25.ハルと珠玉のひと(8)
「生きててよかった」
ヒスイは本当にほっとしたように呟いて、上半身を起こし、クッションに体重を預けたまま、力のこもらない手でゆっくりと何度も何度もその感触を確かめるようにハルの髪を梳く。さすがにハルも恥ずかしくなって顔を上げた。
「ごめんなさ……」
「ありがとう。でしょ?お互いに心配しててくれて、お互いにありがとう。それで終わりにしよう」
その優しさに再度、涙がこみ上げる。
「ありがとうございます」
「はい」
弱々しいながらも満面の笑み。筋肉が落ち始め、血色も悪く格好はひどく王子様らしくはないけれど、やっぱり彼は生粋の王族なのだと感じた。
「ハル、そういえばどうやってここまで来たの?兄様?」
傍に置いてあった水を何度か飲んでもまだ枯れたままの小声でヒスイは問う。
「え?」
「誰にもハルのことは言ってないし、そうなると兄様くらいだと思ったんだけど」
「いえ、あの……兄様?」
「うん。ちょっと過保護だから、ハルを強制的にここに連れて来たのかと思った」
ああ、まずい。言わずもがな、わが国の王城に不法侵入中だ。
今日は様子だけ見る予定だったから、何も考えずに窓からお邪魔したのだ。深夜だし、さすがにヒスイも起きているわけはないだろうと高をくくったのがいけなかった。良い子は寝てようよ!
「あ、あの」
「……ってことは、そうか。知ってたんだ?わたしがここの人間だって」
王城の。
知っていた。
彼の赤銅色の髪と翡翠色の瞳を見た瞬間に、民に一番人気のある優しい王子だとわかった。駄目押しもあったから確信したけれど。
肯定も否定もせずいると、ヒスイはそれを苛めるわけではなく、ただただ苦笑して「やっぱり変装はもっと完ぺきにやらないとなぁ……あの誘拐はともかく」呟いた。いや、それ以上に聞き捨てならない言葉があった。
「……あの。"変装"ですか?町人の服を着ていた、もしかしてあれのことを……」
「うん。花祭りのどさくさに紛れて王城抜け出すために」
「一応確認しますが、ご自分の警護を巻いたんですか」
「あー……それを言われるとつらいところ」
一気に項垂れた。そもそも、それならば自業自得じゃないか。
「ははは、ごめん、ハル。だけど"誘拐"は予想外だったんだ。元々、わたしは花祭りの間中、王城に職務で軟禁状態の予定だったから。わたしの考えが甘かったと言わざるを得ないけれど」
「笑い事じゃないでしょう」
「今後はしないから、大丈夫」
一体、今後は何をしないんだ。町人の服をやめるのか、それとも護衛も付けずに町に行くことを言っているのか。説得力にいまいちかけるけれど、部屋の外の騎士様方にお任せするしかない。身分違いの私たちは、今後、もうこうやって会うことはないのだろうから。
「……ねぇ、ハル」
「ヒスイ」
翡翠色の瞳が揺れた。その先に言おうとしていることに気がついて、咄嗟に被せるように偽物の名を呼んだけれど、その翡翠色の瞳が映すものが揺れているのだと気付いた。
他人を傷つける"普通"など、求めないと決めたはずなのに、わたしはまだ逃げようとしている。
「弱くなった」
自嘲気味に嗤うと、ヒスイが訝しげな表情を返した。
もう騙すわけにはいかない。
嘘をつくわけにはいかない。
隠すわけにはいかない。
彼が真実を告げようとしているならば、わたしもまた真実を告げなければならないのだから。
ウィザード。
揺らぐ。
『あなたが、元の場所に帰って、それでもわたしへ伝えなければと思うのなら、その時に聞きましょう』
「知って欲しいんだ。ハル」
わたしが忌み嫌われる魔術師だとしても?
このワンピースの袖の下、青白く浮かび上がった血脈。赤い血が流れる普通の人間と変わらない体だというのに、その力を使うたび全身を駆け抜ける痛みにそれを認めざるを得ない。
魔術師!!!
その歓声に喝采に血が騒ぐ。
恐れているのは太古の昔よりそうされたように、この存在が狩られること。牢獄でつながれ実験台のように死ぬまでを過ごすのは嫌だ。
"普通"を知った魔術師ほど弱いものはない。
「ハル」
ヒスイは決してそんなことをしない。
もし、彼の周りにいる誰かが、そんなことをしようとするならば、必死に止めて庇ってくれるに違いない。もう、翡翠色の瞳は揺れていないのだから。
けれど。
優しいこの彼が、これ以上傷つくのを見たくはない。王族でありながら、孤児のことを心配して自分を傷つけてしまったこの彼を。
傷つけるものが誰であろうと赦しはしない。
たとえ、自分を戒めるために傷つけるならば、わたしが助ければいい。
たとえ、それが自分自身であるならば、この身を自ら焼いたとしても。
そう、たとえ。
ハルは天蓋の向こうの闇を静かに見据えた。
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