婚礼衣装を縫う針子の私が、王太子殿下に『お前以外の花嫁衣装は着たくない』と言われました
「——お前が縫え」
王太子殿下の声が、仕立て部屋に響いた瞬間、針が指を刺した。
じわりと滲む赤を見つめながら、私は自分の耳を疑った。
「……私、ですか」
「他に誰がいる」
燭台の炎が揺れる。深夜の仕立て部屋には、私とこの方——クラウス・ヴァン・エーデルシュタイン殿下しかいない。
(なぜ、殿下がこんな時間にここへ?)
三年間、王宮お抱えの針子として働いてきた。王族の衣装を縫い、貴族の礼服を仕立て、けれど誰にも顔を覚えられない。それが私、リーゼ・フォン・ナーデルという存在だった。
「明日、正式に発表される」
殿下は窓辺に寄りかかり、月明かりを背負っている。深紫の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「私の婚礼が決まった。相手はヴァイスハウプト公爵家の令嬢だ」
——知っている。
王宮中の噂になっていた。社交界の華、ヴィクトリア・フォン・ヴァイスハウプト嬢。黄金の髪に翡翠の瞳、誰もが認める美貌の令嬢。
王太子妃に相応しい、完璧な女性。
「おめでとう……ございます」
声が震えなかったのは、三年間の鍛錬の賜物だろう。
(知っていた。いつかこの日が来ることくらい)
私はただの針子だ。孤児院育ちの、取り柄といえば裁縫しかない、影のような女。殿下の花嫁になれるはずがない。——そんなこと、最初からわかっていた。
わかって、いたのに。
「……婚礼衣装は、当然、一流の仕立て屋に依頼されるのでは」
震える指で、刺した傷を押さえる。
「断った」
殿下が一歩、近づいた。
「条件を出した。婚礼衣装は、お前が縫え。——それ以外は認めない、と」
息が、止まる。
「な……」
「聞こえなかったか?」
また一歩。月光が殿下の横顔を照らす。いつもは完璧な笑みを浮かべているその唇が、今は真一文字に引き結ばれていた。
「私の花嫁衣装を縫えるのは、お前だけだ」
——どういう、意味ですか。
問いたかった。けれど言葉が出ない。
殿下の深紫の瞳が、燭台の炎を映してゆらめいている。その奥にある感情が、私には読めない。
「……畏まりました。殿下のご命令とあらば」
結局、私に言えたのはそれだけだった。
俯いて、縫いかけの布地に視線を落とす。これ以上、あの瞳を見ていられなかった。
(期待するな。勘違いするな)
殿下が私を指名したのは、きっと技術を認めてくださったから。それ以上の意味など、あるはずがない。
「——お前の縫い目には、祈りがある」
不意に、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、殿下がすぐ傍らに立っていた。長い指が伸びてきて、私の手から血が滲んだ指を取り上げる。
「っ……殿下」
「誰に祈っている? お前が一針縫うたびに、何を想っている?」
——あなたを。
あなたの衣装を縫うたびに、あなたのことを想っています。
この針目が届けばいいと。この糸に込めた想いが、いつかあなたに届けばいいと。
届くはずのない祈りを、三年間、縫い続けてきました。
「……私は、ただの針子ですから。祈りなど。ただ、良い仕事をしたいと思うだけです」
口をついて出たのは、いつもの言葉だった。
殿下の指が、ぴくりと動いた。
何か言いかけたように唇が開いて——けれど、結局何も言わずに、私の手を離した。
「……そうか」
踵を返す背中が、月光の中に消えていく。
「一ヶ月後だ。婚礼は。最高の衣装を期待している。——お前にしか縫えないものを」
静かに扉が閉まる。
遠ざかる足音を聞きながら、私は血の滲んだ指を胸に押し当てた。
(……お前にしか、縫えないもの)
それは、どんな衣装ですか。
あなたの花嫁を、誰よりも美しく飾る衣装。あなたの隣に立つ女性を、輝かせる衣装。
——私が、いちばん縫いたくない衣装だ。
ぽたり、と。
血ではない雫が、手の甲に落ちた。
「……っ」
慌てて目元を拭う。針子が泣いてどうする。涙で視界が曇れば、縫い目が歪む。
私にあるのは、この針だけ。この糸だけ。この指先だけ。
——だから。
「この針目が、私の言葉です」
誰もいない仕立て部屋で、私は呟いた。
届かなくていい。届くはずがない。
それでも、一針一針に祈りを込める。三年間そうしてきたように、これからも。
殿下の花嫁衣装を縫う、最初で最後の仕事として——。
月明かりの中、私は再び針を取った。
◆ ◆ ◆
翌日、仕立て部屋に嵐がやってきた。
「——あなたが、婚礼衣装の担当ですって?」
黄金の巻き髪を高く結い上げた令嬢が、翡翠色の目で私を見下ろしている。
ヴィクトリア・フォン・ヴァイスハウプト嬢。
王太子殿下の、婚約者。
「……はい。殿下より直々にご命令を賜りました」
頭を下げたまま答える。視線を合わせてはいけない。私のような身分の者が、公爵令嬢の目を見るなど許されない。
「ふうん? 殿下も物好きね。こんな——」
白い手袋に包まれた指が、私の顎を掴んで持ち上げる。
「薄汚い針子に、私の衣装を縫わせるなんて」
翡翠の瞳が、値踏みするように私の全身を舐め回した。
「まあ、確かに地味ね。これなら殿下の目に留まることもないでしょうし」
嗤うように唇の端を吊り上げて、ヴィクトリア嬢は私の顎を乱暴に離した。
「いいわ。特別に許可してあげる。ただし、条件があるの」
令嬢は従者に目配せをした。従者が恭しく差し出したのは、何枚もの紙束。
「これが私のドレスのデザイン。一週間で仕上げなさい」
受け取った紙を見て、息を呑んだ。
豪華絢爛、という言葉すら生ぬるい。金糸銀糸をふんだんに使った刺繍、何層にも重なるフリル、宝石を散りばめた装飾——
「あの、ヴィクトリア様。このデザインですと、一週間では」
「言い訳? 王太子妃となる私の衣装よ? 最高のものを用意するのは当然でしょう。それとも、あなたにはその程度の腕もないのかしら」
「……いいえ」
「なら、できるわね?」
答えは一つしかない。
「……畏まりました」
「よろしい」
ヴィクトリア嬢は満足げに微笑んだ。けれどその目は、少しも笑っていなかった。
「ああ、それから。あなたのような存在が、王宮にいること自体が間違いよ。身の程を弁えなさい」
——バタン。
乱暴に閉められた扉の音が、耳の奥で響いている。
「……っ」
握りしめたデザイン画が、しわになる。
(身の程、か)
わかっている。痛いほど、わかっている。
孤児院育ちの針子が、王太子の婚礼衣装を縫う。それがどれほど異例のことか。どれほど身分違いのことか。
——それでも。
「リーゼ」
背後から、温かい声がかかった。
振り返ると、栗色の髪をきっちりとまとめた女性が立っていた。エリーゼ主任。仕立て部屋の責任者であり、私を王宮に推薦してくれた恩人。
「……主任」
「聞こえていたよ、全部。あの令嬢、評判通りだね。いや、評判以上かな」
「……私は大丈夫です」
私は微笑んで見せた。
「次は必ず、お気に召していただけるものを」
「大丈夫じゃない顔してるよ」
主任が私の肩を掴んだ。琥珀の瞳が、怒りに燃えている。
「あの子の縫い目を見れば、どんな想いで縫ったかなんて一目瞭然さ」
主任は私の手を取り、じっと見つめた。
「お前の指は、祈りながら縫う指だ。誰に祈ってるかは——まあ、聞かないでおいてやるよ」
「っ……」
「ただね、リーゼ。針は嘘をつかない。お前が縫えば、縫い目に想いが出る。隠せやしないのさ」
——隠せない。
この三年間、一針一針に込めてきた祈り。殿下の衣装を縫うたびに、指先から溢れ出る想い。
それが、縫い目に出ている?
「……主任。私は、ただの針子です。ただの針子が、王太子殿下の婚礼衣装を縫う。それだけです。それ以上の意味なんて、ありません」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
主任は何も言わなかった。
ただ、少し悲しそうな目で、私を見つめていた。
◆ ◆ ◆
一週間後。
「——気に入らないわ」
ヴィクトリア嬢の言葉が、仕立て部屋に響いた。
「……どこがお気に召しませんか」
私は膝をついたまま、問うた。
目の前には、七日七晩かけて完成させた婚礼衣装。金糸銀糸の刺繍、幾重にも重なるフリル、宝石を散りばめた装飾——すべて、ヴィクトリア嬢のデザイン通りに仕上げた。
「全部よ。なんていうか、品がないのよね。成金趣味っていうか」
(……それはあなたのデザインでは?)
喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
「やり直しなさい。今度は——そうね、純白を基調にして、もっとシンプルに。王太子妃に相応しい、気品のある衣装を」
「シンプル、ですか」
「ええ。一週間で仕上げられる?」
「……畏まりました」
答える声が、自分でも掠れていると分かった。
七日間、ほとんど眠らずに仕上げた衣装。それが、たった一言で却下される。
「あら、顔色が悪いわね。まさか体調を崩して、婚礼に間に合わないなんてことはないわよね?」
「……ございません」
「よろしい。私の衣装に相応しい者だけが触れることを許すの。——身体の弱い針子なんて、お払い箱よ」
その後も、デザインは三度、四度と変更された。
婚礼まで、あと十日。
疲労で霞む視界の中、私は五度目の衣装を縫い続けていた。
◆ ◆ ◆
「——リーゼ! 大変だよ!」
仕立て部屋に飛び込んできたのは、若い針子見習いの少女だった。
「ヴィクトリア様が……っ!」
血相を変えた少女に連れられ、私は令嬢の私室へと向かった。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは——
「——これ、どういうこと? 私の衣装に、こんなシミが!」
ヴィクトリア嬢が、衣装を手に立っていた。純白のドレスに、赤い液体が飛び散っている。
「なっ……」
息を呑む。あの衣装は昨日、完璧な状態で納品したはずだ。
「しかも、見てちょうだい」
ヴィクトリア嬢が衣装を振り回すと、中から何かがひらりと落ちた。
亜麻色の、長い髪。
「あなたの髪よね? 私の衣装に、薄汚い針子の髪が混入していたの。——これ、どう説明するつもり?」
「私は……そんな」
「言い訳しないで。王宮の針子が、王太子妃の衣装を汚したのよ。これは重大な不敬罪。当然、解雇——いいえ、罰を与えるべきね」
周囲にいた侍女たちがざわめく。
「私は入れていません。仕上げの際、髪は必ず布で覆います。シミも、納品時にはありませんでした」
「嘘をつくの? 誰が信じると思う? 孤児院上がりの薄汚い針子の言葉を」
「私は……」
「黙りなさい! 身の程知らずの針子が。王太子殿下に色目を使って、婚礼衣装の担当を勝ち取ったつもり?」
「違います!」
「違わないわ。殿下が夜な夜な仕立て部屋に通っていたこと、知っているのよ。——あなたに会うために」
息が、止まった。
「私の婚約者が、こんな地味な女のところに。毎晩、毎晩。許さないわ。絶対に許さない」
翡翠の瞳に、狂気じみた光が宿る。
「あなたを解雇して、王宮から追い出して、二度と殿下に近づけないようにしてあげる」
「——それは困るな」
低い声が、部屋に響いた。
全員が、凍りついたように動きを止める。
扉の前に立っていたのは——
「殿下……!」
クラウス殿下が、ゆっくりと部屋に入ってきた。
その後ろには、エリーゼ主任とフェリクス殿下の姿。
「く、クラウス様。聞いてください、この針子が」
「黙れ」
静かな、けれど有無を言わせない声。
殿下の深紫の瞳が、ヴィクトリア嬢を射抜いた。そこには、氷のような冷たさがあった。
「証拠は揃っている」
「え……?」
「その衣装に赤いシミをつけたのは、お前の侍女だ。髪を仕込んだのも」
エリーゼ主任が進み出た。手には、何枚かの書類。
「針仕事を終えた後のリーゼの部屋を、侍女が物色していたところを目撃した者がいる。髪を採取しているところをね」
「そんな……」
「シミの赤い液体は、お前の私室にあったベリー酒と成分が一致した。調べればすぐに分かることだ」
殿下が、一歩、また一歩とヴィクトリア嬢に近づく。
「虚偽の訴えで王宮の職員を陥れようとした罪、重いぞ」
「わ、私は……殿下、違うんです。この針子が殿下を誑かして」
「——誑かした? 私が三年間、彼女を見続けてきたことを、誑かされたとでも?」
三年間。
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「三年前、孤児院で彼女を見つけた。子供たちの服を繕う、その縫い目に——私は心を奪われた」
殿下が振り返り、私を見つめた。
深紫の瞳が、燭台の炎を映して揺れている。
「王宮に雇い入れたのは私だ。毎晩仕立て部屋に通ったのも私だ。——すべて、私が望んだことだ」
「殿下……」
「政略結婚の話が持ち上がった時、私は条件を出した。婚礼衣装は、彼女が縫う。——それ以外は認めない、と」
殿下が、私の前に立った。
「なぜ。なぜ、そこまで……」
「決めていたからだ」
殿下の手が伸びて、私の頬に触れた。ヴィクトリア嬢に打たれた、まだ熱を持つ頬。
「私の花嫁衣装を縫える女は、私の花嫁になる女だけだと」
——え?
「ずっと決めていた。三年前から」
深紫の瞳が、月光の中で蕩けるように優しくなる。
「お前の縫い目には、祈りがある。一針一針に込められた想いが、私には見える」
「殿下……私は」
「誰に祈っていた?」
あの夜と同じ問いかけ。
けれど今度は、逃げたくなかった。
「……あなたに。ずっと、あなたのことを想って——」
言葉は最後まで続かなかった。
殿下の唇が、私の言葉を塞いだから。
「——っ!」
「三年も待たせたな。私が見ているのは、昔からお前だけだ」
背後で、ヴィクトリア嬢の悲鳴のような声が上がった。
けれど、もう聞こえなかった。
私の世界には、殿下の深紫の瞳しかなかった。
◆ ◆ ◆
婚礼の朝は、まばゆい陽光と共に訪れた。
大聖堂には、王国中の貴族が集まっていた。
ざわめきが、波のように広がっている。
「王太子殿下の花嫁は、針子だそうだ」
「孤児院上がりの、身分もない女」
「公爵令嬢を捨てて、あんな……」
囁き声が、聞こえる。
大聖堂の控え室で、私は鏡の前に立っていた。
「——綺麗だよ、リーゼ」
エリーゼ主任が、私の背中のボタンを留めながら言った。
「お前が縫った衣装、お前が着る。これ以上相応しいことはないさ」
鏡に映る自分が、信じられなかった。
純白の絹地。控えめなレース。銀糸の刺繍が、窓からの光を受けて月のように輝いている。
——殿下が来なかった夜も、私は縫い続けていた。
誰に頼まれたわけでもない。殿下に命じられたわけでもない。
ただ——縫いたかった。
私が、本当に着せたかった衣装。殿下の花嫁に相応しい、気品ある純白の婚礼衣装。
まさか、自分が着ることになるなんて。
「……私、本当に」
「本当に、王太子妃になるんだよ」
主任が、私の肩を優しく叩いた。
「針は嘘をつかない。お前の想いも、殿下の想いも、縫い目には全部出てた。——だから、胸を張りな」
「……はい」
深呼吸をして、控え室の扉を開けた。
大聖堂への回廊。その先に、祭壇が見える。
そして——
「……っ」
祭壇の前に立つ、黒髪の男性。純白の礼装に身を包んだ、クラウス・ヴァン・エーデルシュタイン。
私が一歩踏み出すと、彼が振り返った。
深紫の瞳が、大きく見開かれる。
「——リーゼ」
その一言に、どれほどの想いが込められていたか。
一歩、また一歩。長い回廊を歩く。
両脇の貴族たちの囁きが、耳に入る。
「あれが針子?」
「想像と違う……」
「あの衣装、見事だわ」
囁きの色が、少しずつ変わっていく。
けれど、もう関係なかった。
私が見ているのは、祭壇の前で待つ人だけ。
「……遅い」
祭壇の前で、クラウスが手を差し伸べた。
「待ちくたびれた」
「すみません。着替えに手間取って」
「——似合っている」
クラウスが、衣装の銀糸に触れた。
「この衣装こそ、お前に相応しい。——お前が、自分のために縫った衣装だからな」
祭壇の前で、神官が聖典を開く。
婚礼の誓いが、厳かに始まった。
「——リーゼ・フォン・ナーデル。この者を夫として迎えることを誓うか」
「……誓います」
私の声は震えていた。けれど、確かに誓った。
指輪が交換され、祝福の鐘が鳴り響く。
その瞬間——
「——ずっと決めていた」
クラウスが、私の耳元で囁いた。
「私の花嫁衣装を縫える女は、私の花嫁になる女だけだと」
「……知っています」
「お前の針目には、いつも私への祈りがあった」
「……はい」
「気づかないとでも思ったか?」
唇が、重なった。
大聖堂に、歓声と拍手が響き渡る。
三年間、千の針目に込めた祈り。届くはずがないと思っていた想い。
それが今、王家の婚礼という形で、成就した。
「これからは、私がお前に祈る番だ」
クラウスが、私の手の甲に唇を落とした。
「千の針目に込められた想いに、千の愛で報いよう」
「……っ、クラウス」
涙が溢れそうになる。
三年間、影のように働いてきた。誰にも顔を覚えられず、ただ針を動かし続けてきた。
唯一の居場所が、針仕事だった。唯一の想いが、届かないはずの祈りだった。
でも——
「私も。これからも、縫い続けます。あなたへの想いを、一針一針に込めて」
「ああ」
「この針目が、私の言葉ですから」
クラウスが、微笑んだ。
「——知っている。だから、お前を選んだ」
窓から差し込む陽光の中、私たちは手を取り合った。
千の針目が紡いだ物語は、ここから新しい章を刻み始める。
王太子妃となった針子の、祈りと愛の物語を——。
【完】




