タイトル未定2026/02/17 17:14
俺の婚約者、リディア・フォン・クラウゼルは、平凡だ。
顔立ちは地味。
才覚も突出していない。
社交界でも「無口な伯爵令嬢」という評価。最低だ。
だが。
あの女は、執念深い。
蛇のように。
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「アルベルト様。最近、エミリア様とよくお会いになっているとか」
にこり、と穏やかに笑う。
俺は肩をすくめた。
「だから何だ。君には関係ない」
「ございますわ」
即答だった。
「わたくしたちは婚約しております。双方の合意のもとに結ばれた、正式な約束です」
――約束。
その単語を口にする時だけ、彼女の声はわずかに低くなる。
「だが、好みではない相手と無理に結婚する必要はないだろう?」
「でしたら最初から同意なさらなければよろしかったのです」
ぴしゃり、と言い切る。
「わたくしは、破棄そのものを責めているのではありません。事情があるなら、筋を通せばよろしい」
一歩、近づく。
「ですが殿下は、わたくしに非があるかのように振る舞い、わざと冷遇し、わたくしから婚約破棄を言い出させようとしている」
見抜いていたのか。
最初から。
「それが気に入らないのです」
笑顔のまま、目だけが冷たい。
「約束を守らない方が、嫌いですの」
ぞくり、とした。
「正妃の座に未練はございません。王族でなくとも、静かな領地で暮らすのも悪くないでしょう」
「……ならなぜ」
「約束を、軽んじられたからです」
その言葉には、妙な重みがあった。
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――アルベルト視点・回想――
ここまで俺は、あらゆる手を使った。
穏便に婚約破棄を成立させるために。
そう、自分ではそう思っていた。
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最初は無視をした。
舞踏会で彼女に声をかけない。
隣に立たせない。
視線も合わせない。
誰が見ても「冷え切った婚約者」だと分かる態度を徹底した。
だがリディアは、
「本日はお忙しいのですね」
と微笑み、完璧な距離を保ち続けた。
周囲の評価は――
“冷たい王子を支える健気な令嬢”。
失敗だった。
次に俺は、あからさまに他の令嬢を褒めた。
「エミリア嬢は華やかだな」
「教養も高い」
「実に王妃向きだ」
わざと彼女の前で言った。
普通の令嬢なら顔色を変える。
だがリディアは首を傾げただけだった。
「そうですわね。殿下は華やかな方がお好みなのですね」
淡々と。
「ですが、それと婚約の履行は別問題です」
論点をずらさない。
感情に乗らない。
俺の苛立ちだけが積み重なった。
俺は苛立ち、言葉を強めた。
「君は地味だ」
「面白みがない」
「妻にするには物足りない」
わざと聞こえるように。
わざと人前で。
最低だと自分でも思った。
だが彼女は、
「改善点をご提示いただければ努力いたします」
と答えた。
怒らないし、泣かないし、折れない。
その代わり――
翌日には俺の失言が“王族らしからぬ軽率な発言”として社交界に広まっていた。
彼女は何も言っていない。だが事実だけが、正確に伝わっている。
わざと愚者の仮面を被ることで婚約破棄をしようとしているのは、おそらく一部の人間にはわかっているはずだ。
とにかくマナーを無視してでも、婚約が破棄できればいい。
まだ悪意が足りない。
「ーー君がもっと魅力的なら、俺もこんなことはしない!」
言ってしまった。最悪の一言だった。
その時だけ、彼女の目が細くなった。
「それはつまり、殿下はご自身の行動を他者の責任になさるのですね」
声は穏やかだが一歩も引かない。
「わたくしが至らない点は認めます。ですが、婚約者として誠実であるかどうかは、殿下の問題です」
俺の言葉は、すべて跳ね返される。
最終的に、俺は彼女の家への支援を減らした。
遠回しに圧をかければ、向こうから頭を下げてくると思った。
リディア自身も自由に使える金はそこらへんの商家より少なくなったはずだ。だがーー
「我が家は契約通りの義務を果たしております。殿下もどうぞ契約通りに」
正式な文書が届いた。
冷静で、隙がない。
感情ではなく、理屈で詰めてくる。
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そして今。
俺は気づいている。俺がやってきたことはすべて――
卑怯だった。
正面から「婚約を破棄したい」と言えないから、
彼女が音を上げるのを待っていただけだ。
だが。
彼女は折れない。
なぜなら彼女は俺を愛しているからではない。
ただ――
「約束を軽んじる人間が嫌い」
それだけの理由で、俺を逃がさない。
俺は思う。
この婚約は牢獄だ。
だが檻を作ったのは、俺自身なのではないかと。
「婚約は家同士の契約。国の前で交わされた誓い。それを“好みではない”で踏みにじり、「真実の愛」様に移行するための踏み台にされるつもりは、流石に私の矜持が許しませんの。
それに、3年以上待たせた私を一方的に破棄をすれば、あなたがたは元からできもしない約束をし、一方的に破るために暴力をふるう不名誉な嘘つきだと社交界で有名になりますわね。私、こんな年齢になりましたから次の嫁ぎ先を見つけるのが大変でしてよ?」
「そうか、なら他の嫁ぎ先を…」
「あら、約束を反故にされますの?」
彼女の言葉に、俺は思わず言葉を失う。
「殿下が正式に頭を下げ、理由を述べ、双方の家に説明を尽くし、責を負うならば」
彼女は淡々と続ける。
「わたくしは即座に婚約解消に応じます」
「……」
「ですが、卑怯な形で約束を破るなら」
にこり。
「婚約破棄の代償は、もはや社交界の注目の的ですの。私もここで破棄されると大変な恥辱ですわ」
リディアの細い笑みに背筋が冷えた。
「殿下がどれほど冷たくなさろうと、わたくしは粛々と“婚約者”を務めます。社交界でも、宮廷でも」
蛇だ。
感情ではない。
執着でもない。
ただ――原則。
約束を破る者を許さない、という信条だけで絡みついてくる。
「殿下が正面から破棄を宣言なさるまで、わたくしは決して折れません」
平凡な顔で、静かに告げる。
「それが、わたくしの矜持です」
俺は初めて理解した。
彼女は俺を愛しているわけではない。
正妃の座に執着しているわけでもない。
ただ。
俺のやり方が気に食わないのだ。
そしてそれを、絶対に許さない。
逃げ場はない。
俺が誠実になるか、
徹底的に戦うか。
――選ぶのは、俺の方だった。
俺は焦った。
「俺がどんな手を使ってでも、君との結婚を母上に納得させる」
身分の低い娘に約束してしまっていた。
そして彼女はすでに妊娠しているーーー
いつもの二枚舌外交のツケだ。
いや、今回は婚約を打診した父上母上も裏切っていたので、三枚舌か。
だが、いざとなればリディアを暴漢に襲わせて亡き者にしても、
リディアを病死に見せかけて殺すこともいとわなければいいのだ。
こんなものは押し付けられた婚約なのだから、俺とクラウディアがハッピーになればそれでいい。
――思考が、そこまで滑り落ちた瞬間だった。
「……今、とても危険なことをお考えになりましたわね」
リディアが、ふと目を細めた。
俺はぎくりとする。
「何を言っている」
「殿下は追い詰められると、“盤上の駒を減らせば解決する”とお考えになる癖がおありですものーー流石に戦争を世界で一番起こしている武勇国家のの英雄様ですわ」
穏やかな声音。称賛の影の皮肉がスパイスのように効いている。
だが、言葉は鋭い。
「まさかとは存じますが、わたくしを事故や病で退場させれば丸く収まる、などと」
心臓が跳ねた。
なぜ分かる? 顔に出たか?
「ご安心を」
彼女はさらりと言う。
「その程度の想定は、とうに済ませております」
「……は?」
「殿下が“穏便”に事を運べない方だということは、この三年で十分に学びました」
一歩、距離を取る。
その仕草すら計算されているようで、腹立たしい。
「わたくしに万一のことがあれば、複数の証書と書簡が自動的に開示される仕組みですわ」
「証書……?」
「殿下のご発言、資金の動き、命令系統。すべて公証済みで保管しております」
血の気が引く。
「冗談だろう」
「冗談で自分の命を担保にいたしません」
静かに言い切った。
「わたくしは殿下を信頼しておりませんので」
にこり。
その笑顔が、ぞっとするほど誠実だ。
俺は初めて理解した。
彼女は俺を追い詰めるために立っているのではない。
ただ、“理不尽”を通させないために備えている。
俺が卑怯に動けば動くほど、彼女の防御は完成していく。
蛇ではない。
城壁だ。
俺の浅知恵では崩せない。
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「……仮にだ」
喉が渇く。
「俺に、守るべき事情があるとしたら?」
「事情?」
「身分の低い娘と……約束をした」
初めて、口に出した。
「彼女は、子を身ごもっている」
沈黙。
数秒。
だが永遠のように長い。
「……なるほど」
リディアは目を伏せた。
怒鳴らない。
取り乱さない。
ただ、状況を整理している顔。
「その方は、殿下が正式に娶ると約されたのですか」
「ああ」
「書面は?」
「……ない」
「証人は?」
「いない」
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「殿下」
その声音は、初めてわずかに硬かった。
「それは“約束”ではなく、“口約束”です」
胸に刺さる。
「国の前で誓った婚約と、二人きりの密約。どちらが重いか、お分かりになりますわね」
「だが子がいる!」
「だからこそ、正面から責任をお取りになるべきです」
きっぱり。
「王太子として、父として」
俺は言葉を失う。
「隠し、消し、誰かを踏み台にして守るものを、愛とは申しません」
冷酷なほど正しい。
「その女性を守りたいなら、わたくしを害する必要はございません」
「ではどうしろと」
「王妃陛下と国王陛下に事情を説明し、婚約破棄を正式に申請なさいませ」
簡単に言うな。
「その場合、殿下の評価は地に落ちます」
「……」
「ですが、嘘と暴力で塗り固めた未来よりは、まだ立て直せます」
淡々とした分析。
「わたくしは、その手続きが正式に行われるなら協力いたします」
「協力?」
「“殿下が誠実に責任を取る”という形に整えるための証言をいたします」
思わず顔を上げる。
「なぜそこまで」
「申し上げましたでしょう」
微笑む。
「わたくしは約束を軽んじる方が嫌いなだけです」
「例えば私を側妃として正妃の宮に近づかない代わりに身の安全が保証された屋敷を与える正式な書面を作成する、あるいは、殿下が正面から破棄なさるなら、わたくしは正面から退きます」
静かだ。
感情ではない。
契約。その重さを俺は理解する。
彼女は敵ではない。俺の卑怯さの、鏡だ。
彼女を消しても問題は消えない。
俺の弱さが残るだけだ。
「……怖くないのか」
思わず問う。
「何がです」
「俺が、本当に君を害そうとするかもしれない」
彼女は一瞬だけ黙り、
「怖いに決まっております」
と、初めて本音を零した。
「ですが」
顔を上げる。
「それ以上に、自分の矜持を裏切る方が怖いのです」
憎らしいほど平凡な顔。地味な令嬢。だがその目は、誰よりも強い。
選択肢は二つ。
暴力と隠蔽で泥に沈むか。
正面から責任を取り、すべてを失うか。
王太子としての地位。
名誉。
母の期待。
そして――
俺のプライド。
「……時間をくれ」
やっと絞り出した。
「もちろん」
リディアは頷く。
「ですが殿下」
「何だ」
「その女性とお子は、すでに“守るべき存在”です」
穏やかに告げる。
「どうか、これ以上誰も傷つけない選択を」
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俺は初めて、自分が何人の人生を軽く扱っていたのかを思い知る。
リディア。
身分の低い娘。
まだ見ぬ子。
そして――
王太子としての責務。
蛇だと思っていた。
だが違う。
彼女は、俺が踏み外さないように足元を締める鎖だ。逃げるほど、食い込む。
「殿下がその女性と子だけを守る誠実な誓いを立てる存在であれば、当然王族としてはふさわしくないでしょうね。王族は領民を守る引き換えに高価な身分を許されております。私に暴漢を送った段階で、もう引き返せないでしょうが」
誠実になる覚悟があるのか。
それとも。
最後まで卑怯者でいるのか。
物語は、そこで大きく舵を切ろうとしていた。




