24.ハルと珠玉のひと(7)
その日、深夜。
寝静まったウィザード王都で白亜の城に向かって、燃えるような赤い翼を持った戦闘機が飛んで行ったという情報が商人達の間で密かに流れ、それからしばらくの間、また戦争が始まるのではないかと噂が流れ続けた。結局、噂はあくまで噂で終わり。
昔、太古の昔、いたという『鳥』を知る者はこの王国に誰もいなかった。
白亜の城。ウィザード城。
美しく積み上げられた城壁を越えて、強固な警備の騎士団のさらに先。大広間を抜けて、豪奢な絨毯が敷かれた幅広の階段をぐるりぐるりと上がっていき、彫刻と絵画が並ぶその廊下のまださらに奥。寝静まった奥深く、そのひとつの暗幕の下ろされた部屋で、燃えるような赤い髪の少女が蒼白な表情で何かを見つめ、立ちつくしていた。
痩せこけた頬、青白い肌、薄く紫色に変色した唇の彼を茫然と見つめていた。見るなり全身に衝撃が走った。
何が彼に起きたのか。
原因は。いや、言わずと知れている。
「ハルッ!」
突然の叫びに、びくりと肩を震わせた。
「ああっ、どうして!どうして私はっ!」
虚空に手を伸ばし、何かを掴もうとする仕草。部屋に響き渡る悲痛な泣き叫ぶ声にも、部屋の扉の外にいるであろう近衛騎士が入ってこないのは、この状況が今に始まったことではないことを表している。きっとあの日からずっと。
「きみも、逃げて!早く!そうだ、彼女はあの時……名しか知らない彼女の全てを私が奪った!」
「……イル……」
呟く彼の名前もままならず、つい数週間ほど前の彼の姿とのあまりの豹変ぶりに声をなくした。
想像以上だ。
実際、どこかで甘く見ていた。たった数時間を共にしただけの名前しか知らない孤児の少女ひとりに、こだわることなどないだろうと。なのに、彼の風貌はあまりにも"明るく優しい王子"からはかけ離れてしまった。
ああ。彼はたったひとりの自身の国の孤児までも愛する優しい王子だった。
そんなことにいまさら気付いても取り返しのつかない。
「……ヒスイ」
顔を背けたら、弱気になったわたしは、もう二度と彼を見ることはできないだろうと感じた。だから、両手で顔を覆うこともできず、震える冷たい指先をそっと彼へと伸ばす。そして今度は、死んだように眠り始めた瞼にそっと指を乗せた。
「ごめん、なさい」
"普通"を求めた代償の大きさに、血の気が引き、その場に砕けそうになるのを必死にこらえながら何度も何度も繰り返す。
覆う銀膜がいつの間にか溢れた涙だったとは気付かずに。
「ごめんなさい」
いつしかイルルージュの顔も見えなくなっていて、パタリパタリと涙が零れ落ちた。燃えるような赤く長い髪が、白い羽根布団に波打ち、広がる。
「ごめんなさい、イルルージュ王子」
重い暗幕が風にゆっくりと揺らめく。
隙間から覗く銀色の月がそっと二人を照らした。
「………………ハ……ル?」
枯れた声。痛みを伴うそれにはっとしてその方向に目を向ける。
翡翠色の両目が静かに見つめていた。
「…………ハ……ル?」
ゆっくりとぎこちない動作で彼の手が伸びる。そして、そっと波打つ赤い、燃えるような髪に触れた。それが現実だと彼に浸透していくのが手に取るようにわかった。少しずつ見開かれていく瞳は、以前に知っていた翡翠色で。淀み、世界を映そうとしなかった目に光が戻り、同時に。
「…………ハ、ル?」
名を呼ぶその声にも生気が宿り。
「…………ハ、ル」
視線を合わせたまま静寂な空間で、細くなった指がそっと目元を拭う。
「…………ハル……へん、じ、し……て?」
さっきまでの悲痛な叫びが嘘のように彼は落ち着き、すでに何かを悟ったように、むしろ悟らせるように名を呼ぶ。
「ハ、ル」
赤い髪の少女は声に出すことができず、ただただゆっくりと頷いた。
「ハル」と、イルルージュは嬉しそうに、花が咲いたように顔をほころばせる。
それを目にして、ハルはその場にとうとう泣き崩れた。
「ごめんなさい、ヒスイ!」
イルルージュはそんなハルの髪をそっと撫ぜ、何かの呪縛から解かれたかのように一筋の涙を零した。
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