57.蓋のフォー(ฝ)【前編】
白い椅子が何脚も置かれた部屋で、俺は逆立ちのカヤンと今後について話している。
「……カヤン。村を壊滅させた人面ムカデの精霊はあたりの白いもやのなかに潜んでいるんだろ」
「そのとおりだ」
ドスの利いた声と共にカヤンが俺を見返す。
「ほかの地域での目撃情報はねえ」
「俺たちの目的はここ周辺のピーの鎮静化。その際、一番に恐れるべきは別の場所に凶暴なピーたちを追い立ててしまうことだ」
左中指で右手の平を軽く押し出し、俺は続ける。
「きのうの探索においてチュアモーンは鐘の反響を利用した索敵を積極的におこなわなかった。これは人面ムカデ側に俺たちを警戒する知能があるとチュアモーン自身が考慮した結果の行動だ。その前提で考えると……俺たちを強敵と認定した瞬間に人面ムカデたちは即座にここを離れて別の場所へ逃亡を始めるおそれがある」
ここで中指をいったん引っ込め、すぐに右手の甲を左手の平で押さえた。
「だから本格的にやつらを鎮静化する前に『蓋』をしておかないといけない。つまり向こうの逃走経路を事前につぶす。その準備をおこたったまま決戦に踏み切れば、人面ムカデたちは白いもやのない別の地域に逃げて新たに人を襲うだろう」
「ふん……分かってんじゃねえか、アーティット」
カヤンの口角が上がる。彼女は逆立ちしたままなので、逆に口角が下がっているようにも見える。
「わたしもおまえと同じ見解だ。まず周辺の逃走ルートをふさいでから人面ムカデどもを掃討する」
「でもどうやって蓋をする?」
俺は重ね合わせた両手を振った。
「ただの柵や化け物係の見張りだけだと間違いなく突破される。ディアオの体を乗っ取ったスーンがやったように外部との通行を遮断する光の円柱を出すことができればいいが……ホーノックフーク(ฮ)によると光の円柱はゴーガイ(ก)の光をウォーウェーン(ว)の力で定着させたものだったらしいからな。クマリーに継承されたウォーウェーンがまだ覚醒していない以上、たとえディアオを呼んでもスーンと同じことはできない」
「ああ、だが蓋をするならそれ以上の適任がいるだろ?」
ここでカヤンの左耳にレモン色の鐘のイヤリングがすうっと現れた。耳たぶではなく左耳の上部を金具で挟んでいる。やはり今の俺から見ればそれは耳の下部についているようではあるが。
イヤリングから、はつらつとしたジョットマーイの声が響く。
『カヤンさん。ジャンク船で新たに三人が到着しました。メンバーはナーグルアさん、ルディさん、ヤーンロップさんです』
「ご苦労。ではきのうと同様、船上でわたしが試験をおこなう」
そんな最低限のやりとりを交わしたのち、イヤリングが消える。
カヤンは壁から背を離し、あらためて俺に笑みを見せた。
「幸先がいいじゃねえか。さっそく『蓋のフォー』のおでましだ」
* *
そして俺は、部屋の椅子の一つに座って追加メンバーを待った。
レック、ミー、ンゴットガームも室内に姿を見せ、それぞれ腰を下ろす。なおチュアモーンは玄関の外に出て、ボーン……という鐘の音を響かせ続けている。
クマリーも俺のへそから這い出てきた。
そのままこちらのひざに座る彼女に俺は声をかける。
「クマリー。ヨーヤック(ย)の文字保有者のナーグルアがさっきここに来たらしい。もうすぐ会える」
「ほ、ホントですかお兄さんっ。これでやっとクマリーもアーティットお兄さんの名前を書けるんですね……っ」
しかしクマリーは、すぐに自分の口を両手でふさいだ。
「って、今はピーの鎮静化という任務があるのに自分のことばかり優先しちゃダメですよね……っ」
「いや、むしろ君は積極的に字にふれるべきだよ」
俺は後頭部をこすりつけてくるクマリーを見下ろす。
「もともと俺たちに文字を刻んだのはウォーウェーン(ว)の力を持っていたスーンなんだ。だからクマリーがどんどん文字を学んでいけば、君に受け継がれたウォーウェーンもそれに反応して本来の力を取り戻すかもしれない」
「それは燃えますっ。そうなればクマリーもお兄さんやみなさんの役に立てますねっ」
バナナの房が重なったような茶髪が激しく揺れる。
ちょうどこのとき部屋の扉があいた。
逆立ちしたカヤンに続いて、水色の髪と瞳を持つ女が入ってきた。
しかし現れた追加メンバーは一人だけだった。
レックがいぶかしげにえび色の視線を向ける。
「クン・アーティットからは新しく三人来たと聞いているぞ。残り二人は?」
「別任務だ」
カヤンが涼しげに答える。
「試験に落ちたわけでもないさ」
俺たちの前に移動したカヤンは右手を持ち上げて水色の髪の女を手招きした。
「ここには最近ウォーウェーンになったクマリーもいる。まずは自己紹介してくれ」
「はい」
短い返事だったものの、それはこちらの骨に直接響くような冷たい声音だった。
冷たいというのは感情的に冷たいという意味ではない。文字どおり、体感温度が低いという意味での冷たさだ。
女がカヤンの前に出て、座っている俺たちと向き合う。
水色の髪は肩甲骨を隠すほどの長さ。右耳も髪に隠れているが、左耳のほうは見えている。左の耳の後ろに髪を引っかけているため、左右非対称になっているのだ。
よく見ると瞳や胸部、臀部、足のサイズも左右で微妙に違う。
左のほうが、やや大きめだ。
それでいて体格や容姿は総合的に均整のとれた印象を与えてくる。
服装も左右で異なる。
ボタンなどのない白いブラウスに群青色の上着を羽織っている。上着の右側は長袖だが左側には袖がない。ただし上着の裾は右側も左側もひざ裏に届く長さではある。
彼女がはいている青黒いスカートに関しては、右の裾がふくらはぎに達する一方で左の裾は太もものなかばまでしか隠していない。
したがってスカート全体の裾は水平ではなく斜めに線を引いたかたちだ。
同じく青黒い靴にしても右が足全体をおおっているのに対し、左ははだしの甲の大部分を露出させている。
そんな彼女が右手で左ひじをつかみつつ、骨に響く冷たい声を発する。
「【ฝ】フォーファー・ヤーンロップ、つかさどる字は蓋のフォー。えっと……その、がんばります」
* *
ともあれ俺たちはヤーンロップに続いてあいさつした。
クマリーだけでなく、俺もレックもミーもンゴットガームもヤーンロップとまともに話したことがなかった。だからそれぞれで自己紹介を済ませておいた。
さらにカヤンがヤーンロップに言う。
「よかったらクマリーにおまえの字をなぞらせてやれ。ウォーウェーン(ว)覚醒の足がかりになるかもしれんからな」
「分かりました」
静かにうなずいて、ヤーンロップが袖のない左腕を鉛直方向に上げた。
そのわきの下に、赤いฝの文字が刻まれている。
「クマリー、わたしのわきをなぞって」
「お言葉に甘えますっ、ロップお姉さんっ」
俺のひざから離れ、クマリーがヤーンロップの左わきの前に飛ぶ。
右人差し指を、ヤーンロップのわきにふれさせる。
まず左上に反時計回りで小さな丸を書く。
ついでその丸の左側と接する線を下ろす。
全体の左下に達したら右斜めに持ち上げる。
さらに、すでに書いた丸よりも低い位置から右斜め下へと線を引く。
右下に着いたら、あとは線を真上へと引っ張る。
最後に、すでに書いた丸よりも高い位置で線をとめる。
これでフォーファー(ฝ)の字が完成する。
「ロップお姉さん、ありがとうございましたっ」
やはりクマリーは礼を述べ、空中にフォーファー(ฝ)を何度も書く。
「プラトゥ師匠は自分のポーパーン(พ)と似たような字も多いって言ってましたが、ロップお姉さんのフォーファー(ฝ)も最初の丸の向きと最後の線の長さがポイントのようですね~。ちょこっと変えるだけで違う字になるとは――やっぱり文字って最高におもしろいですっ!」
「……プラトゥ?」
ここでヤーンロップの水色の目が震えた。
「プラトゥもここに来てるの?」
「いえ、きのう師匠はジャンク船のペンギンさんに乗船拒否されたので、あとから来ると思いますっ」
ほかのみんなが答えるよりも先に、クマリーが返答してくれた。
上げていた左わきを下げ、ヤーンロップが冷たい小声でなにかつぶやき始める。
「ああ、あの酒焼けしたような声を早く聞きたい。聞きたい聞きたい聞きたい……」
「……さて、そろそろ本日の作戦の説明に移ろう」
ドスの利いた声を引き締め、カヤンが口をひらく。
「ヤーンロップを中心に、ここら一円に蓋をする」
「聞きた……」
瞬間、ヤーンロップがつぶやきをやめた。
そんな彼女の水色の瞳をちらりと見てカヤンは続けた。
「レック、ミー、アーティットと共に二日かけてぐるっと回ってこい」
「あの、カヤン……」
右手で左の前腕部をなでながらヤーンロップは右に視線を動かし、カヤンに横目をやった。
「時計回りと反時計回り、どっちがいい?」
「おまえの好みでいいんじゃねえか」
カヤンは若草色の瞳を細め、淡白に答えた。
「たとえば右手で蓋をするにしろ左手で蓋をするにせよ、中身が出てこないようしっかりと蓋をするのは同じだろ?」
次回「58.蓋のフォー(ฝ)【後編】」に続く!
ฝ←これが「フォーファー」の文字。意味は「蓋のフォー」……丸が右側を向いていることと最後の線が長いことの両方を意識したいですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ヤーンロップ(ยางลบ)→消しゴム
ファー(ฝา)→蓋
ルディ(ฤดี)→心




