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51.老人のトー(ฒ)【後編】

 白いもやに囲まれたジョットマーイのジャンク船に着地した女――カヤンは逆立ちの状態で(おれ)とクマリーとレックとミーに()みを向けた。


 若草色の長髪(ちょうはつ)(ひとみ)を持つカヤンは白いシャツと黒い長袖(ながそで)の上着と左右に深いスリットのあるあずき色のロングスカートを着ている。


 逆さの体勢にもかかわらず、スカートも髪もずり落ちない。

 さらにカヤンは先端(せんたん)が五つに分かれた黒い布で両手と両足をつつんでいる。


 挑発的(ちょうはつてき)にあごを上下(じょうげ)させて言う。


สู้(スー・)กับ(ガップ・)ดิฉัน(ディチャン)(かかってこいよ)」


 ついでドスを()かせた声で名乗りを上げる。


「【ฒ】トープータオ・カヤン、つかさどる字は老人のトー。わたしを転ばすことができたらおまえらを一人前(いちにんまえ)とみとめてやろう」

「インプーン」


 カヤンの言葉が終わる直前、背中の()き棒を外したレックがえび色の()を両手で持ち、(うす)のような先端(せんたん)をその場から動かず()き出した。

 すると数メート以上(はな)れた場所にいたカヤンがバランスを(くず)して後ろに(たお)れ、ジャンク船の甲板(かんぱん)にあお向けになった。


「はっはっは、射程外(しゃていがい)からの一撃(いちげき)とは()()


 転倒(てんとう)したカヤンが高笑いした。


「おまえは合格だ、レック」


 すぐに両手を頭の左右の甲板につけ、(うで)(ちから)だけで(からだ)を持ち上げた。

 逆立ちの体勢に(もど)り、体の前面を俺たちに向けなおす。


「ミー、アーティット、クマリー。おまえたちも続くことができるかな」

「クマリー!」


 俺は船首近くにいる彼女(かのじょ)に声をかけた。


「カヤンのトープータオ(ฒ)の(ちから)は――」

「おっと、それは言うなよ。アーティット」


 ()すような口調(くちょう)でカヤンの言葉が割り()む。


「これはあくまで個人の実力を見る試験だ。よってクマリーにもわたしを単独で転ばせてもらわにゃあな……」

「ならしょうがない」


 左手の平のトータハーン(ท)の文字を、俺は赤く光らせる。


「ゲーンタハーン・タヌー」


 (かがや)くトータハーン(ท)から弓矢を引っ張り出し、引き(しぼ)ってすぐ(はな)つ。

 だが矢はカヤンのもとに届く前にベキベキに折れて甲板に落ちた。まるで深海の水圧に()しつぶされたかのように矢の形状はめちゃくちゃになった。


「矢にもトープータオ(ฒ)の(ちから)は有効なのか……」


 カヤンの保有するトープータオは、自分の周囲に「法律」を適用することができる。

 その範囲内(はんいない)で罪を犯せば(ばつ)(あた)えられる。


 先ほど俺の矢がつぶされたのは、カヤンに危害を加えようとした矢そのものが犯罪者として処理(しょり)されたからだ。

 なお、レックがカヤンを転ばすことができたのは「法律」の射程外から突き棒で空気の(かたまり)を飛ばしたからだと思われる。さすがに空気に対して罪を認定することはできなかったのだ。


 ここで、クマリーのそばにいるミーがかついでいる(ふくろ)をそっと甲板に下ろした。


「セーンファイッ!」


 ミーが早口で唱えると同時に、彼女の体が線のような残像に変化(へんか)した。

 横縞(よこじま)濃淡(のうたん)を持つにび色の衣装(いしょう)が同色の横線の重なりのように見えた。


 その残像が俺から見て右から左へと一瞬(いっしゅん)で移動する。

 やや上昇(じょうしょう)するように動いたため、()()がってジョットマーイのいる後部甲板にミーは着地した。


 しかも、カヤンはすでに右半身を下にして横たわっていた。


(……速すぎだろ。素早(すばや)く動いて体当たりを()れ……トープータオ(ฒ)の罰が執行(しっこう)される前に「法律」の適用範囲から離脱(りだつ)したわけか)


 当のカヤンは右手だけで体を持ち上げ、また逆立ちになる。


上出来(じょうでき)。ミーも合格だ」

「やったあっ!」


 ミーが()り返り、後部甲板から()りる。

 その段差の(した)にできた(かべ)のそばに立つレックに近寄る。


「これでワタシたち一緒(いっしょ)だね、レックくんっ」

「そのようだな、オレチャンもうれしいよっと」


 レックが左隣(ひだりどなり)のミーにやわらかく返した。


(ともあれ、あとはクマリーと俺か)


 俺は弓を左手のなかにしまう。

 走ってカヤンに接近する。


「タハーン・ラート」


 ホタルの光に似た黄緑色(おうりょくしょく)精霊(ピー)を呼び出す。


斥候の兵隊(タハーン・ラート)戦闘力(せんとうりょく)はない。これでカヤンの目をくらませる)


 ラートがカヤンの目の前で(はげ)しく発光する。

 だがカヤンは(あせ)らず唱える。


「クンクアン」


 直後、俺もラートの光もその身を低くして甲板に()いつくばった。

 ほとんど拘束(こうそく)された状態であり、まともに動けない。


 カヤンが逆さまの顔を愉快(ゆかい)そうにゆがめる。


「なるほど、法律に抵触(ていしょく)しない程度のイタズラではある。しかしアーティット、うちの迷惑(めいわく)防止条例には引っかかってしまったようだなあ……」

「……聞きたいんだが、カヤン」


 俺は顔を持ち上げ、彼女の若草色の瞳を見つめた。


()りは法律違反(いはん)じゃないよな」

「あん?」


 いぶかしげにカヤンがまばたきを返す。


「どうして釣りが出てくんだ」

「きのうユアユと非対称(ひたいしょう)の釣り勝負をしたせいかもな。パッと思い浮かんだ」


 続けて俺は唱える。


「ルークタハーン・カンベット」


 左手の平が(あわ)く光り、手の平のトータハーン(ท)の文字から木の枝のような簡易(かんい)な釣り竿(ざお)が勢いよく出てきた。


 釣り竿の先端が甲板に当たり、俺の左手を(なな)めに持ち上げる。

 そして左手の(こう)がカヤンの逆さまの頭頂部と接触(せっしょく)した。


 頭をすくい上げられたカヤンの両手は甲板から離れた。

 結果、再びあお向けに落下する。


「くく……さすがにわたしも釣り竿は規制していなかった」


 立ち上がる俺を見上げ、カヤンが破顔(はがん)する。


「アーティット、おまえも合格ってことになるな」

「……安心したよ」


 俺はミーとレックのいる壁のほうに移動した。


(残るはクマリーか。試験ということでカヤンはトープータオ(ฒ)の適用範囲もその規制も(ゆる)めにしてあるし、なんとかなるといいんだが)


 クマリーが宙を進み、船首のほうからカヤンに向かってくる。


「やああ~……」


 バナナの(ふさ)のような茶髪(ちゃぱつ)をなびかせながら、ふにゃふにゃ(ごえ)を張り上げる。

 すでに逆立ちに戻っているカヤンがそんなクマリーを(むか)()つ。


「おいおい、いい意気()みじゃねえかクマリー」

「いきますよ……っ」


 クマリーがカヤンの(ふた)つの足に近づく。

 その黒い布でおおわれた足裏に十本の指を当てる。


 それから、それらの指を小刻みに動かし始めた。


「こちょこちょ~……」


 ……くすぐりのようだ。


(確かに害意はないし、子どもがやっていることだから迷惑防止条例にも引っかからないだろうけど、あのカヤンにそんな攻撃(こうげき)が通用するわけがない)


 しかしカヤンは足をバタバタさせ、大口(おおぐち)をあけて笑いだした。


(……()くのかよ)


 カヤンは文字どおり笑い転げてうつ()せに(たお)れてしまった。

 刹那(せつな)、すぐに逆さに立ち()がってつま先をクマリーに向ける。


「やるじゃないか、クマリー。他者に(ちから)(あた)えるウォーウェーン(ว)の(ちから)は今のところ鳴りを(ひそ)めているようだが……こうしてわたしを攻略(こうりゃく)するとは見込みがある」


 左手を甲板から(はな)し、カヤンが若草色の長髪をサッとくしけずった。


「わたしを転ばすことができたのだからおまえも当然合格だ、クマリー」

「ク、クマリーも受かったんですねっ。わ~い!」


 くるくる飛びながら俺とレックとミーのもとに寄ってきてクマリーが何度もバンザイする。

 レックとミーは笑顔でクマリーへと「おめでとう」と言った。


 俺もクマリーに同じ言葉をかけた。

 後部甲板からジョットマーイも拍手(はくしゅ)している。


 カヤンは逆立ちのまま両手を足のように動かし、あらためて俺たちの前に立った。


「わたしを転ばすことすらできなかったら追い返していたんだが……どうやらおまえらはちゃんと一人前(いちにんまえ)のようだな」

「ありがとうございました」


 俺たちは手を合わせ、カヤンに礼を述べた。

 対するカヤンはドスの利いた声をやや抑える。


「マイペンライ。合格したのはおまえらの実力さ。とくにクマリーはウォーウェーン(ว)の力すら行使せずにわたしを(たお)した。ごほうびをあげなきゃならんなあ」


 カヤンは右足の指で左足の布をつまみ、それをスルッと外した。

 その左の足裏に赤い字で(トープータオ)が刻まれている。


「なぞってんだろ? ラートリーやガムランからもおまえの趣味(しゅみ)は聞いている」

「では遠慮(えんりょ)なく……っ」


 クマリーの右の人差し指がカヤンの足裏を走る。そのときカヤンは(ふく)み笑いを()らした。くすぐったいのだろう。


 まず中心に時計回りの小さな丸を書く。

 丸の(した)から左(なな)め下へと線を引く。


 左下に来たら(ゆる)やかな()をえがきつつ上昇(じょうしょう)

 ついで右に寄り、すでに書いた丸の上あたりでくぼみのある線を作ってから下ろす。


 ここまではユアユのトータオ(ต)と同じ書き順だ。

 トープータオ(ฒ)の場合は右下に到達(とうたつ)したところでさらに時計回りを続けて追加の丸を作成する。


 線を右へと()()けさせてから、右斜め下へ引っ張る。

 そのあと線をまっすぐ持ち上げて右上でとめる。


 こうしてトープータオ(ฒ)の完成だ。


 書き終わったクマリーが神妙(しんみょう)に手を合わせる。


「カヤンさん、ありがとうございます」


 さっき学んだ文字を、いつものように空中で書きつづる。


「トープータオ(ฒ)の字も『回転』を大事(だいじ)にしている感じがして最高ですっ! 時計回りを連続させてトータオ(ต)さえも突き破ったかと思ったら、最後にチャキッと線を立てて決めてくるとは……感動以外の言葉がありません!」

「いい感性をしているな」


 少々(おお)げさなクマリーの言葉にうなずきながら、カヤンが左足に布をはめなおす。


「そうだ、もう知っているか? トーパタック(ฏ)とトータオ(ต)は息を出さない『トー』だがトータハーン(ท)とトープータオ(ฒ)は息を出す『トー』を示す」

「おおっ、カヤンさんの文字はお兄さんのトータハーンと同じ音なんですねっ」


「お兄さん? ああ、アーティットのことか。そうだ、そうなる。ついでに言うとトータハーンとトープータオとまったく同じ発音で同じ声の出し方を持つ文字はあと二種類存在するぞ」

「まだあるとは……やっぱり文字っておもしろいですっ」


 クマリーが宙を()って喜びを表現する。

 ここでカヤンが逆さまの目をクマリーにじっと向けた。


「ところでクマリー。おまえとわたしは完全に初対面(しょたいめん)だな」


 図書館(とう)大部屋(おおべや)でもクマリーとカヤンは顔を合わせていない。そのときクマリーは体調不良のため俺のへそで休んでいた。


「ずっと逆立ちをしているわたしを、おまえは変に思わないのか」

「いえ、全然」


 喜びの(まい)を終え、クマリーが答える。


「どんな姿で立ち上がるかは人それぞれだと思います。()つん()いで立つ人もいるし逆立ちで立つ人もいます……クマリーだって浮いていますし、きっとみんな正解なんですっ」

「ふ……それはうれしい言葉だ。クマリー、おまえは大物(おおもの)だな」


 まるで孫に言うように、(やさ)しくカヤンはつぶやいた。



 このあと俺とクマリーとレックとミーはカヤンと共にジョットマーイのジャンク船を()りた。

 ジャンク船は渦巻(うずま)く雲に消えていった。


 残された俺たちは地上で周囲を見回した。

 やはり白いもやが広がっており、あたりの地形がどうなっているかは分からない。


 そして遠くからボーン、ボーン……という(かね)()が鳴り(ひび)いた。

 続いて少々尊大な声が周囲のもやを()らす。


『あー、あー。こちらチュアモーン。ここまで来たヒマ(じん)は俺様の声がしているほうに歩けや』


 さらに俺たちが歩きだしたタイミングで、追加の声が届く。


『――まあ俺様もヒマだったんだけどなチクショウ!』

次回「52.鐘のコー(ฆ)【前編】」に続く!(3月7日(土)午後7時ごろ更新)


ฒ←これが「トープータオ」の文字。意味は「老人のトー」……トータオ(ต)とモーマー(ม)を組み合わせたような形ですね~。


今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り

プータオ(ผู้เฒ่า)→老人

スー(สู้)→戦う

ディチャン(ดิฉัน)→私

インプーン(ยิงปืน)→じゅう

セーンファイ(แสงไฟ)→電光

クンクアン(ขุ่นเคือง)→迷惑だ

ルーク(เลิก)→やめる

カンベット(คันเบ็ด)→釣り竿ざお

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