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婚礼衣装を縫う針子の私が、王太子殿下に『お前以外の花嫁衣装は着たくない』と言われました

作者: uta
掲載日:2026/05/14

「——お前が縫え」


王太子殿下の声が、仕立て部屋に響いた瞬間、針が指を刺した。


じわりと滲む赤を見つめながら、私は自分の耳を疑った。


「……私、ですか」


「他に誰がいる」


燭台の炎が揺れる。深夜の仕立て部屋には、私とこの方——クラウス・ヴァン・エーデルシュタイン殿下しかいない。


(なぜ、殿下がこんな時間にここへ?)


三年間、王宮お抱えの針子として働いてきた。王族の衣装を縫い、貴族の礼服を仕立て、けれど誰にも顔を覚えられない。それが私、リーゼ・フォン・ナーデルという存在だった。


「明日、正式に発表される」


殿下は窓辺に寄りかかり、月明かりを背負っている。深紫の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。


「私の婚礼が決まった。相手はヴァイスハウプト公爵家の令嬢だ」


——知っている。


王宮中の噂になっていた。社交界の華、ヴィクトリア・フォン・ヴァイスハウプト嬢。黄金の髪に翡翠の瞳、誰もが認める美貌の令嬢。


王太子妃に相応しい、完璧な女性。


「おめでとう……ございます」


声が震えなかったのは、三年間の鍛錬の賜物だろう。


(知っていた。いつかこの日が来ることくらい)


私はただの針子だ。孤児院育ちの、取り柄といえば裁縫しかない、影のような女。殿下の花嫁になれるはずがない。——そんなこと、最初からわかっていた。


わかって、いたのに。


「……婚礼衣装は、当然、一流の仕立て屋に依頼されるのでは」


震える指で、刺した傷を押さえる。


「断った」


殿下が一歩、近づいた。


「条件を出した。婚礼衣装は、お前が縫え。——それ以外は認めない、と」


息が、止まる。


「な……」


「聞こえなかったか?」


また一歩。月光が殿下の横顔を照らす。いつもは完璧な笑みを浮かべているその唇が、今は真一文字に引き結ばれていた。


「私の花嫁衣装を縫えるのは、お前だけだ」


——どういう、意味ですか。


問いたかった。けれど言葉が出ない。


殿下の深紫の瞳が、燭台の炎を映してゆらめいている。その奥にある感情が、私には読めない。


「……畏まりました。殿下のご命令とあらば」


結局、私に言えたのはそれだけだった。


俯いて、縫いかけの布地に視線を落とす。これ以上、あの瞳を見ていられなかった。


(期待するな。勘違いするな)


殿下が私を指名したのは、きっと技術を認めてくださったから。それ以上の意味など、あるはずがない。


「——お前の縫い目には、祈りがある」


不意に、頭上から声が降ってきた。


顔を上げると、殿下がすぐ傍らに立っていた。長い指が伸びてきて、私の手から血が滲んだ指を取り上げる。


「っ……殿下」


「誰に祈っている? お前が一針縫うたびに、何を想っている?」


——あなたを。


あなたの衣装を縫うたびに、あなたのことを想っています。


この針目が届けばいいと。この糸に込めた想いが、いつかあなたに届けばいいと。


届くはずのない祈りを、三年間、縫い続けてきました。


「……私は、ただの針子ですから。祈りなど。ただ、良い仕事をしたいと思うだけです」


口をついて出たのは、いつもの言葉だった。


殿下の指が、ぴくりと動いた。


何か言いかけたように唇が開いて——けれど、結局何も言わずに、私の手を離した。


「……そうか」


踵を返す背中が、月光の中に消えていく。


「一ヶ月後だ。婚礼は。最高の衣装を期待している。——お前にしか縫えないものを」


静かに扉が閉まる。


遠ざかる足音を聞きながら、私は血の滲んだ指を胸に押し当てた。


(……お前にしか、縫えないもの)


それは、どんな衣装ですか。


あなたの花嫁を、誰よりも美しく飾る衣装。あなたの隣に立つ女性を、輝かせる衣装。


——私が、いちばん縫いたくない衣装だ。


ぽたり、と。


血ではない雫が、手の甲に落ちた。


「……っ」


慌てて目元を拭う。針子が泣いてどうする。涙で視界が曇れば、縫い目が歪む。


私にあるのは、この針だけ。この糸だけ。この指先だけ。


——だから。


「この針目が、私の言葉です」


誰もいない仕立て部屋で、私は呟いた。


届かなくていい。届くはずがない。


それでも、一針一針に祈りを込める。三年間そうしてきたように、これからも。


殿下の花嫁衣装を縫う、最初で最後の仕事として——。


月明かりの中、私は再び針を取った。



◆ ◆ ◆



翌日、仕立て部屋に嵐がやってきた。


「——あなたが、婚礼衣装の担当ですって?」


黄金の巻き髪を高く結い上げた令嬢が、翡翠色の目で私を見下ろしている。


ヴィクトリア・フォン・ヴァイスハウプト嬢。


王太子殿下の、婚約者。


「……はい。殿下より直々にご命令を賜りました」


頭を下げたまま答える。視線を合わせてはいけない。私のような身分の者が、公爵令嬢の目を見るなど許されない。


「ふうん? 殿下も物好きね。こんな——」


白い手袋に包まれた指が、私の顎を掴んで持ち上げる。


「薄汚い針子に、私の衣装を縫わせるなんて」


翡翠の瞳が、値踏みするように私の全身を舐め回した。


「まあ、確かに地味ね。これなら殿下の目に留まることもないでしょうし」


嗤うように唇の端を吊り上げて、ヴィクトリア嬢は私の顎を乱暴に離した。


「いいわ。特別に許可してあげる。ただし、条件があるの」


令嬢は従者に目配せをした。従者が恭しく差し出したのは、何枚もの紙束。


「これが私のドレスのデザイン。一週間で仕上げなさい」


受け取った紙を見て、息を呑んだ。


豪華絢爛、という言葉すら生ぬるい。金糸銀糸をふんだんに使った刺繍、何層にも重なるフリル、宝石を散りばめた装飾——


「あの、ヴィクトリア様。このデザインですと、一週間では」


「言い訳? 王太子妃となる私の衣装よ? 最高のものを用意するのは当然でしょう。それとも、あなたにはその程度の腕もないのかしら」


「……いいえ」


「なら、できるわね?」


答えは一つしかない。


「……畏まりました」


「よろしい」


ヴィクトリア嬢は満足げに微笑んだ。けれどその目は、少しも笑っていなかった。


「ああ、それから。あなたのような存在が、王宮にいること自体が間違いよ。身の程を弁えなさい」


——バタン。


乱暴に閉められた扉の音が、耳の奥で響いている。


「……っ」


握りしめたデザイン画が、しわになる。


(身の程、か)


わかっている。痛いほど、わかっている。


孤児院育ちの針子が、王太子の婚礼衣装を縫う。それがどれほど異例のことか。どれほど身分違いのことか。


——それでも。


「リーゼ」


背後から、温かい声がかかった。


振り返ると、栗色の髪をきっちりとまとめた女性が立っていた。エリーゼ主任。仕立て部屋の責任者であり、私を王宮に推薦してくれた恩人。


「……主任」


「聞こえていたよ、全部。あの令嬢、評判通りだね。いや、評判以上かな」


「……私は大丈夫です」


私は微笑んで見せた。


「次は必ず、お気に召していただけるものを」


「大丈夫じゃない顔してるよ」


主任が私の肩を掴んだ。琥珀の瞳が、怒りに燃えている。


「あの子の縫い目を見れば、どんな想いで縫ったかなんて一目瞭然さ」


主任は私の手を取り、じっと見つめた。


「お前の指は、祈りながら縫う指だ。誰に祈ってるかは——まあ、聞かないでおいてやるよ」


「っ……」


「ただね、リーゼ。針は嘘をつかない。お前が縫えば、縫い目に想いが出る。隠せやしないのさ」


——隠せない。


この三年間、一針一針に込めてきた祈り。殿下の衣装を縫うたびに、指先から溢れ出る想い。


それが、縫い目に出ている?


「……主任。私は、ただの針子です。ただの針子が、王太子殿下の婚礼衣装を縫う。それだけです。それ以上の意味なんて、ありません」


自分に言い聞かせるように、呟いた。


主任は何も言わなかった。


ただ、少し悲しそうな目で、私を見つめていた。



◆ ◆ ◆



一週間後。


「——気に入らないわ」


ヴィクトリア嬢の言葉が、仕立て部屋に響いた。


「……どこがお気に召しませんか」


私は膝をついたまま、問うた。


目の前には、七日七晩かけて完成させた婚礼衣装。金糸銀糸の刺繍、幾重にも重なるフリル、宝石を散りばめた装飾——すべて、ヴィクトリア嬢のデザイン通りに仕上げた。


「全部よ。なんていうか、品がないのよね。成金趣味っていうか」


(……それはあなたのデザインでは?)


喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。


「やり直しなさい。今度は——そうね、純白を基調にして、もっとシンプルに。王太子妃に相応しい、気品のある衣装を」


「シンプル、ですか」


「ええ。一週間で仕上げられる?」


「……畏まりました」


答える声が、自分でも掠れていると分かった。


七日間、ほとんど眠らずに仕上げた衣装。それが、たった一言で却下される。


「あら、顔色が悪いわね。まさか体調を崩して、婚礼に間に合わないなんてことはないわよね?」


「……ございません」


「よろしい。私の衣装に相応しい者だけが触れることを許すの。——身体の弱い針子なんて、お払い箱よ」


その後も、デザインは三度、四度と変更された。


婚礼まで、あと十日。


疲労で霞む視界の中、私は五度目の衣装を縫い続けていた。



◆ ◆ ◆



「——リーゼ! 大変だよ!」


仕立て部屋に飛び込んできたのは、若い針子見習いの少女だった。


「ヴィクトリア様が……っ!」


血相を変えた少女に連れられ、私は令嬢の私室へと向かった。


扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは——


「——これ、どういうこと? 私の衣装に、こんなシミが!」


ヴィクトリア嬢が、衣装を手に立っていた。純白のドレスに、赤い液体が飛び散っている。


「なっ……」


息を呑む。あの衣装は昨日、完璧な状態で納品したはずだ。


「しかも、見てちょうだい」


ヴィクトリア嬢が衣装を振り回すと、中から何かがひらりと落ちた。


亜麻色の、長い髪。


「あなたの髪よね? 私の衣装に、薄汚い針子の髪が混入していたの。——これ、どう説明するつもり?」


「私は……そんな」


「言い訳しないで。王宮の針子が、王太子妃の衣装を汚したのよ。これは重大な不敬罪。当然、解雇——いいえ、罰を与えるべきね」


周囲にいた侍女たちがざわめく。


「私は入れていません。仕上げの際、髪は必ず布で覆います。シミも、納品時にはありませんでした」


「嘘をつくの? 誰が信じると思う? 孤児院上がりの薄汚い針子の言葉を」


「私は……」


「黙りなさい! 身の程知らずの針子が。王太子殿下に色目を使って、婚礼衣装の担当を勝ち取ったつもり?」


「違います!」


「違わないわ。殿下が夜な夜な仕立て部屋に通っていたこと、知っているのよ。——あなたに会うために」


息が、止まった。


「私の婚約者が、こんな地味な女のところに。毎晩、毎晩。許さないわ。絶対に許さない」


翡翠の瞳に、狂気じみた光が宿る。


「あなたを解雇して、王宮から追い出して、二度と殿下に近づけないようにしてあげる」


「——それは困るな」


低い声が、部屋に響いた。


全員が、凍りついたように動きを止める。


扉の前に立っていたのは——


「殿下……!」


クラウス殿下が、ゆっくりと部屋に入ってきた。


その後ろには、エリーゼ主任とフェリクス殿下の姿。


「く、クラウス様。聞いてください、この針子が」


「黙れ」


静かな、けれど有無を言わせない声。


殿下の深紫の瞳が、ヴィクトリア嬢を射抜いた。そこには、氷のような冷たさがあった。


「証拠は揃っている」


「え……?」


「その衣装に赤いシミをつけたのは、お前の侍女だ。髪を仕込んだのも」


エリーゼ主任が進み出た。手には、何枚かの書類。


「針仕事を終えた後のリーゼの部屋を、侍女が物色していたところを目撃した者がいる。髪を採取しているところをね」


「そんな……」


「シミの赤い液体は、お前の私室にあったベリー酒と成分が一致した。調べればすぐに分かることだ」


殿下が、一歩、また一歩とヴィクトリア嬢に近づく。


「虚偽の訴えで王宮の職員を陥れようとした罪、重いぞ」


「わ、私は……殿下、違うんです。この針子が殿下を誑かして」


「——誑かした? 私が三年間、彼女を見続けてきたことを、誑かされたとでも?」


三年間。


その言葉に、心臓が大きく跳ねた。


「三年前、孤児院で彼女を見つけた。子供たちの服を繕う、その縫い目に——私は心を奪われた」


殿下が振り返り、私を見つめた。


深紫の瞳が、燭台の炎を映して揺れている。


「王宮に雇い入れたのは私だ。毎晩仕立て部屋に通ったのも私だ。——すべて、私が望んだことだ」


「殿下……」


「政略結婚の話が持ち上がった時、私は条件を出した。婚礼衣装は、彼女が縫う。——それ以外は認めない、と」


殿下が、私の前に立った。


「なぜ。なぜ、そこまで……」


「決めていたからだ」


殿下の手が伸びて、私の頬に触れた。ヴィクトリア嬢に打たれた、まだ熱を持つ頬。


「私の花嫁衣装を縫える女は、私の花嫁になる女だけだと」


——え?


「ずっと決めていた。三年前から」


深紫の瞳が、月光の中で蕩けるように優しくなる。


「お前の縫い目には、祈りがある。一針一針に込められた想いが、私には見える」


「殿下……私は」


「誰に祈っていた?」


あの夜と同じ問いかけ。


けれど今度は、逃げたくなかった。


「……あなたに。ずっと、あなたのことを想って——」


言葉は最後まで続かなかった。


殿下の唇が、私の言葉を塞いだから。


「——っ!」


「三年も待たせたな。私が見ているのは、昔からお前だけだ」


背後で、ヴィクトリア嬢の悲鳴のような声が上がった。


けれど、もう聞こえなかった。


私の世界には、殿下の深紫の瞳しかなかった。



◆ ◆ ◆



婚礼の朝は、まばゆい陽光と共に訪れた。


大聖堂には、王国中の貴族が集まっていた。


ざわめきが、波のように広がっている。


「王太子殿下の花嫁は、針子だそうだ」

「孤児院上がりの、身分もない女」

「公爵令嬢を捨てて、あんな……」


囁き声が、聞こえる。


大聖堂の控え室で、私は鏡の前に立っていた。


「——綺麗だよ、リーゼ」


エリーゼ主任が、私の背中のボタンを留めながら言った。


「お前が縫った衣装、お前が着る。これ以上相応しいことはないさ」


鏡に映る自分が、信じられなかった。


純白の絹地。控えめなレース。銀糸の刺繍が、窓からの光を受けて月のように輝いている。


——殿下が来なかった夜も、私は縫い続けていた。


誰に頼まれたわけでもない。殿下に命じられたわけでもない。


ただ——縫いたかった。


私が、本当に着せたかった衣装。殿下の花嫁に相応しい、気品ある純白の婚礼衣装。


まさか、自分が着ることになるなんて。


「……私、本当に」


「本当に、王太子妃になるんだよ」


主任が、私の肩を優しく叩いた。


「針は嘘をつかない。お前の想いも、殿下の想いも、縫い目には全部出てた。——だから、胸を張りな」


「……はい」


深呼吸をして、控え室の扉を開けた。


大聖堂への回廊。その先に、祭壇が見える。


そして——


「……っ」


祭壇の前に立つ、黒髪の男性。純白の礼装に身を包んだ、クラウス・ヴァン・エーデルシュタイン。


私が一歩踏み出すと、彼が振り返った。


深紫の瞳が、大きく見開かれる。


「——リーゼ」


その一言に、どれほどの想いが込められていたか。


一歩、また一歩。長い回廊を歩く。


両脇の貴族たちの囁きが、耳に入る。


「あれが針子?」

「想像と違う……」

「あの衣装、見事だわ」


囁きの色が、少しずつ変わっていく。


けれど、もう関係なかった。


私が見ているのは、祭壇の前で待つ人だけ。


「……遅い」


祭壇の前で、クラウスが手を差し伸べた。


「待ちくたびれた」


「すみません。着替えに手間取って」


「——似合っている」


クラウスが、衣装の銀糸に触れた。


「この衣装こそ、お前に相応しい。——お前が、自分のために縫った衣装だからな」


祭壇の前で、神官が聖典を開く。


婚礼の誓いが、厳かに始まった。


「——リーゼ・フォン・ナーデル。この者を夫として迎えることを誓うか」


「……誓います」


私の声は震えていた。けれど、確かに誓った。


指輪が交換され、祝福の鐘が鳴り響く。


その瞬間——


「——ずっと決めていた」


クラウスが、私の耳元で囁いた。


「私の花嫁衣装を縫える女は、私の花嫁になる女だけだと」


「……知っています」


「お前の針目には、いつも私への祈りがあった」


「……はい」


「気づかないとでも思ったか?」


唇が、重なった。


大聖堂に、歓声と拍手が響き渡る。


三年間、千の針目に込めた祈り。届くはずがないと思っていた想い。


それが今、王家の婚礼という形で、成就した。


「これからは、私がお前に祈る番だ」


クラウスが、私の手の甲に唇を落とした。


「千の針目に込められた想いに、千の愛で報いよう」


「……っ、クラウス」


涙が溢れそうになる。


三年間、影のように働いてきた。誰にも顔を覚えられず、ただ針を動かし続けてきた。


唯一の居場所が、針仕事だった。唯一の想いが、届かないはずの祈りだった。


でも——


「私も。これからも、縫い続けます。あなたへの想いを、一針一針に込めて」


「ああ」


「この針目が、私の言葉ですから」


クラウスが、微笑んだ。


「——知っている。だから、お前を選んだ」


窓から差し込む陽光の中、私たちは手を取り合った。


千の針目が紡いだ物語は、ここから新しい章を刻み始める。


王太子妃となった針子の、祈りと愛の物語を——。



【完】

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