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こんなにも浅ましい僕を

 指先が冷たい。

 昨日の夜から延々と降り続いている雨はガラス張りの図書館を外の景色ごとぐっしょりと濡らし、雲に隠れた太陽がかろうじて光を透かしているのだけれど室内の蛍光燈はとこか寒々しく人工的な灯りでそれをはねつけている。

 指先が冷たい、それはペンを握る自分の手のはずなのに、動き方すらぎこちなくて他人のそれとなんら変わりなく遠い世界にあるようだ。

 今年の夏は記録的な冷夏で、そして去年は記録的な猛暑だった。受験生の夏というのにこれじゃ春秋冬でなんだか縁起が悪くてまた嫌ね、と図書館の自習室でオレンジ色の髪をした女の子がそっと、隣にいた彼氏らしき黒髪に囁いているのが聞える。じゃあ浪人生の僕にはもっと縁起が悪いはずです、と心の中で会話を勝手にしてみて、ひとつ深呼吸してから目の前の問題集に再び目を落とした。

 先月買い換えたばかりの深く暗い色をした赤茶の縁をした眼鏡を人差し指と中指の先で静かに押し上げるのが実は癖で、そうするとどこか頭が良く見えるらしい、予備校で時折隣の席になる女の子からも言われたしこの図書館でも三人組の女の子達から零れてきた囁き話で漏れ聞いたこともある。頭が良く見えると言われても、一浪しているので果たしてそれはどうなのだろうと苦笑を禁じ得ないのだけれど。

 平日昼間の図書館は静かで雨音すら聞えず、目で確認するだけだ、それなのに過去の記憶なのか頭の中ではきちんと雨が世界を打つ音が響く、それはひどく正確にそして幻想的に。頭の中に入ってこない数学の問題、雨音と共に眼裏へ浮かび上がるのは濡れた誰かの甘い唇で、その誰かを知っていながら僕は静かにそれを追い出そうと頭を振ってみる、数学に集中しないといけないのだと自分に言い聞かせて、そして意味がないことも気付かない振りをして。十九歳、なんて中途半端で哀しい存在なのだろう、大人ではなく子供ではなく、どちらにも属しているくせにどちらにも属せないあやふやな、僕、僕ら。

『……駄目よ、わたしには帰る場所があるのよ』

 自習室には窓がない代わりに、入り口のドアがすべてガラスになっている。そこから、いくつかの本棚を越えて外の景色が見える。雨に濡れた図書館前の公園に似た広場はすべての緑を妙に色付かせているくせにどこか儚く夢で見た遠い異国を思わせていた。写真で撮ったらまた違う顔になるのだろう、と考えてさっき頭に浮かんでしまった声に知らん振りをしようと思ったのだけれど無理だったようだ。

 一度思い出してしまうと少し。

 不安になる、不安定になる、叫び出したい孤独な夜のように切なくなる。

 脇腹の少し下、骨盤の少し上、あの人の白い肌には深い紺色の蝶が刻まれていた。

『……本気の恋なんて、そんなの、君とは出来ないのよ』

 長い髪からは柑橘類の匂いがした、いつもはきっちりと縛られている茶色がかったその髪が解かれるのは、僕の目の前で解かれるのは少なくとも初めてで、それはひどく僕を静かに興奮させる光景だった、あの人の、長い髪、脇腹の、小さな蝶。

 家庭教師、と言えば聞こえは良いけれど、兄貴の恋人だった、いや、今も。彼女は何も言わないまま僕とのことなどまるきり眼中にない態度でそしてただ好きな人の弟の勉強を教えるけなげな女性を装って。僕に勉強を教えてくれていた、兄貴の香水によく馴染む甘くクールな香りをいつもさせて。誘ったのはあの人の方だと、僕は言い切ることが出来ない。

 誘ったのなんて、誘うのなんて、お互いに気付かないと無理な行為で、僕らはだからあの日言い方を間違えているのでなければそれは共犯者だった、いつものように肩に置かれた手、問題集を覗き込む横顔、髪の、匂い。反応しなければ良かったのかもしれないなんて今更言うのはみっともなくてそれに僕は気付きたかった、勘違いだとは少しも思わなかったから、唇は、この唇は望めば手に入るものなのだと妙な確信すらあった、それが兄貴のものであるとはっきり分かっていても。

 辞書を借りるように、シャツを借りるように、もっと自然に、彼女の唇も僕が手を伸ばせば当たり前のように貸してもらえるものだと信じてしまった。彼女だって悪気も罪悪感もなかっただろう、まったく、これっぽっちも。

 頬に触れてきた指先は冷たかった、子供を凍らせる魔女はきっとこんな風に足の先から心の奥までを冷たくさせるのだろうと思ってしまうくらいに。そして僕の心も上手に麻痺させる。今から思えば彼女も緊張していたのだろう、だからきっとあんなに冷たい指をしていたのだ。

『よく似た、顔をしているのね……』

 細い腕、白い顔、僕の兄貴の恋人。

 赤い眼鏡、日焼けした掌、彼女は僕に何を重ねて見ていたのだろう、最近仕事が忙しくてちっとも遊んでくれないと嘆いていた恋人のことだろうか、恋人、僕の兄貴。

 頬はひどく微弱な電気を彼女の指から流されたように自然とそちらを首ごと向けてしまい、お互いの間の空気が切ない濃さで流れ出して少し、彼女の香りに鼻がくすぐられて思わず目を閉じてしまった時に唇は重なった。絶妙なやわらかさ、それが初めてのキスだったわけではないのだけれどどうしてだろう、罪悪感が甘い甘いスパイスになってしまったように僕の全神経を唇へと向けてしまった。舌が忍び込んでくる、やわらかくてぬるりとした別の生き物によく似ている、そういえば彼女の名前は何だったのだろう。

「あの、」

「あっ、はい、」

 ペン落ちましたよ、と目の前に見慣れた緑色のシャープペンが差し出されて、僕は驚いた顔のままペンに添えられてきた白い手の持ち主を見上げる。

「……あ、ああ、すみません、」

 数学の問題集はさっき見ていたところとは違うページを開いていて、僕は随分ぼんやりしていたのかもしれないと濁った頭で思った。

「いえ、あの、ご飯まだですよね、」

「……え、」

「いいえ、あの、一緒にご飯、どうかしら、と思って、」

 こほん、と誰かが咳をした、そんなに喋るなら喫茶室へでも行けという合図だ。ペンを拾ってくれた女の子は困ったように笑い、その笑顔はとても綺麗でなかなかの美人さんだと僕は思ったのだけれど、上手く対処できずに黙ってその娘の顔を見詰めることしか出来なかった。

「あの、……ごめんなさい、いきなり、」

「……あ、いや、ペン、ありがとうございました」

 誘われているのだとやっと思い当たった時には、その娘の顔は張りついただけの笑顔の残骸だけになっていて、明らかにそれは僕が傷付けてしまったのだろうと感じた。向こうが勝手に僕へ好意を押し付けようとしただけかもしれないけれど、それにしても、少なくとも可愛らしい娘だったので、今の態度は邪険すぎたかもしれない、いくら僕が鈍感だったとしても。

「あの、」

 声をかけてどうするのかな、と自分でも続きが分からない。

 僕主役の、だけれど台本はまだ渡されていないドラマのように。

「昼飯、確かにまだなんです、すみません、今ちょっとぼーっとしてて、」

 バカみたいなセリフ、アドリブがここまで最低だと自分にもげんなりする。けれども女の子は笑ってくれた、今度は最初のと同じやつだ、ぺったり張り付いた残骸ではない方。

「一緒に、」

「食べて下さいって、言うのも大丈夫でしょうか」

 うん、と僕は頷く、ひとつ、大きく。

 それでも頭の中には兄貴の恋人のあの人の姿があって、それはもう唇を思い出しただけで発狂しそうなほど身悶えてしまいそうで、最悪だ、と自分の心の中で大きく叫んでみるしかない。

 僕も恋人を作ったら、あの人と同等になれるだろうか、ただの共犯者としてでもかまわないからまたキスが出来たりするだろうか、そんな事を考えてしまう浅ましい僕を。

 誰が許して許容して受け入れてくれるというのだろう。

「……喫茶室、でも行きますか」

「はい、」

 夏だけれど雨が降っていて、半袖では肌寒いくらいなので蝉も鳴いていない。間違った夏はまるで僕のようだ、あの人の脇腹でひらひらと飛んでいた蝶を思い出して僕は遠くを見てしまう。あの蝶が、僕のものになることは、ないのだ、きっと、ずっと。それでもあの人が僕の兄貴の恋人であり続ける限り。何も切れることのない関係が続くだろうと思ってしまう僕が、情けなくて哀しい。

 喫茶室がある三階までのエレベーターの中で、僕を誘った女の子は前から僕が気になっていただとかいつも十二時二十分に昼飯を食いに消えるのでいつか声をかけてみたかっただとかいろいろとぎこちなく、しかし楽しそうに話していたけれど僕の耳にはほとんど何も入ってこなかった。

 今年の夏はもうこれで終わりなのだろうかと思うと、暑いのは嫌いなはずなのに寂しい気がしてしまう。来年大学に受かって地元からいなくなれば一人暮らしが始まり、本当に好きな人が出来て恋をして、こんな中途半端な十九の夏など忘れてしまうのだろう。今は、こんなにも半端な存在でしかない僕も。

「……それで、あの、」

 女の子が話をまだ続けている。エレベーターが三階について、図書館と同じガラス張りの壁から外を見た時、先ほどと変わらず雨は降り続いていたのだけれど、そこにあの紺色の蝶が飛んでいれば良いのに、と思ってしまった僕のバカバカしさを自分で笑ってみてもどうしようもないだけだった。

 僕のものにならない蝶、手に入れたら死んでしまうかもしれない、だから。

 この半端な夏の記憶としていつまでも残っていれば良いのだと、そう思うのはただの負け惜しみだろうか、負け惜しみ以外の何物でもないのだろう、僕の頬に残るあの冷たい指先の感覚、僕の心はあの指先で「恋」という状態のまま留まるよう凍らされてしまったのだと、認めたいのか認めたくないのか。

 もう一度、あの唇に触れたいと。

 思ってしまう、浅ましい僕を。

 頭の中では彼女は兄貴のものなのだと理解しようとして、心の中ではそれでも近くにいればまたチャンスは巡ってくるかもしれないと思おうとしている、恰好悪い僕、けれども人のほとんどがそんなものなのではないのかと無理やり納得しようともしていて。

 喫茶室に入ったらこの娘の名前を聞いてみようと思うけれど、きっとすぐに忘れてしまうのだろう。誰か、暖かな手で僕の心を溶かしてあの人の事を流しされば良いのに、でもきっとそんなことをしようとする人間が現れたら僕は全速力で逃げ出すだろう。

 矛盾している、恋する人間なんてみんなそうだ、だから僕はしばらく恰好悪いままでいる。それで、いいと思う。

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