8.ハルと花待ちのひと(1)
魔術師。
何かを呼ぶような、どこからか、呪われたような低い声が聞こえた。
「いやあああああああっっっ!!!!!!」
静かな町中に掠れた悲鳴が通り抜けて行った。
漆黒の長い髪を今は下ろし、荒く呼吸を繰り返す。
「あ、ありえない……こんな、こんな」
茫然と呟く。
すぐに呼吸を整えると寝巻の木綿のワンピースを引き摺るように立ち上がる。古くなった床板が軋んだ。
「こ、こんな夢を見るなんて……なにが魔術師よ!え、縁起でもないっ!普通の人はそんな夢見ないっーのっ!」
朝焼けの差し込む部屋でハルは朝っぱらから吠えるのだった。
「わたしは普通。わたしは普通。今日は普通。普通こそ命……」
知らない人が見たら明らかに怪しいが、背にも腹にも変えられない。急ぎ"普通のひとが見ないような夢"を取っ払わなければいけないのだ。
ただの夢。悪夢だけれど。
されど。
夢。
まあ、後で隣の家から慌てておばちゃんが様子を窺いに来て、若干、説教されたけれど。
「お金よーし。お昼よーし」
今日は仕事は休みだ。どうせ開けていてもお客は入らないと、リジーいわく、毎年休みなそうで。バスケットにお昼を詰めて、いつもより多めのコインを入れた財布変わりの小袋を首から掛ける。
「めがねよーし。服装よーし」
玄関先に置きっぱなしにしていた分厚いめがねを掛け、一応、変わり映えのしない服装チェック。仕事じゃないので今日はサンダルに、長い髪は背中でひとつにまとめただけだ。兎にも角にも、目立たず、目立ちすぎず。平凡に。
「よし。んじゃ、いってきます」
心なしかわくわくしながら、誰もいない薄暗い家を後にした。
『王国祭』
それはこの王国の建国祭。
『はなまつり』と呼ばれるのは、建国したときから続く現王家の紋章が、薔薇であることからだ。ちなみに薔薇に限らずとも花の名前を持つものは、王家に近しい者とされ、現に貴族たちもそれぞれ花の名前を持つ。
ウィザード歴史大全15巻王家年表によると。
現時点で王位第一継承権を持つアルバータ殿下。
第二王子、イルルージュ殿下。
第一王女、ウィミィ殿下。
第二王女、エル殿下。
これが正妃の子どもたち。そして、現王には側妃がひとりいる。
アルバータ殿下と同じ年齢の異母兄弟、シュネーリヒト殿下。
どうやら、このあたりが王位継承権に「現時点」と付記されている所以なのだろう。一応、正妃の先に生まれた王子がこの国の法に則って必然的に権利を持っているわけだけど、重鎮の中では派閥があるらしい。
側妃の方が正妃より実家の位が高いとか、現王のご寵愛を受けているとか……。
「ふうん。この国を平和にこのまま保ってくれる王ならば、どちらでも私はいいけれど」
すれ違った人たちが花を咲かせた噂話に、ハルは感想を漏らしつつ、目的地へと急ぐ。早くしなければ開店時間に間に合わない。
王家なんてこの国のただの民が関わるわけが、ないのだ。
随分近くに見え始めた白亜の城壁と細やかな造りの城を見た。あの中に住まう人間などハルには想像することでさえ無駄だと思える。
彼らは、ウィザード歴史大全の中だけの文章のみで示される人物なのだ。内情がどうであれ、この国の民に結果的に必要なのは"持続的平和"、それに尽きる。
「あ!」
視界の片隅にその店をとらえ、ハルは走り出した。
とにかく。
今はあの店へ急がなければならないのだから。
王国祭=王家。
王家=建国祭。
建国祭=露店。
露店=欲しいものが安く買える。
つまり、王国祭=欲しいものが安く買える。
……しがない庶民ですから。
ええ、なんとでも言ってください。