16.ハルと花待ちのひと(9)
不意に目を上げると赤銅色が焼きついた。見上げる彼の翡翠色に映るのは朧の銀の月。
囚われの身でありながらも、凛としたその姿勢に素直に見惚れた。簡素な廃屋となった倉庫の中でさえ、彼等は彼等であるのだろう。
「ハル」
しっかりと認識されてしまった自分の名前に、苦笑しながら「はい」答える。
「わたしは」
その先を言われるわけにはいかなかった。そろそろ、故意にこの話題を避けてることくらいは感づいているだろう。
「ヒスイ。私があなたを元の場所に帰します。必ず」
「ハル!聞いて……」
「あなたが、元の場所に帰って、それでもわたしへ伝えなければと思うのなら、その時に聞きましょう」
そう言って、背中を向けてその先を告げることを強制的に拒否した。
『魔術19』のとあるページを開く。
翡翠色がいまだ納得いかないと、射るような視線を向けていることは、わかっていたけれど。
「……魔術は魔術師しか使えないものですが、わたしが研究してきた中で、ひとつだけ誰にでも使えるものがあることに気付きました」
甘い香り。
本から漂うこの香りは『ある力』だ。
それに気付いたのは、良くも悪くも現代にまで名を残す『魔術シリーズ』を執筆した大魔術師の本を古本屋で手にしたときだった。この本と同じように、かび臭さに混じって僅かに完熟した果物のような甘い香りがした。香りの元を辿って行き着いたページ。その結果、その魔術を発動するに至ってしまったわけだが。
「性質が悪かった……あれは、本当に」
知らないで発動させてしまうことを予め知っててやったとしか思えない。思い出して、げんなりとため息をつく。もし、現代にあの大魔術師がいたら、迷うことなく背後から攻撃し返す。それくらい性質が悪かった。
「ハル?」
「いやちょっと、歪んだ過去を思い出しまして。すみません」
開いたページに手を翳す。
「……たまに、古代の失われた魔術式を使ったものの中に、長い年月でも耐えられる力を封じ込めた魔法陣が存在するんですよ。例えばこれとか……」
ギリ。
長袖のブラウスの下、ハルの両腕に閃光のように青白い光が走り、紋様を描きだす。熱をもったそれはブラウスからは透けて見えず、顔を一瞬顰めたハルの様子にヒスイが気付くことはなかった。
魔術師!
魔術師!
重なる歓喜。喝采。
締め付けるような痛みと焼きつくような熱さの中、ハルは頭の中に沸き立つ久しぶりの歓声に観念したように弱々しい笑みを浮かべる。
「わかってる、こっちがわたしの普通だってこと。だけど、仕方ないでしょう?この世界の"普通"は、これではないんだから」
誰に言うでもなく言い、事態を把握できずに何事かと見つめるだけの彼を見上げる。
「つまり。これがそれ、です」
「誰でも、使える……?」
「はい。ちなみにこれは、風の魔法陣です」
「風の……魔法……陣?」
「これから、これを使ってこのあたりを吹き飛ばしますので」
間があった。
「ごめん、もう一度言ってもらえるかな」
「吹き飛ばすので、そこから脱出しましょう」
頭を抱えられた。
「そっちの扉を吹き飛ばして、もう少し穏便に脱出した方が良いんじゃ……」
「無理ですよ、これ。制御きかないんで」
「……物騒すぎる。違う方法を……」
「すでに発動中です。吹き飛ばすまで、時間の問題です」
「ハル」
「これ以上、何も受け付けませんので。いいですか、これで壁をふっ飛ばしたら、すぐに真っ直ぐ走ってください。建物が崩れるかもしれません。巻き込まれたって責任とれませんので」
「う、わかった。」
渋々、といった感じだが、理解はしてるだろう。
「それでは、いっきまぁす」
「え、もう!?」
慌てるヒスイをよそに、一方の手を吹き飛ばす壁に向け掲げ。
もう片方の手でそっと違う"式"を地面に書き記した。
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