、その手の冷たさが伝わり余計に気恥ずかしい。
「それでは、ふたりでいるときはリヒトで、仕方がないので他の人間がいるときは朧ということにしましょう。さ、決まったところでイルがそろそろ律儀にも100文字にまとめそうですから、本題に入りましょうか。ハル」
反論できる雰囲気はもうなかった。時々、瞬時に意図して変えられる表情に、ハルはげんなりとうなだれる。彼、シュネーリヒトにとってこの話題はすでに遠い過去で、決定事項なのだから。
そもそも、他人がいるときに意味不明な名前を呼ぶってどうなんだろう。しかも自称王族じゃなくても明らかに王子様に向かって。
「わがままです」
「なんとでも。王族ですから、これくらい赦されるでしょう?」
「……やっぱり、王族なんじゃないですか」
さっきまで自分は王族じゃないと言い張っていたはずなのに。けれど、揺れる、湖の深い青をした瞳にそれ以上突っ込むこともできず、仕方なく確認も含めて呼ぶ。
「そうすると、この場合は朧?それとも……りひと様?でしょうか」
「――――――っ!?」
まさか、さらっと流すように声に出したその名前に、見えない頭上で過剰に反応されているとも知らず、ハルは緩んだシュネーリヒトの腕の中からもがき出ると久しぶりに地面に立ってひとり胸をなでおろす。
「やっぱり、一応、イルルージュ王子もいるし、朧で……」
確認の意味も含めてシュネーリヒトを見上げる。
「え?」
口元を押さえ、ハルの見た目には赤く顔を染め、今まで以上に艶やかな表情をしたシュネーリヒトがいた。むしろ反対にこっちがうっとりしそうだ。
「はい!?それ、ズルイです!」
「あ、の、ず、ずるい?」
男性なのに、ここまで艶やかになれるシュネーリヒトの美形っぷりに一歩慄きながらも「まさか」と一応尋ねる。
「あの、急に熱……」
「ッ、ちが、い、ますっ」
かなり微弱な反応しか毎回よこさない彼にしては珍しく、慌てて「かんべんしてください」小さく付け加える。仕切り直しということなのか、コホンと小さく咳をした。勘弁してほしいのは数日前からこっちの方だ。
「……ハル。絶対に人前ではわたしの名前を呼ばないでください」
「はぁ。ってことは、今は朧でいいってことですね、りひと様」
「ッ!だから、ハルッ!」
「えええええ!?なんで、なんでですかっ。なに、何がだめでした!?」
「…………いい、です。よおくわかりました。この話題を引き摺るのはわたしの精神がもたないってことがよく」
「……まったくわかりませんけど」
まだうっすらと赤く染まったままのシュネーリヒトの表情が、むしろ心臓に悪いのは自分の方だと思う。なんなんだ、一体。
「本題に、そう、本題があるんですよ」
「あ、それなら朧。その前に確認したいことがあるんですけど」
「時間はありませんから、後に……」
「そうはさせません」
シュルシュルと思い起こした文字を宙に書き記す。止めたところでフワリと浮かんだまま青白く光り霧散した。辺りの空気が張り詰め、ぶつぶつとついさっきまで100文字にするべく呟いていたイルルージュの声はもう聞こえなかった。
隔離された"時間"。
「ハル」
一変して訝しげな表情で、それでいて眉間に皺を寄せ、シュネーリヒトは怒気を含んだ声でまるで諌めるように名を呼ぶ。さっきまでの艶やかな彼を一瞬で忘れさせるほどの表情に、ハルは苦笑いしながら聞き流した。
「そんなに簡単に魔術を使わないでください」
「あなたに言われたくない、朧」
それが大切な人のためだとはいえ、彼がここまでに使った魔術の負荷は相当なはずだ。わたしがそうであるように。この傷がいつまでも癒えず、本来の赤い髪がカモフラージュしていた黒髪に戻せないように。そこまでして。
「なぜ"朧"となってまでわたしの元へ来たんです」
本題、と。後にしてほしいと、それが逃げ道であることなどすぐにわかる。
「言い変えましょうか。わたしをどうするつもりですか」
自分で言って、優しくされたあの時間を思い出して胸がきりきりと痛んだ。
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