18.ハルと珠玉のひと(1)
燃えるような赤色の長い緩やかに波打つ髪が、風に煽られ舞った。
混沌の黒はどこか彼方を見つめ、見据え、けれどそこに何も映していない。
歓喜と喝采は、残響のように彼女の脳裏に響いていた。
彼女が座る周りの地面に書き殴られた多数の青白い光の文字式は、いまだ効力を携えているかのように鈍く光っている。
不意に何かに気が付き、彼女の小さな口が「ごめんなさい」掠れた声で、呟く。何度も何度も同じ言葉が繰り返された。
「さようなら。イルルージュ王子」
チリン。
どこからともなく鈴の音が聞こえ、そして風に消されていった。
「ハルちゃんっ。スープとライ麦パンね」
「はい。ありがとうございます」
石段のナスタチウムが橙色、黄色と風に揺れている。常連のお婆さんにライ麦パンとスープをそれぞれ渡し、次のお客さんに注文を聞く。
「ハルー。今日のスープ、なんだっけ?」
狭い店内の奥で、別のお客さんを接待していたリジーの声が聞こえる。
「ひよこ豆のカレースープです。あんまり辛くはないですよ」
「そうそう。ハルが花祭りで南の行商の奥さんから習ったとっておき。はい、ひとつね。まいど!」
花祭り。
あれから1週間だ。
自力で脱出後、ちょっと所用を済ませていたらあっという間に最終日になっていた。カミユさんに『ひよこ』の使い方を教わる約束をしていたので、家に戻り、結局2晩、寝ることもできないまま妙なハイテンションで過ごした。若干、引かれたけど。
それもこれも、あの誘拐犯達のせいだが、それはきっちり後始末をしてあるから清々しいほどで。
気がかりなことと言えば。
「……あの親玉」
「ハルちゃん。このスープもうひとつくれるかね」
「はい。ありがとうございます」
親玉。親玉というか、背中を強打した主犯格だろうあの男だ。
いまだ背中に痛みは残り、まざまざと変色した紫色の痕がある。実はちょっと屈むだけでも体中に激痛が走るが、事情を知らないリジーに余計な心配をさせるわけにもいかず、そもそも余裕があるわけでもないから休まず出勤中だ。
「……どこに行ったんだか」
後始末の際に、あの男だけいなかった。むしろ他の阿呆達より率先して後始末したいくらいなのに。
「次、会ったらただじゃ……」
「ハルちゃん。ライ麦はちょっと硬いから、ええと」
「それでは米粉パンはいかがですか?食べやすいですし、どんなスープにも合いますよ」
営業スマイル全開。
「じゃあ、それもらおうかしら」
「ありがとうございます」
「ハルちゃん、メガネやめたのねぇ」
あ。
そういえば、その後始末もまだだった!
「うっかり落として壊してしまいまして」
「そっちの方が可愛らしいわ」
「ふふ、ありがとうございます。米粉パン3つです。ありがとうございました」
目の前のお客さんを送り出して、扉を閉めると店内は随分ゆるやかになっていた。時計を見ると一番忙しい時間はすぎていて、リジーもひとりでお客さんをさばき始めている。ふらりと眩暈が襲い、近くの台に手を着く。
これは、まずい。
直感でそう思った。
「あ、ハル。ライ麦パン追加で焼こうかな」
「じゃあ取りに行ってきますね」
「奥の部屋の内側のね」
「はい」
リジーの太陽のような笑顔に、笑顔で頷いてうっすら汗ばむ背中を庇うように奥の部屋へ向かった。
花祭り。
あれから1週間。
気がかりなことは、ただひとつ。
「……イル、ルージュ王子」
自分がこの"普通"に戻るために、切り捨てた優しい少年。
あの少年の心は大丈夫だろうか。
「あった、これだよね」
ライ麦パンの種が整列した木枠の箱を手に取る。
「あ」
全身から血の気が一気に引いた。
倒れる、そう判断するより先に意識が落ちていった。
イルルージュ王子は大丈夫だろうか。
彼の優しい心は、わたしが見せた幻影で壊れてしまっていないだろうか。
けれど。
どうしても、わたしはこの"普通"という生活を守りたかったのだ。
彼等に関わるわけにはいかないと。
けれど。
それは、正解だった……?
「―――……ハルッ!!!」
遠くで、リジーの声と、何故か赤銅色に翡翠色の瞳の少年がわたしの名を呼んでいた。
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