52.鐘のコー(ฆ)【前編】
トープータオ・カヤンの試験を突破した俺とクマリーとレックとミーは、白いもやのかかった地上を進んでいく。
俺たちを先導するのはカヤン自身だ。
逆立ちの状態のカヤンは前方に目と背中を向け、両手を地上につけたまま歩いている。
あたりの空気は無臭。
温度はやや低く、肌を若干震わせる。
地面にはねばりけがあり、靴裏に灰色の土をくっつけてくる。
もやが視界を封じているせいもあってか、今のところ虫や鳥などの生き物は確認できない。
ほとんどコケ同然の短い雑草が足もとに生えているだけだ。なお雑草は緑色だがその濃淡はさまざまである。ほぼ黒く見える草もあれば、脱色されたように白っぽい草もある。
無言で進んでいる俺たちの耳に届くのは、自分たちの靴が地面に接するときの音と靴裏の土が地に落ちる音と――。
前方から響く鐘の音だ。
ボーン、ボーン……というその響きが鼓膜のみならず全身を揺らしてくる。
『おやあ~?』
鐘の音と共に、籠もった感じの少々尊大な声が聞こえる。
声を出しているのは俺でもクマリーでもレックでもミーでもカヤンでもない。
『新しくウォーウェーン(ว)になったかわい子ちゃんもいんじゃねーの』
「もしかしてそれはクマリーのことですかっ?」
俺の右隣を飛びながら、クマリーが声を上げる。
「しかしあなたは近くにいないようですけど……なんでクマリーと顔を合わせる前にクマリーが来ていると分かったんでしょうっ!」
『さっきから鐘がボンボン鳴ってんだろ?』
尊大な声がくつくつ笑う。
『その音の反響を分析することで俺様は遠くからでもクマリーちゃんたちの位置や格好、会話、心理状態なんかを把握することが可能なのさ。望遠鏡さえ使わずにな』
「え~、そんなこと本当にできるんですか~』
釣られて笑いを漏らしそうになったのか、クマリーも口を右手で押さえる。
そんなクマリーに対しても、声は自信たっぷりに応答する。
『当ててやろうか? 今クマリーちゃんは浮遊してアーティットの右横を飛んでいる』
「な……! 正解ですっ」
クマリーが驚きを込めて手をたたく。
「ほかのことも分かるんですかっ!」
『もちろんだぜ、クマリーちゃん。君自身のことについてもなっ』
その尊大な声が徐々に大きくなってくる。
『君は……ちょっとドキドキワクワクしてんな。バナナみたいに可憐なふんわりとした茶髪のリズミカルな揺れ……茶色の垂れ目のまばたきの高い頻度……白い上着や腰の布のやや激しい衣ずれ……そういった細かい部分からも君の好奇心や冒険心、ちょこっとだけ不安に思う気持ちが読み取れる』
「す……すごいです! 色まで分かるだなんて、あなたはいったい何者ですかっ」
鐘の音と尊大な声の響いてくる進行方向にクマリーが問いかけた。
ここでいったん鐘がやみ、白いもやの向こうから自信満々な男の声がにぶくとどろく。
『【ฆ】コーラカン・チュアモーン、つかさどる字は鐘のコー。俺様の鐘の音は空に浮かぶ星の果てまで届く響きさ』
「壮大ですね、チュアさんっ! クマリーもよろしくお願いします~」
ついでクマリーが無邪気に言う。
「ただ……遠くに情報を届けるところはエーンお姉さんにも似てますね」
『やろうと思えば俺様も文字保有者全員に情報を送ることは可能だが、コーラカン(ฆ)の鐘を響かせた場合は関係ないやつらにも情報が伝わっちまうのよ』
ホーノックフーク(ฮ)が文字保有者たちに招集をかける際、エーンのほうを頼ったのもそういう理由からだ。
『機密性を確保する点で評価すりゃ、エーンのロージュラー(ฬ)のほうが連絡には向いている。まあ、これも俺様の鐘が偉大すぎるゆえの宿命ってことだな』
「ふむふむっ。それぞれにできることとできないことがあるってことなんですね~」
納得したようにクマリーが空中でうなずいた。
* *
ともあれ俺たちはチュアモーンの尊大な声がするほうに歩いていき、ついに白いもやの向こうに建物を見つけた。
建物は白っぽい木材で作られた切妻屋根の高床式住居だった。
階段を上り、地上一メートほどの高さにある玄関の前に移動する。
扉をあけ、俺たちは靴を脱いでなかに入る。
ただしカヤンは両手の黒い手袋を外し、靴のそばに並べた。
建物の内部も白っぽい木材でできていた。
その通路を歩き、突き当たりを左に曲がったところに部屋があった。
室内の広さは十六平方メートほど。
背もたれのない、これまた白い木製の椅子がバラバラに何脚も置かれている。
向かって右から俺、クマリー、レック、ミーが手近な椅子に腰を下ろす。
俺たちが来る前から部屋にいた男に体を向ける。
男は俺から見て左斜め前の椅子に座り、右のふくらはぎを左のひざに載せていた。
レモン色の髪は内側に流れるように一本一本弧をえがいている。同じくレモン色に染まった瞳は甘く大きくなまめかしい。
白いシャツに、えりのひらいた黒い長袖のジャケットを重ねている。
ズボンは白でパリッとしており、テカテカした靴は赤茶色だ。
特徴的なのは髪や瞳と同色のイヤリングをつけていること。
左右の耳からぶら下がるイヤリングはミニサイズの鐘のかたちをしている。耳に穴をあけているのではなく、耳たぶをレモン色の金具ではさんでイヤリング自体を固定しているようだ。
ミニサイズの鐘は山に似たこんもりした形状。
下部にひらいた穴から、クギを逆さまにしたかのような舌がちらりと見えている。
また、彼はシャツのえりの前面にもレモン色の鐘を下げていた。
イヤリングのそれよりも、ひとまわり大きめのサイズである。その鐘は赤茶けたヒモに取り付けられており、それを白シャツのえりにかけているのだ。
そんな彼が立ち上がり、クマリーの前で右ひざをついた。
尊大な声と共に左人差し指で自身の首を指し示す。
「あらためて自己紹介といこうじゃねーの、かわい子ちゃん。俺様がチュアモーンだ」
レモン色の髪と瞳を持つ彼――チュアモーンの首の前面にはฆの赤い文字が刻まれている。
「君がカヤンのトープータオ(ฒ)をジョットマーイちゃんの船上でなぞったこともお見通しさ。もろもろの説明をカヤンから受ける前に俺様のコーラカン(ฆ)を味わうがいいぜ」
「分かりましたっ。チュアさんっ」
クマリーが軽い衣ずれの音を起こしつつ、チュアモーンのコーラカン(ฆ)に右の人差し指をふれさせる。
書き出しはガムランのソーソー(ซ)と同じだ。
まず左上のやや下の位置から時計回りで丸を書く。
その後、丸の上側から右斜め上へと線を続ける。
そして少しだけ右斜め下へと線を下げ、すぐに右斜め上に線を持ち上げる。
さらに右に張り出す緩い弧をえがく。ここまではソーソー(ซ)のときに学んだとおり。
ただしコーラカン(ฆ)の場合は線が丸よりも低い位置に来たタイミングで時計回りで新たに丸を作る。
(その丸を作る際はいったん線の方向を少しだけ右下に向けるといいと俺は学校で教わった)
ともかく左下に丸を作ったのち、すでに書いた線から右斜め下へと突き抜ける。
全体の右下に来たところで線をまっすぐ上げ、右上でとめる。
こうしてコーラカン(ฆ)の字は完成する。
クマリーはチュアモーンの首から指を離し、例のごとく何回もコーラカン(ฆ)の字を宙に書く。
「ありがとうございましたチュアさんっ。コーラカン(ฆ)の文字は左下の丸がおしゃれの極みですねっ!」
「はっ、分かってんじゃねーか。クマリーちゃんも」
チュアモーンが右親指の関節で自身のコーラカン(ฆ)とのどぼとけをたたく。
「そんなおしゃれの分かる君のためにも、俺様も上品に振る舞わなきゃな」
それからチュアモーンはさらに移動し、俺の右隣にある椅子に座った。
ついでカヤンが俺たちの前に腹を見せて立ち、ドスの利いた声を静かに響かせる。
「さて、おまえたち。わざわざ招集に応じてくれて感謝する」
手袋をつけていない手で体をささえつつ、カヤンが向かって左から右へと一人一人の顔を見ていく。
「これからおまえら……いや、わたしらは凶暴な精霊と戦うことになる。そのために『しばらく予定のない者』という条件をつけて招集をかけたってわけだ。……ビビったか? 帰りたいか?」
だがカヤンは俺たちが答えるよりも前に言葉を継いだ。
「――ちなみにわたしはビビっているぞ」
次回「53.鐘のコー(ฆ)【後編】」に続く!
ฆ←これが「コーラカン」の文字。意味は「鐘のコー」……ひらがなの「お」みたいに線の途中で左下に回転部分を作るようですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ラカン(ระฆัง)→鐘




