23.ハルと珠玉のひと(6)
次に目を開けると真っ暗だった。いつベットに入ったのかさえ定かでない。
「朧?」
静寂の暗闇に自分の小さなか細い声だけが響く。
「……帰ったのかぁ」
そもそも、リジーのお店からここまで全くの善意で運んでくれただけで、気にして世話を焼きに来てくれる方がどうかしている。けれど途端にひと気のなくなった小さな家がハルをひどく落ち込ませた。
ランプを取り、気だるげに朧とトマトスープを食べたテーブルに近付く。ぎしりと床板が軋んでハルを余計に憂鬱にさせた。
「……手紙?」
本を重しに用紙の切れ端が挟まっていた。
「朧」
なんとなく嬉しくなって、ランプを置いて椅子に腰かける。下の方を無理やりちぎり取ったあとがあるが、その綺麗な用紙には、彼にお似合いの繊細な文字が書き連ねてあった。
「『ごちそうさまでした。久しぶりに温かい食事をとりました。美味しかったです。朧』」
最後まで偽名だが、定型句のようなその文句にも彼らしさが感じられる。
「あれで美味しいって表情なんだ。仏頂面でどっちかと言ったら美味しくなかったのかと思ったのに」
クスクス笑いながらもう一度読み直した後、四つ折りに丁寧にたたむ。
「うん」
本棚の一番取りやすい位置に置いた本の表紙裏にしっかりと挿む。本を閉じ、丁寧な装丁がなされた臙脂色の表紙を見つめた。しばらくそうしていて、一度、目を瞑る。何かを思い返すように時折、苦しい表情を浮かべ、歯を食い縛る。
『見つけたぞ、魔術師!』
闇の奥底から聞こえる、歓喜に満ちた名もなき者の低い声。輪唱のように次々に同じようで違う声が、叫ぶように求める。次第に本を持つ両腕が軋むように痛みを伴い、熱を持ち始める。
ワンピースの袖に発光した青い光の線が滲み浮かんだ。
「わたしはずっとここにいた」
『聞こえるか歓喜の声が喝采が!』
「聞こえていたよ」
『魔術師!』
「認める。わたしは『魔術師』」
生まれたときから今までずっと。何よりも"普通"を求めるのは、自分自身が"普通ではない"とわかっているから。
「わかっていたよ。聞こえていた。今まで自分に罰を課し、それを遂行することで、"普通"を許してきた。だけど、それが難しいなら、わたしは"普通"を求めるべきではない。求めてはいけない」
『魔術師!』
鳴りやまない喝采が上がった。
臙脂色の装丁の本を元の位置に丁寧に戻し、本棚の最下段、料理の本の後ろ、二列目にひっそりと並ぶ19冊の『魔術』シリーズ。
今は亡き大魔術師の称号を持つ古代の魔術師、ハルに言わせれば大魔術師が執筆したその本を一冊手に取る。
「あの大魔術師……今度こそ、知らない人が間違って触ってたら死者が出たでしょ」
呆れた口調でハルは言い放ち、長い波打つ黒髪を揺らしながら勝手口から小さな小さな裏庭に出る。
あの日。
風の魔法陣を発動させたものの、相変わらず本には威力まで意図的に書かれておらず、同時に相殺する式を書いた。はっきり言って運が良かった。使ったのがわたしで。
ひとつにまとめた赤く長い髪が揺れた。
軋む両腕をブラリと力無く下げて、古代魔術師に諦めに似た思いを馳せ、同時に盛大なため息をついた。
倉庫と思しき建物はほぼ全壊。視界は嫌に嫌味なほどにクリアだ。
風の魔法陣、大暴走。
相変わらず本には威力まで書かれておらず、同時に相殺する式を書いた。ついでに、この事態を"普通"に戻すためにいくつかの式も追加で書いたが、まさか。
「10連発なんてね……恐ろしい、大魔術師の呪い……」
原因など知らないし知りたくもないが、ここまで徹底的に後世を潰そうとする意図がわからない。
坪庭に湿気のない乾いた夜風が吹く。
ハルは片手に本を持ち、空いた片手で慣れた文字を宙に書き連ねていく。その文字は徐々に青味が掛かった光を帯び、はっきりとした文字式として浮かびあがった。
不意に最近はまった、薔薇の宮殿に住む悲しきサダメを持った美しい王子と孤独な優しき少女のラヴロマンスを思い出した。
「そうそううまくは行かないものです」
苦笑いして。
次の瞬間、燃えるように赤い波打つ髪の残像だけを残して、その場に誰もいなくなった。
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