56.樹木のチョー(ฌ)【後編】
妙な水音がしていたので敵の襲撃かと警戒し、俺は突き当たりの扉をあけた。
しかし室内ではチョーガチュー(ฌ)の文字保有者ンゴットガームがシャワーを浴びていた。
一糸まとわぬ少女の姿がそこにあった。
両腕も両脚もない。
それどころか首から下に肌も肉も血も骨も神経もなく、ただ肺と胃と心臓と食道と気管と小腸と大腸をぶら下げた少女の頭部が浮遊している。
各内臓はまるで人体模型のそれのように、崩れることなくまとまっていた。
そしてンゴットガームに寄生している樹木の精霊フアロが、俺の口を後ろから両手でふさいでいる状況だ。
そんな俺をンゴットガームの土色の視線が射抜く。
「見られたからには仕方ないね。自分で話すよ、アーティットおにい。でもその前にこのグロい姿をなんとかしよう」
目と同じ土色の髪をほおに貼りつけた状態で、うるおいのある声を発する。
「プルアック」
ンゴットガームがそう唱えると、彼女の首の付け根から白い樹皮に似た皮が生じた。
付け根から前後左右に皮は生長し、垂れた。さながら外套のように内臓をおおい隠した。ただし表面は人肌に似ており、弾力もありそうだ。
現在、ンゴットガームは両腕両脚のない胸像の姿をしている。
(いや、胸部だけでなく腹部に位置する内臓も隠しているから胸像の定義からは外れるかもしれないか……)
ついで彼女は詠唱を重ねる。
「ギンマーイ」
すると両肩に相当する外套の部位から白い枝が伸びた。
枝の先端は五つに分かれており、まるで人の手のようだ。
ンゴットガームは右の枝もとい右手でシャワーの蛇口を閉め、左手でランプのスイッチを消した。
「アーティットおにいは今から見張り番の仕事かな。じゃ、玄関で張り込みながら話そうか」
胸像のようなンゴットガームが浮遊して俺の右横を過ぎる。
フアロが俺の口を押さえながら、同じく浮いた状態でンゴットガームについていく。
(にしてもフアロの力も相当なものだな。口に手をあてがわれているだけなのに身動きがとれない)
さらに高床式住居の玄関に出る際、ンゴットガームが俺の黒い靴を拾った。
それを俺の左右の足にはかせる。
玄関の扉を外から閉めたあと彼女の両の枝は縮み、肩のなかへと引っ込んだ。
「フアロ。アーティットおにいを放してやって」
「え~」
あくまで無機質な声でフアロが不満を漏らす。
「この男、乙女の柔肌ならぬ柔内臓を見たんですよ。きっついお仕置きを受けさせるのが妥当じゃないですか。それに私は前から成人男性の体に興味があったんです。ンゴット……この世に私の探究心を満たすこと以上に大事なことがありますか」
「ないよ」
ンゴットガームがかぶりを振った。
「だからこそあなたの興味がここで消費されるのはつまらない」
「……ま、ンゴットがそう言うなら男体の神秘に迫るのはまたの機会にしましょう」
フアロが両手を俺の口からそっと離した。
俺は高い位置に作られた玄関の外に立ち、炎の兵隊を呼んであたりを照らす。
相変わらず外は暗く、白いもやが広がっている。チュアモーンの鐘の音も静かに響き続けている。
今、俺の左隣には濡れ羽色の髪のフアロが浮き、右隣には胸像の姿のンゴットガームが浮遊する。
まず俺はンゴットガームに謝った。
「本当に悪かった」
「いや、アーティットおにいは敵の侵入かと思ったんだよね。だったらノックとかもせず入ってきても責められないよ。むしろ私が謝りたい」
彼女は申し訳なさそうに伏し目がちに返す。
「ごめんね、アーティットおにい。私もシャワー室を作っていたことを言い忘れてた。ちゃんと私が伝えていれば、アーティットおにいもアンラッキーグロに出くわさずに済んだんだ」
「アーティット氏はめっちゃ驚いてましたけどさあ」
フアロが俺の左肩を右中指でつつく。
「あなた、兵隊ですよね。戦場で人の内臓なんていくらでも見てきたんじゃないんですか」
「……ああ、数えきれないほど目にしてきた」
俺はフアロの青い瞳にも視線をやった。
「ただしどの内臓も傷つき、血にまみれていた。だからあんなにきれいな内臓を見たことはこれまで一度もなかったんだよ」
「え、きれい?」
ンゴットガームの口角が少し上がった。
「そう、私の内臓きれいだったんだね……ふふ」
あごを引き、白い樹皮の外套でおおわれた自身の胸部を見つめる。
「このきれいさを保つためにも定期的に内臓を洗浄する必要があるんだ。実はさっきのシャワーは樹液の変化したもので、美内臓効果も完備してるよ」
続いて彼女がまばたきする。
深呼吸をしてから口もとを引き締める。
「さて私の正体なんだけど、アーティットおにいは『グラスー』って知ってる?」
「確か精霊の一種か」
そういえば俺も子どものころ聞いたことがある。グラスーとは首から内臓をぶら下げて飛び回るピーのことだ。
「ンゴットガーム……君はそのグラスーだったのか」
「そうだよ」
「でも俺が聞いた話だとグラスーはもっと凶暴で老いた女性の顔をしていて人の血をすすったりするとか……」
「もちろんそういうグラスーもいる。けれど私に関してはそういう特徴は当てはまらないね。私はかわいいグラスーだもの。普段はグロ対策もしているし」
首を軽く左右に震わせ、ンゴットガームが樹皮の外套を揺らす。
「いつもはこれに加えて二本の脚も生やしてる。枝のような腕と合わせて自由に動かすこともできるよ。プラトゥおねえの言葉を借りれば、魂で操作しているとも言えるかな。そしてチョーガチュー(ฌ)とフアロの力によって発生させた樹液からゴムみたいな素材を作って、体をおおっているんだ。基本的に私たちの木の色は白っぽいから、それが目立たないように素材自体も白っぽくしてるというわけだね」
「もしかして君がクマリーに字をなぞらせなかったのは――」
「そう、私の正体がバレると思ったからだよ。チョーガチュー(ฌ)はうなじに刻んでもらったんだけど、首をおおう部分をずり下げたときに樹皮と接続する付け根まであらわになるんじゃないかと心配になって」
「なぞらせてあげればいいじゃないですか」
フアロが左手で自分のうなじをトントンたたく。
「クマリー氏とンゴットはピー同士なんですよ。今ならほかのかたがたも眠っていますし、ちょうどいいタイミングだと思いますが」
「……そうだね、どのみちアーティットおにいにはバレちゃったし、まあいっか。いざ正体を明かしてみても、思ったより平気だったし」
ンゴットガームが土色の目で俺を見つめる。まだ顔全体が乾ききっていないため、つやめいている感じがする。
「今、クマリー嬢は眠ってるの?」
「ああ。ただ、すぐ起こすのは悪いような気も……」
言いかけて、俺は首を横に振った。
「いや、クマリーにだけ見張り番を務めさせないというのは、よくないな。クマリー、起きられるか」
俺は小声で自分のへそに向かって話しかけた。
すると俺の胴衣が膨らんで、裾からクマリーのバナナのような茶髪が出てきた。
クマリーは逆立ちの状態で胴衣から這い出し、宙に浮いたまま目をこすって頭部を天に向ける。
「あ、お兄さん……。見張りの時間ですね。クマリーもしっかり役目を果たしますよ~……」
それから近くに浮くンゴットガームに気づく。
「ンゴットさん? 手や足はどうしたんですか」
「今は引っ込めているんだ」
ンゴットガームは慌てず返答した。
クマリーは「そうなんですか」とつぶやき、言葉を継ぐ。
「あ……あの、ンゴットさん。昼間はごめんなさいっ!」
ふにゃふにゃ声を震わせながら続ける。
「クマリー、また自分のことばかり考えて文字をなぞろうなぞろうとしてしまいました。ンゴットさんの気持ちも考えずに……だからごめんなさい……」
「いや、いいんだよ、クマリー嬢」
胸像の姿のまま、ンゴットガームがやわらかく笑む。
「私のほうこそ、頭ごなしにことわってごめんね。私は自分の正体がバレるのを恐れただけだ。クマリー嬢に問題があったわけじゃない。あなたはそのままのあなたでいてほしい」
「はい……っ、ありがとうございます、ンゴットさん……っ」
クマリーの声が明るくはずみだす。
フアロも笑顔で「よかったですね、クマリー氏」と言った。クマリーはそんなフアロにも感激したように礼を返した。
そしてンゴットガームが背を向け、右肩から枝を伸ばす。
後ろ髪をかき上げ、うなじを露出させる。
今は首をおおう服もない。
そこにฌの赤い文字が浮かんでいる。
「【ฌ】チョーガチュー・ンゴットガーム、つかさどる字は樹木のチョー。あらためて名乗らせてもらうけど私はフアロと一緒に自分を探し求めるただの女の子だよ」
「かっこいいですっ! では失礼をば……っ」
クマリーがンゴットガームに声をかけ、字をなぞる。
まず左下に時計回りで小さな丸を書く。
ついで丸の左側に接するかたちで線を持ち上げる。
その途中で線を右側に寄せ、すぐに左へ引き戻す。
さらに上に張り出す弧をえがいたあと線を下ろす。
すでに書いた丸と同じ高さに来たところで再び時計回りで丸を作る。
その後トープータオ(ฒ)と同様、線を右に突き抜けさせて右下に持っていく。
右下に達したらまっすぐ線を上げて右上でとめる。
これでチョーガチュー(ฌ)の字が完成する。
「やったあ……っ!」
見張りの最中なので声を抑えつつ、クマリーが宙にチョーガチュー(ฌ)を何回も書く。
「チョーガチュー(ฌ)の字も素敵なかたちですっ。二つある小さな丸がチャームポイントですねっ。クマリー、なぞれてよかったと思います。ンゴットさん、ありがとうございます」
「そう……私こそ、ありがとう」
時計回りで振り返り、ンゴットガームが再び土色の瞳をクマリーに向ける。
「使用頻度が低い字だとしても、喜んで学んでくれる誰かがいるというのは幸せなものだね」
「ンゴットさんもフアロさんもチョーガチュー(ฌ)の字もやっぱりすごくイカしてますよっ」
クマリーが鼻息を荒くする。
「しかもクマリーは偉業を成し遂げましたよ~!」
胸を張り、ほおを紅潮させる。
「これまで学んだ文字は二十一個。お兄さんのトータハーン(ท)、スーンさんの……今はクマリーのウォーウェーン(ว)、ジャムークさんのオーアーン(อ)、ジョットお姉さんのポーサムパオ(ภ)、ホーさんのホーノックフーク(ฮ)、エーンお姉さんのロージュラー(ฬ)、サラサさんのモーマー(ม)、プリアさんのロールア(ร)、キアさんのノーヌー(น)、クルムさんのソーサーラー(ศ)、リアンゲさんのンゴーングー(ง)、スープパンさんのホーヒープ(ห)、ガムランさんのソーソー(ซ)、ディアオさんのゴーガイ(ก)……」
スーンとの一件があったときにクマリーが学習したのはその十四字。
そしてそのあと新たに学んだのは、七文字。
「……レックさんのトーパタック(ฏ)、プラトゥ師匠のポーパーン(พ)、ミーさんのソースーア(ส)、亀さんのトータオ(ต)、カヤンさんのトープータオ(ฒ)、チュアモーンさんのコーラカン(ฆ)、そして今なぞったンゴットさんのチョーガチュー(ฌ)……これでちょうど二十一文字ですっ!」
左右の手でこぶしを作り、クマリーが震える。
「よって四十二個あるという文字のうち、半分を習得したというわけですよ~。ついにここまで来たかと思うと、クマリー、興奮を隠しきれませんっ」
そんな喜びのなかにある彼女に、俺もンゴットガームもフアロも「おめでとう」と声をかけた。
* *
そして翌朝、すでに見張り番を終えていた俺は個室のベッドで起き上がった。
通路でンゴットガームとすれ違い、あいさつを交わす。すでに彼女は四肢を生やし、全身を白っぽい服でおおっていた。フアロの姿は見えなかった。
俺は、白い木製の椅子が何脚も置かれた部屋に入る。
そこでカヤンが逆立ちし、壁に背を預けていた。
カヤンの若草色の長髪を目に入れつつ、俺は彼女の左隣に背をもたせかけた。
(いや、カヤンは逆立ちだからこの場合は右隣になるかもしれないな)
そんな俺をカヤンが見上げる。
「アーティット。村を襲ったこのあたりのピーすべてを鎮静化させるために、これからなにが必要と思う?」
「そうだな……周辺調査の次にやるべきは」
俺はあごを引き、カヤンの若草色の視線に視線を返した。
「――『蓋』をすることだと思う」
次回「57.蓋のフォー(ฝ)【前編】」に続く!(3月14日(土)午後7時ごろ更新)
ฌ←これが「チョーガチュー」の文字。意味は「樹木のチョー」あるいは「木のチョー」……下側の二つの小さな丸が特徴的ですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ガチュー(กะเฌอ)→樹木
プルアック(เปลือก)→皮
ギンマーイ(กิ่งไม้)→枝
グラスー(กระสือ)→頭部から内臓をぶら下げて飛ぶ女性の幽霊




