15.ハルと花待ちのひと(8)
孤児院に辿りついたとき、そのおくるみに刺繍されていたその文字は、あるものを指していて。唯一と言っていいほどの善良なシスターが、孤児院を去る際に一度だけ言った。
―――本当の名を、告げてはなりません―――
確かに良い助言だった。
ハルは、すでに顔も名前も思い出せない、唯一善良なシスターに本当に感謝していた。
一度、バスケットから古本を全部取り出し、目的の冊子以外をバスケットに入れなおす。物騒なタイトルの3冊が手元に残り、さっさと片っぱしから目を通していく。
「……『術と式』は……うーん……やっぱり、それぞれの構成の考査ですか」
「ちょっと気になることがあるんだが」
「趣味ですから、お気になさらず」
サラリと流したハルに、ヒスイは目をこれでもかと見開いた。
「趣味!?」
「趣味なの!?」
「はい」
「それが!?」
「ですから、はい。趣味以外のなにものでもありません」
「いや……うん。だよね……そうなんだけど」
「それがなにか?」とでも続きそうなくらい強気で言われて、ヒスイは口を閉ざす。
"使える"はずはないから、"趣味"でしかありえないとは思いつつも、一般庶民が興味を持つには甚だ怪しすぎで、そもそも、ただの女の子にしか見えないハルの外見からは全く想像できない趣味だ。
「……マニアックすぎる、読むだけなんて。なんでこんな本を読もうと思ったのか、一度、しっかり聞きたいよ」
広げられた本のタイトルを確認して、彼は心底呆れたように呟いた。
反対に、どうやら早々に"趣味"ということで決着がついたらしいと、ハルは胸をなでおろしながらページを捲った。それ以上に追及された場合に用意していた文句を捨て去り、本の内容に集中する。決心したとはいえ、なるべくなら穏便に進めたい。気付かれたくないのだ、特に。
気付かれないように、いまだ微妙な表情をして、古本を手持ち無沙汰に捲る赤銅色の髪の彼を一瞥した。
彼には。
ここから脱出すれば、率先して関わりたくないし、そもそもこれ以上、関わり合いたくない。例えば、他の誘拐事件に巻き込まれてもいい。例えば、生死を彷徨うほどの大けがを負ってもいい。けれど、どうしても彼等だけはいけないと、直感が告げる。
それにしては随分、油断しすぎだし、危機感ないし、簡単に信用しすぎだし。
優しすぎる。
それ自体は好ましい。好ましいけれど、彼にとってそれがいいことなのかと言われれば、きっと否。そこまで彼のことを知りながら、わかっていながらもハルには彼の正体を彼に告げる気はない。
彼が"ヒスイ"に甘んじている限り、ハルが"普通"へ戻るための害はないのだから。
「このあたりですね」
手に取った『魔術19』の小冊子からはかび臭い匂いと独特の果実のような甘い香りがした。
「趣味が魔術ってありえないだろう……兄様だって」
目的のページを開こうとしたところで、ヒスイの気になる文句に手を止める。が、聞かなかったことにした。
「簡単に脱出方法をご説明します」
「まさか、これを"使う"とか言わないよね?」
指し示された『魔術19』のとあるページを見て、にっこり頷いた。
「せいかーい」
脱力し、それでもなんとか這い上がってハルの両肩をがっしりと掴む。
「あ、あのね……ハルはまだ小さいから知らないのかもしれないけれど、魔術は魔術師じゃないと使えないんだよ?」
「はい」
「『はい』って……もしかして、ハル!」
「違います」
即答すると、おもしろいくらいに再度、項垂れた。
「私だって、まだ兄様以外に見たことないよ……」
褒めて欲しい。
そんな爆弾発言にも関わらず、見事に平静を装い、聞かなかったことにして。
ついでに、ともすれば国を揺るがすようなうっかり発言をした彼を叱り飛ばさなかったことに対して。
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