58.蓋のフォー(ฝ)【後編】
俺たちは新たにフォーファー・ヤーンロップをメンバーに加え、敵を逃がさないようあたり一帯を封鎖することにした。
カヤン、チュアモーン、ンゴットガームといったん別れ、俺とクマリーとレックとミーはヤーンロップと共に白いもやのなかを進んでいく。
視界は悪いものの、地面に横たわる白っぽい枝をたどっているので迷うことはない。
太さ十センティメートほどの枝だ。
危険エリアの目印とするために、人面ムカデの出るこの場所の外縁をすでにンゴットガームが囲っていたのだ。
現在、俺たちは枝の内側に沿って時計回りに前進している。
したがって進行方向に対してとくに右を警戒しなければならない。
ヤーンロップを中心にして彼女の前をレックが固める。
後ろにはミーがつき、ヤーンロップの右隣を俺が歩く。
ホタルの光に似た斥候の兵隊を分裂させて飛ばし、人面ムカデの精霊の接近がないか絶えず周囲を監視しておく。
また、ヤーンロップの左隣を飛ぶクマリーは鐘のイヤリングで定期的にカヤンへと連絡を入れる。
「……もしもしカヤンさんっ」
ふにゃふにゃ声を抑え、クマリーが報告する。
「今のところ凶暴な敵も現れておらず順調です。ケガ人もいませんっ」
『よし、クマリー』
ドスの利いたカヤンの声がイヤリング越しに聞こえる。
『引き続き定期連絡をおこたるなよ』
「รับทราบ(了解ですっ)」
クマリーも自分の役割をきっちり果たしているようだ。
(なにもないならなにもないで、その情報も大切だからな)
そしてヤーンロップは水色の髪をなびかせながら俺たちの中心を歩く。
同時に左腕を水平に伸ばしている。
彼女の上着およびブラウスの左側はノースリーブなので、左のわきがあらわになった状態だ。
わきの下にフォーファー(ฝ)の赤い文字が見える。
この文字から乳白色の液体がしたたり落ち、地面の枝のすぐ右側を濡らしていく。
ヤーンロップは液が地面に落ちやすいよう、体を少し左にかたむけている。
地面の土は灰色なのでヤーンロップのわきから垂れた液体の跡は分かりにくい。
だが、わきから分泌された乳白色の液は途切れることなく確実に地に一本の線を引いていた。
(……これで本当に敵を逃がさないで済むのか?)
正直なところ俺の心に疑念はあった。
とはいえ今はヤーンロップとフォーファー(ฝ)を信じるしかない。
そんな俺をヤーンロップの水色の瞳が見返す。
「……アーティット」
彼女の冷たい声がこちらの骨に響く。
「レックとミーとクマリーも聞いて。わたしは文字保有者になる前、井戸に落とされたことがある」
周辺を警戒しつつ、俺たちはヤーンロップの話を聞く。
「水のない井戸に右半身から落ちたの。おかげでわたしの体の右側は今も調子が悪い」
ついでヤーンロップは右手で髪をくしけずった。
それに伴い、隠れていた右耳があらわに――ならなかった。
本来右耳のある場所には穴さえなく、ただ皮膚のみがあった。
「とくに右耳の損傷がひどかったから切り落とさざるを得なかった」
右側の髪はすぐにもとの位置に戻り、耳のない部位を違和感なく隠した。
「これをみんなに明かしたのは同情してほしいからじゃない。これから共同で作戦を遂行するにあたって右耳がないというわたしの弱点も共有すべきと思ったからです。それと……」
ヤーンロップが少し顔を染め、左耳を赤くする。
「わたしのこと……信用してほしかったから」
「だいじょうぶだよロップちゃんっ」
後ろからミーがほわほわした声をかける。
「ワタシたち、ロップちゃんのこと最初から信じてるからね」
「オレチャンもそうだ」
レックも前方を見据えながらビブラートを利かせて言う。
「クン・ヤーンロップがこの『蓋作戦』のかなめだからな」
「クマリーもロップお姉さんがやってくれるって分かっていますよ~」
三人は素直にヤーンロップに信頼を伝えている。
ヤーンロップは左耳を赤らめたまま、「ありがとう、安心します……」と返した。
続いて俺も口をひらこうとした。
しかしここで、タハーン・ラートの一体が急速に俺のもとに戻ってきた。
「……そうか。現れたか」
そのラートを飛ばしていた右横に目を向けると、赤黒いムカデの胴体を持った人面のピー一体がうっすらと見えた。黒い髪を振り乱している。
だが俺たちはこちらからは仕掛けず地面の枝に沿って歩き続ける。
人面ムカデはゆっくりと俺たちに近づいたのち、互いの距離が五メートほどになったところで大口をあけた。
巨大なムカデの足を勢いよく動かしてさらに距離を詰め、乱杭歯をミーの頭部に突き立てようとした。
ミーはアームカバーでおおわれた右腕を小さく挙げ、応戦の構えをとる。
ここでヤーンロップが歩みをとめずに静かに言った。
「よけてみて」
「うん」
ヤーンロップの言葉に疑問を差し挟むことなくミーは半歩前に出た。
結果、人面ムカデはミーへの襲撃に失敗し、その身を地面の枝のあるほうに投げ出す格好となった。
(……いや、ンゴットガームの枝の手前にはヤーンロップの垂らした乳白色の線が引かれている)
その線の真上に人面ムカデが来た刹那、地面に落ちた乳白色の液体が突如としてせり上がった。
まるで壁のようになり、人面ムカデの頭部にぶつかる。この人面ムカデがいる場所にだけ、部分的に壁が発生しているのだ。
頭部は砕かれ、紫の液体を漏らす。
白いもやへと霧散していく。
ただし人面ムカデから生じた液体も白いもやも、乳白色の線の外に出ることはなかった。
「このように、わたしが蓋をしたからには……もはや敵は脱出不可能」
ヤーンロップが右手を下に向けて振る。
「……プラタップ・トラー」
詠唱と共に、直径四メートほどの鍋蓋に似た形状の印鑑がムカデの胴体の真上に出現した。
取っ手の反対側の表面にはフォーファー(ฝ)の文字が彫り込まれている。
印鑑は落下し、頭部を失ってのたうっていた胴体を粉微塵に粉砕した。
ちなみにクマリーは敵が襲ってきた時点で即座にカヤンへと連絡を入れていたものの、向こうとつながったときにはすでに敵は撃破されてしまっていた。
直後、せり上がっていた壁が地面に引っ込んでもとの乳白色の線に戻る。
「安心して……」
感心しているミーたちに、ヤーンロップが静かに返した。
「わたしが今敷いている蓋は凶暴な精霊にしか反応しないから」
左わきから乳白色の液をしたたらせつつ、歩みをとめずにヤーンロップが俺に横目をやる。
「これでアーティットも、わたしの『蓋』を信用してくれた?」
「……ああ。君の力は疑う余地もない」
俺はヤーンロップの右の頭部を隠す水色の髪を見返した。
「そして悪かった、ヤーンロップ。俺は君に疑念をいだいていた」
「分かった、許さない」
ヤーンロップは左よりもやや小さい右目で俺を凝視する。
「代わりにわたしをロップって呼んでくれるなら許してあげます。わたし、いわゆる声フェチでして……アーティットのりりしい声でそう言ってほしいの」
「りりしいか……?」
そう言われたのは初めてだ。
(プラトゥの酒焼けしたような声も気に入っているみたいだし、ヤーンロップは人の声に思い入れでもあるんだろうか)
「じゃあ……ロップ」
「どうも……」
彼女が左の口の端を上げ、表情を震わせる。
まるで笑いをこらえているようだ。
ともあれ、このあとも俺たちはヤーンロップ……もといロップと共に敵を撃退しながら「蓋」をする作業を進めた。
ロップはレックのビブラートを利かせた声も気に入ったらしく彼にも自分をロップと呼ぶようお願いしたものの、レックは申し訳なさそうにその要望をことわった。
次回「59.鬼のヨー(ย)」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ラップサープ(รับทราบ)→了解
プラタップ(ประทับ)→押す
トラー(ตรา)→印鑑




