22.ハルと珠玉のひと(5)
「私の名前はゴンザレスです」
「…………はい?」
止める前にサラリと告げられた名前に、頭を抱えた。決してその名前が悪いわけでもなんでもなく、強いて言えば、この珠玉のような不審者には似合わないだけで。
「……偽名ですか」
「はい」
「……偽名、ですよね」
「はい」
「……ゴンザレスさん」
「はい」
もはや新手の嫌がらせにさえ感じる。名乗らなければいいのに、結局、不審者は名乗っても不審者のままだ。目の前にすっと伸ばされた手を、まじまじと訝しげに見つめていると苦笑いしながら「ハルさん」今度は柔らかい声で呼ばれる。
その声に言葉に体中がざわめいた。
「はじめまして。これからもよろしくお願いします。ハルさん」
『ハルさん』。
今に至るまでに何度か呼ばれていたはずなのに、改めて彼が言うそれは、まるで違う効力をもっていた。ザワリと何かが揺れて同時に体が熱を帯びる。
「ハルさん?」
「――――――ハル!ハルでいいですっ!さん、なんていりませんからっ、はいっ」
絶対、耳まで真っ赤だ。ヒスイの時はなんとか誤魔化したけれど、真昼間、いくら薄暗い室内とはいえこの至近距離で彼にわからないはずがない。と、目の前の不審者と目が合う。
「げ」
「ふ」
ニヤリ。
そんな笑いだった。
間違いなく苛めて楽しむ、的な。そこに決して嘲笑など悪い意味はこめられていないけれど。
「ハル、さん」
見つめられて艶やかな、そう妖艶な。うっとりするほど甘い声で囁かれた。
「――――――っく!」
「ハルさん。毒が入ってるとか、そういうのではなくて。すみません、食べたことのないものだったのでどうやって食べるのかわからなくて。いただきます。ハルさん」
確かに、確かに悪い意味は込められてないけれど!
「ハルさんも一緒に食べましょう」
「ううう……」
そう言うと不審者は、スプーンで一口。口元に付いたトマトソース少量を、どこからか、いつの間にか出したハンカチでそっと拭う。どこまでも粗相のない優雅な所作。その所作と『食べたことがない』発言に、彼は貴族だろうと判断する。貴族なら、じゃがいもより雑穀より『小麦』のパスタだ。
コクリ、そんな音がして不審者の切れ長の目がそっと開く。
「あ、あの……?」
一瞬、固まったかと思いきやさらに一口、二口。
「あ、ハルさん。口元に」
当たり前のように手が伸ばされて、スッと指が口元に触れる。近付く顔に思わず椅子ごと後ずさりした。
「あ」
「あ!」
間の抜けた声と慌てる声が狭い狭い家に響いた。
もう無理だ。
っていうか、折角なので養生させて欲しい。
背中から椅子ごと床に叩きつけられて、ぐったりと目を閉じたまま、微動だにする気にもならなかった。変人不審者が目の前にいようと、背中が今まで以上に痛もうとももうどうでもよかった。
兎にも角にも。
誰かこの不審者を連れて帰ってください。
ああ、この世界の"普通"にこの魔術が含まれていたら常々こんな事態にはならなかったのに。
だけど。
本当にそうだろうか。
「すみません。ふざけすぎました」
そうなのだろうか。
魔術が含まれていれば、"普通"であったのか。
きっと、違う。
"普通"。
無理矢理に求めていなければ、イルルージュもまた。
無理矢理に求めた時点でそれは"普通"ではなくなっていた。
ああ、そうか。
そして。
わたしは自分に課せた罰をすでに破っていたのか。
不意に行き着いた答えに自然に笑みがこぼれた。ならばやることはひとつ。
「すみません……つい、久しぶりに楽しくて」
可哀想なくらい気落ちした声が聞こえて、床に仰向けに倒れたまま目をそっと開く。近くに覗き込む湖色の瞳に一瞬、怯んだが、なぜかその瞳が揺れているのに気が付いて、小さく息を吸い込みゆっくりと静かに吐く。
彼に対して、この状況に対して舞い上がっていた、そう自身を判断できるようになるまでそんなにかからなかった。知らずに高揚し続けていた気分がすっと落ち着き、目の前の美形不審者に対する胸の高鳴りも体中を支配する熱も急激に収まっていった。
体を起こし、口を閉ざして見つめ返す彼を見据える。
"困ってる"のだろうか。不意にそんなことを思い、苦笑いした。
こっちのセリフなんだけれど。
「……ゴンザレスさん」
「ゴンザレスで良いです」
「ゴンザレ……偽名なんですよね。じゃあなんでも構いませんね。ええと……」
なぜか、その瞳に湖面をたゆたう銀色の月を思い出した。
「朧」
その名が気に入ったのだろう。
彼は、静かに笑みを浮かべた。
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