59.鬼のヨー(ย)
ここら一円に「蓋」をするためにロップを護衛しながら白いもやのなかを前進していた俺たちだったが、人面ムカデを七匹ほど倒したところでだんだんあたりが薄暗くなってきた。
「そういえばカヤンは二日かけて回ってこいって言ってたな……」
俺は同行しているロップ、クマリー、レック、ミーに話しかける。
「どうする? きょうはここまでにするか?」
「――それがよろしいかと存じますわ」
みんなが答えるよりも早く、前方からおしとやかな女性の声が聞こえた。
地面に横たわる枝の内側に沿って彼女が俺たちのほうに向かってくる。
白すみれ色の髪と瞳を持つ女性だ。
左右の髪を胸の前に垂らしており、その毛先で緩い巻き毛を作っている。
瞳は大きく、つぶらだ。妖艶で蠱惑的な顔面を見ていると、吸い込まれそうになる。
トップスは薄い青の長袖。裾や袖口、えりの部分が金色に縁取られている。首と腹部からは黒いインナーがのぞく。
ボトムスも薄い青に金色の縁取りをしたものだ。ただしその形状はスカートともズボンとも言えない。
ひざにも届かない四枚の布を前後左右から垂らしているのだ。前と後ろの布のほうが、左右の布よりも幅広である。
白いニーソックスをはいており、靴の色も白。
靴の先端は真上に大きく湾曲している。
彼女は複数の突起の付いた黒く太い棍棒を所持していた。
棍棒を背中に回して両手で持ち、その先端を天に向けている。
棒の一部が彼女の頭頂部の後ろから突き出ているので、まるで黒い柱に彼女自身が縛られているかのように錯覚してしまう。
そして彼女は背が高い。
俺の視線を水平にやると、ちょうど彼女の肋骨の周辺を見ることになる。
手を後ろにやったまま、彼女があごを引く。
白すみれ色の瞳で俺たちと順々に目を合わす。
「この先にテントをご用意しております。そこで休んでくださいまし」
「どうやらあなたがナーグルアさんのようですねっ。助かります~」
クマリーが両手を挙げてバンザイしたあと、鐘のイヤリングでカヤンに報告する。
「もしもし、たった今ナーグルアさんと無事に会うことができました……」
棍棒を持った彼女――ナーグルアが途中で待っていることについては事前にカヤンから知らされていたことだ。
現在の俺たちはフォーファー・ヤーンロップを中心として、人面ムカデの精霊が逃げないようこのエリアに蓋をしているところだが……カヤンは一部にだけ「穴」をあけるよう指示した。
穴を作っておかなければ、敵がひらきなおって死に物狂いで戦い始める可能性がある。
だからあえて逃げ場所を作っておく。ただし逃げた先にはナーグルアが待ち構えている。
ヨーヤック(ย)すなわち「鬼のヨー」を保有する彼女を突破するのは不可能だ。
* *
あたりが完全に暗くなる前に俺たちはナーグルアについていき、先を急ぐ。
そして左前方に三角形の影が見えた。
ンゴットガームの敷いた枝の外側に、白いテントが二つ張られている。
ロップは左のわきをつまんで、軽く揉んだ。
すると、わきから垂れていた乳白色の液体の分泌がとまった。
手持ちの袋をテントのなかに入れたあとミーが首を左右にやり、ナーグルアに聞く。
「あれ? ルディくんの姿が見えないけど一緒じゃないの?」
「ポープン(ผ)さまはミツバチを飛ばすのでいそがしいみたいですわ。ソースーア(ส)さま」
ナーグルアは後ろにやった手を崩さずに、しとやかに答えた。
そんな彼女をレックのえび色の視線が捉える。
「クン・ナーグルア。一回だけオレチャンと突き合ってくれないか」
「え!」
驚いたのか、ミーのほうが声を上げる。
「レックくん……そ、それって」
「決戦の前に」
背中の突き棒を外したレックが、ミーのにび色の目にも視線を送る。
「オレ自身の実力を測っておきたいんだ」
「あ、そっちの意味かあ。よかった、ほわ~」
ミーが胸に右手を当て、安堵の息をついた。
一方ナーグルアはやわらかな笑顔でレックに応じる。
「構いませんわよ」
おしとやかにうなずき、あごを小さく上下させた。
「容赦なく私を突いてくださいまし、トーパタック(ฏ)さま」
「じゃあ行くよー。……クウィット」
レックの詠唱と同時に、構えられた突き棒のひし形の穂先が巨大化する。
地を蹴り、右手に柄を持って一気にレックが飛び出した。
ナーグルアの心臓めがけて鋭い先端を突き出す。
だが彼女は左半身を右後ろに下げ、突き棒をギリギリでよけた。
続けて右脚を上げる。つま先でレックのあごに一撃を入れる。
さらに靴裏を鉛直上向きにかかげたのち、かかとを落とした。
右のかかとがレックのえび色の髪に当たり、そのまま彼を灰色の地面に沈めた。
「決意の籠もった素晴らしい突きでしたわ」
背中に回した両手も棍棒も用いることなく、ナーグルアはレックに勝利したことになる。
へこんだ地面からレックは顔を起こした。
「やっぱり最強だな、ナーグルアは」
「いえ、持ち上げないでくださいまし」
あでやかにナーグルアがレックを見下ろす。
「文字保有者の全員がほかの文字保有者全員を殺しうる――私たちの力関係は元来そういうものですわ」
ひざをつき、レックの左耳にささやく。
「お互い、これからも適切に暴力を振るいながら力を研いでいきましょう」
ナーグルアはすぐに立ち上がり、きびすを返した。
地面を這う枝の上に乗り、暗くなった白いもやの向こうを見つめる。
俺はレックに近づき、医者の兵隊を呼んで患部を治療させた。
ミーもレックに駆け寄り、彼の左手を両手で握る。
「よかったらレックくん……ワタシとも突き合おうっ」
「そうだな。眠くなるまで、そうするのもよさそうだね。クン・アーティットもありがとう」
レックは突き棒を右手につかみなおし、立ってミーと手合わせを始めた。
それを見ている俺の左隣にロップが近寄る。
「アーティット……おなかすいた」
* *
その日の晩ごはんは俺が作った。
グラジョームから取り出した器具や食材を使って温かいスープを作っておいた。スープにはコメも投入した。
(ここらへんの空気の温度はちょっと低めだからな。ちゃんと体をあっためないと)
みんなもナーグルアもそれを食べてくれた。
だがミーだけは、やはり料理を口にしようとしなかった。
それから俺とクマリーはテントで眠る前にナーグルアと話す。
ナーグルアは両手を背中に回して棍棒を持ったまま、地面を這う枝の上に立ってずっと白いもやを見つめている。
俺はタハーン・プルーンで周囲をぼんやり照らしながら、少し距離をあけてナーグルアの右隣に移動した。
「今、いいか?」
「いいでしょうかっ」
クマリーも、俺と同時に声をかけた。
対するナーグルアの返答はあっさりしていた。
「もちろんですわ」
彼女の白すみれ色の瞳が光る。
「トープータオ(ฒ)さまは新ウォーウェーン(ว)さまの覚醒を期して積極的に文字を学ばせるようおっしゃっています」
右手を棍棒から離し、その手の平をクマリーにさらす。
そこにยの文字が赤く太く刻まれている。
「【ย】ヨーヤック・ナーグルア、つかさどる字は鬼のヨー。新たなるウォーウェーンさま、私はあなたの本当の力とも対峙したくてたまりませんわ」
「楽しみにしていてくださいっ。ではなぞりますよ……っ」
クマリーがナーグルアの右手にそっとふれる。
まず左上に小さな丸を反時計回りで書く。
そのあと丸の左側から線を右斜め下に持っていく。
字全体の左側の真ん中あたりで右に突き出してから線を左に引き戻す。
ついで緩く左に張り出す弧をえがく。
下側に近づいたら今度は下のほうに張り出す弧を作る。
(だがこれはナーグルアの手の平の書体がそうであるだけで、もしくはヨーヤック(ย)の下側をまっすぐな横線で書く人もいるかもしれない。おそらく、どっちも正しいと思う)
ともあれ字全体の右に達したら、そのまま線をまっすぐ上げて右上でとめる。
これでヨーヤック(ย)の文字の書き順は完了だ。
「ナーグルアさんっ、ありがとうございましたっ! これでクマリー、お兄さんの名前が書けますっ!」
クマリーは手を合わせて礼をしたのち、宙に何回もヨーヤック(ย)をしるした。
「反時計回りの回転もきれいですが……左側の線がちょこっと右に出っ張るところがとってもおしゃれですねっ」
「新たなウォーウェーンさま……いえ、ウォーウェーン(ว)さま」
ナーグルアが右手を背中に戻し、再び両手で棍棒を握る。
「強くなったら私と激しくケンカしましょうね」
「わ、分かりましたっ。クマリー、強くなってみせますよ~」
そう言ってクマリーがナーグルアと同じ方向を見て、腰の入っていないパンチを前方の虚空に撃ち込む。
そんなクマリーをちらりと見て、ナーグルアはごくりとつばを飲んだ。
* *
ヨーヤック(ย)をなぞったあと、俺とクマリーはナーグルアから離れた。
プルーンの炎に地面を照らしてもらいながら、しゃがむ。
クマリーが俺の前に移動し、灰色の土に右人差し指をつける。
「ではアーティットお兄さん……っ。お兄さんの名前を書かせてください」
ふにゃふにゃ声を出しつつ、クマリーが首をひねる。
「えっと、アーティットお兄さんの『アー』はジャムークさんのオーアーン(อ)の音ですよねっ? ってことは、これに『アー』の音をあらわすラークカーン(า)をつければいいのではっ」
つぶやいて、クマリーが地面に「อา(アー)」の文字を書いた。
俺はその字を確認してうなずく。
「合ってるよ、クマリー。ラークカーンもちゃんと覚えていたんだな」
「えへへ~」
クマリーが照れながら、指を動かす。
「次は『ティッ』ですね~。この『ティッ』は息を出す音……ここでお兄さんのトータハーン(ท)の出番ですねっ!」
「そうだ」
さらに俺は右手を伸ばし、少し離れた地面にピンイ(–ิ)の記号を書いた。
「クマリー、このピンイを覚えているか?」
「はいっ」
ほかのみんなを起こさないよう、控えめにクマリーが返事をした。
「それとフォントーン(')を組み合わせてクマリー(กุมารี)のリー(รี)をあらわすんですよねっ」
「さすがクマリー、そっちも忘れていなかったんだな」
俺は指で地面のピンイ(–ิ)をたたく。
「で、短い音の『イ』をあらわすときはフォントーン(')を使わずピンイ(–ิ)を字に載せるんだ」
「とすれば……トータハーン(ท)の上にピンイだけをかぶせてあげればいいんですね」
クマリーは「อา(アー)」のそばに「ティ(ทิ)」と書いた。なお俺の名前に関しては「ティ」のあとは「ティッ」のような促音にも聞こえる。
「あとは『ト』ですねっ。これは息を出さない音ですから……ここで亀さんのトータオ(ต)ですかっ」
そうしてクマリーは「ティ(ทิ)」のそばにトータオ(ต)を書いた。
「これでアーティットお兄さんの名前の完成です!」
「いや、実はまだなんだ。まだナーグルアのヨーヤック(ย)を使っていないだろ?」
「そういえば……ヨーヤックが必要だったはずなのにまだ出てきていませんね。お兄さん、教えてくださいっ」
クマリーが俺の右手の平に自分の右手の甲を当てた。
俺はその手をそっとつかみ、すでに書かれている文字列の右横に字を加える。
「最後の子音としてヨーヤック(ย)を書くんだ」
「だけどお兄さん、アーティットお兄さんの名前にヨーヤックに近い音は含まれていませんよっ」
「まあな。だから発音しないという記号をヨーヤックに追加する必要がある」
俺はヨーヤックの上に、黙字記号(◌์)を書く。
字の右上に時計回りで小さな丸を書く。
そのあと丸の上部から右斜め上に線を引っ張る。さらに、少し上方向に線を持ち上げてとめる。こうして黙字記号(◌์)が完成する。
「これはマーイタンタカート(◌์)と呼ばれる記号だ。この記号を付けた場合、その字は発音しない。今回はヨーヤックに載っけているから、そのヨーヤックを発音しないわけだな」
「発音しないなら、どうしてわざわざ書くんです?」
「その字も合わせて、言葉は意味をあらわすから。不要に見えても、欠けてはならないものがあるんだ」
「なるほど……これも一緒だからこそ、アーティットお兄さんの名前になるというわけですね」
クマリーは俺の手の平から右手を離し、すでに書いた文字をいったん消した。
あらためて俺の名前……「アーティット(อาทิตย์)」を地面に書く。
「できましたっ、合っていますか、お兄さんっ」
「ああ、完璧だよ。最後のヨーヤック(ย)とマーイタンタカート(◌์)も忘れてないし、言うことなしだ」
「わあ……っ、これでクマリーもお兄さんの名前を書けるようになったんですね。お兄さんがもっと近くなったようで、うれしいです」
そう言ってクマリーが、宙に「アーティット(อาทิตย์)」という文字列を何度も書き始めた。
――そのときだった。
「ほわわ~、どうしてレックくん、ワタシと一緒のテントで眠ってくれないのかなー」
二対の耳のような輪郭を持ったミーが、肩を落としながらテントの一つから出てきた。
左手に袋を持っている。
その袋に右手を突っ込んで、なかの石炭を取り出す。
目を緑に光らせながら、その黒く赤い石炭を口に運び……噛んだ。
「こんなときでもアロイなあ……」
ボロッという音と共に石炭を飲み込んでから、ミーは俺とクマリーがいることに気づいた。
「あっ、二人とも」
汗をにじませ、ミーがしゃがむ。
ヘアバンドに取り付けられた三つの緑の宝石をも輝かせつつ、石炭の入った袋を俺たちに差し出す。
「……食べる?」
次回「60.ミツバチのポー(ผ)【前編】」に続く!
ย←これが「ヨーヤック」の文字。意味は「鬼のヨー」あるいは「夜叉のヨー」……ひらがなの「し」やアルファベットの「U」とも似ているかもしれませんね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ヤック(ยักษ์)→鬼
マーイタンタカート(ไม้ทัณฑฆาต)→黙字記号/このマーイタンタカート(◌์)が付いた字は発音しないみたいです。




