29.ハルと魔術師(1)
「いやあああっっっ!!!」
静寂の早朝。とある外見だけは豪華な屋敷の、ひどく少女趣味の激しい一室から悲鳴が聞こえた。
近くに聳えるように造られた白亜の壁付近を巡回していた衛兵が、瞬間、目を向けるが、その方向にあるのが件の屋敷だとわかると顔色を一変し、足早に去って行った。
そんな少女趣味の一室に。
「ど……」
白を基調とした柔らかい色調の小花模様の壁紙。ベットにはレースがふんだんにあしらわれた天蓋がおりている。窓際の小机、コンパクトなクローゼット、ソファ等々、この部屋の全ての家具は上品でいて丸みのある可愛らしい調度品。多分、それなりに高価だ。
「どこに稀代の大魔術師なんかの夢を見る"普通の人間"がいるって……イタッ!!!」
再度、ハルの悲鳴と、鈍い音が可愛らしい部屋に響いた。
勢いよく上体を起こし、同時に前頭部に鈍痛。続いて背中に激痛が走り、顔を歪める。
「うぅ、いたい……」
四方からの激痛がハルを現実に引き戻す。汗をびっしょりかいたワンピースに顔を埋めて耐え、悪夢の果ての荒い呼吸を整えた。
「……ゆ、ゆめ。よりによって大魔術師の……」
「…………ハル。よく……石頭って言われませんか」
「ふ、ふあっ!?」
恨みがましい声に咄嗟に顔を上げるとそこに、顔を顰めてるのにも関わらず、どこまでも美形のイルルージュの兄がいた。おでこが赤い。
「ア、アアアアアル……」
「間違ってますよ。アルバータなんて失礼にもほどがあります。おはようございます。そしておやすみなさい、ハル」
「え?」
有無を言わさぬよう一気に告げ、素早くけれど丁寧に優しくハルをベットに横たえる。
ふかふかの羽根布団に軽いハルの体が沈み込む。サラリとしたシーツに火照った顔がさらされ、何ともいえず気持いい。
「じゃなくて」
うっとりと目を閉じかけたところで慌てて飛び起きる。今度はしっかり避けた。
「こ、ここはどこですかっ」
自分の家ではないことだけは確かだ。
洗濯物が天井から吊ってあるならまだしも、吊ってあるのはお姫様のような天蓋。ベットに置かれたのが、カビ臭い『ウィザード歴史大全』ならともかく、光沢のリボンが付いたもふもふのパステルカラーの花柄クッション。ついでに、ちょっといびつな継ぎ接ぎの巨大なうさぎのぬいぐるみ。
「どこって、わたしの家です」
完璧に少女趣味の部屋が?
「あの……ほ、本当に?」
「ええ。どこかおかしいでしょうか」
あなたの趣味が、とっても。
だけど、どう見ても至極真面目な面持ちで答えている彼に、こんなに可愛らしい部屋が?とは突っ込めなかった。世の中には色々な人がいるんだろう。うん、きっとそうだ。
「いえ、どこもおかしくないです」
口の端が若干引き攣ってしまったかもしれないが、そのあたりは勘弁して欲しい。
「ならいいですけれど……イルの部屋で倒れたまま置いておくわけにはいかないので、取り急ぎここに運んだんです。この屋敷ならわたしの許可なく誰も入りませんし、そもそも近寄りませんからね」
「ふ」と息を吐くように。
「魔術師なんてそんなものでしょう?」
そう、自嘲気味に嗤った。
真っ直ぐにハルを見つめる深い湖色の瞳は、何を憎むでもなくただただ悲しそうで。
魔術師をひた隠しにして生きてきた。死に物狂いで"普通"を死守し、結局、こんな事態を引き起こしたけれど。けれど、孤児院でひっそりと生きてきたわたしにはわからない。
不意に手を伸ばして届く距離にある、彼の顔にそっと触れた。
一瞬、驚いたように小さく目を見開いて。
その瞳もまた至宝だとハルは思った。
「ハル?」
「……なんでも、ないです」
ハルはふわりと笑って手を離す。いまだ赤い色をした波打つ髪が揺れた。
「それじゃあ、わたしはそろそろ帰ります。色々ありがとうございました」
「何を言ってるんです」
「いや、あの……」
「嫌、です」
「ここって王宮内ですよね。こんなところに一般人がいるわけには……」
「この屋敷以外は王宮でしょうね。だから大丈夫です」
引かない。
「でもイルルージュのお兄さんなんですよね?」
「イル?そうですが、それが何です」
「王子様が住んでいるところは王宮なのでは」
「イルは王子様でしょう」
屁理屈、というか頑固に引かない。きっと引くつもりはないに違いない。
「イルルージュ王子のこと"イル"って呼ばれるんですね」
「ええ。それよりも、何をもってこようとも、ハル。きみは帰さないよ」
「……なんでですか」
取りあえず彼は第一王子ではない。
出所が職業上、中々確かな商人達の噂では、変態……もとい極度の女好き。女性以外の人間の名前は呼ばないとか。だから、実弟であっても"イル"なんて愛称で呼ばないということ。
「アルバータ王子……」
ああ、そういえばさっきアルバータとか、聞き間違いでなければそんなことをサラリと言ったっけ。
となると。
「本当に大丈夫です」
「嫌、ですね。そんな大傷を負いながら無理するひとを見過ごすわけにはいけません」
「……お医者様ですか」
「まったく違います。あなたと同じだと、言いませんでしたか」
そうでした。昨日も知れず使った力は、間違いなく魔術師で。
「何を考えているんですか」
「え」
「私と押し問答しながら、違うこと考えてるでしょう、ハル?」
「そんなこと……」
法衣がフワリと揺れ、いつの間にか額にそっと指が置かれ何かがなぞられる。
「私と話をしているときに他の人間のこと考えるなんていけませんよ」
甘い声で囁かれ。
たぶん彼の魔術によって強制的に眠りに落とされたのだった。
「ちゃんとリジーさんにはしばらく休むことを伝えますから」
ああ。
また、お給料が減る。
それだけを思い、再度、悪夢に堕ちていった。
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