48.亀のトー(ต)【後編】
崖に囲まれた湖でトータオ・ユアユと会った俺はなぜか釣り勝負を仕掛けられた。
(ただし俺がユアユを釣る勝負か……)
当のユアユはとくさ色の舟の上に立ち、こちらの返答を待っている。
俺はシャチの姿をした海の兵隊にまたがったまま、左手の釣り竿を握る。
「受けるよ、ユアユ。でも俺が勝ったら」
湖に落ちる滝――その反対側の崖の下にいるクマリーを少し見て俺は言った。
「あの精霊の女の子に……クマリーにトータオ(ต)をなぞらせてやってほしい」
「現ウォーウェーン(ว)か」
濡れたとくさ色の髪をくしけずり、ユアユが笑む。
「別に構わねーよ。彼女がホーノックフーク(ฮ)の図書館塔でンゴーングー(ง)の文字をなぞっていたところもわたしは見てたしな。だがオメー、その代わりわたしが勝ったときは」
自身の胸部の鎧を右手ではじく。
「現ウォーウェーン(ว)にわたしのトータオ(ต)をなぞってもらう」
「……それじゃ勝負に勝っても負けても」
俺は焦げ茶の釣り竿をためつすがめつしながら問う。
「結局クマリーはトータオにふれることにならないか」
「そうさ」
見た目からは想像できないしわがれ声を出し、ユアユが舟のへりに臀部を押し付ける。
「とはいえ同じ結果が得られるにしても勝って手にするそれと負けて手にするそれはそれぞれ違う意味を持つ。つーかトータハーン(ท)、オメーもわざわざ勝負をダシにしなくていいんだよ。頼まれたらわたしも普通に自分の文字をなぞらせるに決まってんだからよー」
ついでクマリーのそばにいるプラトゥと目を合わせる。
「てなわけでポーパーン(พ)。オメーもこれからトータハーンとわたしの非対称の釣り勝負を見届けろよな」
「よっしゃ、亀ちゃん、兵隊くん。あっつい魂をぶつけ合えー」
プラトゥは近くのマヨムの木の下に座り、あぐらをかいた。
さらにプラトゥが逆さにしてかぶっている供物台の円筒形の部分にクマリーがちょこんと腰を下ろす。
「お兄さん、がんばってくださいっ!」
「手は抜かないさ」
クマリーの声援を受けつつ、俺は竿をしならせた。
竿の釣り糸の先にはかぎ状の針がついている。その針を舟の上のユアユに投げた。
ユアユは大口をあけ、その釣り針を口内に引っかけた。
しかし彼女の口のなかには緑がかった茶色の「甲羅」が部分的に生じており、ちょうどその甲羅に針が引っかかっているため出血には至らない。
舟のへりから臀部を離す。
俺に近いほうのへりへと近づき、そこを両手でつかむ。
「【ต】トータオ・ユアユ、つかさどる字は亀のトー。どうせやるんならオメー、わたしを食うつもりで釣り上げてみせろよな~」
言うやいなや、ユアユは透明な湖に頭からドボリと飛び込んだ。
平泳ぎで真下に向かう。
釣り竿を持った俺と俺を乗せたルアがその方向に引っ張られる。
「ぐ……っ、なんて力」
木の枝のような竿も釣り糸も頑丈に作ってあるようで壊れたり切れたりすることはなかった。
しかし竿が弓なりに大きくしなる。
糸も湖底に向かってピンと張られた状態だ。
(ここで俺が手を離したら負けか)
竿を持った右手と左手がこすれて痛い。
(あるいは水中に引きずり込まれるな。そうなれば息が続かなくなった俺は竿を放棄するしかなくなる。どうする)
そこで俺は俺を乗せているシャチ型の精霊、タハーン・ルアに命じる。
「もぐれ。しばらく俺は息をとめ……ごぼ」
命令と同時にルアが潜水を開始したので俺は最後まで言葉を発することができなかった。
ともあれ一気に水中を下降したおかげで釣り糸が緩む。
眼下にユアユの姿が見えた。
視認してすぐに俺はルアに指示を出し、向かって右に直進させた。
俺は魂を介して兵隊たちに直接命令することができる。よって水中であっても指令は届く。
(今までユアユは真下に向かって釣り糸を引っ張っていた。俺はそれに対して逆方向の力を加えることで抵抗していたが、こうして糸を緩めたうえでほかの方向への力を働かせれば当のユアユは即座に対応できず今度は俺に引っ張られるしかない)
竿をしっかり握ったまま俺は右へとユアユを引く。
続いてルアを斜め上へと徐々に浮上させる。
(息はまだ続く。このまま釣り上げる!)
だがユアユは俺とは反対方向に逃げようとせず、逆にこちらに猛スピードで突進してきた。
湖の透明度が高いためその姿がよく見える。
両手を何回も同時に後ろへと押し出し、体を前に進ませる。かつ右脚と左脚を交互に上下へと動かし、さらに勢いを加える。
銀色の腹を持つ魚たちがユアユをさけてあたりに散らばる。
とはいえ俺はユアユのこの行動を読んでいた。
(釣り糸を緩め、別方向に引っ張って釣りの主導権を握る――当然、君もさっきの俺と同じように仕掛けてくると思っていた)
俺はルアに追加の命令を出し、反時計回りに旋回させる。
そのまま螺旋をえがきつつ浮上する算段だ。
(そう簡単に君に追いつかれはしない。休まず湖を回り続ければ君もこの動きに翻弄されるしかない。あとは湖上に出て一挙に釣り上げ、ユアユ……君に勝つ)
ねらいどおり、旋回する俺に追いつけなくなったユアユは水中で体を踊らせ続けた。
しかし――。
あと少しで俺が水上に到達するというタイミングで、突如としてユアユが直上に向かって飛び出した。
さながらその挙動は、天へと放たれた一矢のようでもあった。
俺とルアはユアユと連結した釣り竿を持ちながら旋回していた。
つまりユアユは俺たちのえがく螺旋の中心で体を踊らせていたわけだ。そのため前後左右に対しては力を加えにくい状態だった。
ただし真上についてだけは、まるで台風の目のように圧力がほぼゼロだったのだ。
もはやユアユは左右の腕を脇腹にくっつけ、両脚のみを高速で運動させている。
(とはいえ今さら遅い! しかもそんなに急いだら――)
急浮上したユアユは俺のそばさえ通り過ぎた。
そして湖面に浮かぶとくさ色の舟の底に頭をぶつける。
(勢い余ったな)
ここで俺は水面から顔を出し、釣り竿を引く。
そうしようと思ったところで、釣り糸が俺のほうに寄ってきて右から体にからみついた。
(な……! まさかさっきの激突は俺を油断させると共に舟底にぶつかった勢いでユアユ自身が方向転換するためのものだったのか)
釣り糸は時計回りに移動し、竿を持った俺の腕を胴体に縛りつけた。
糸が回転を重ねながら腕と上半身に食い込む。
「これじゃ力が入らない――」
とくさ色の髪をしたユアユの影が水中でゆらめきながら時計回りを続け、俺に近づいてくる。
俺はルアを逆回転させて糸をほどこうとしたものの、五回転半したところでユアユがさらに勢いをつけて釣り糸を引っ張ってきたので結局俺はルアの背中から落とされた。
透明な水しぶきと白いあぶくを上げて俺は水中に引き戻された。
しかも釣り糸は時計回りの動きを続ける。ただし、もう俺にからみついてくることはなかった。
大きな弧をえがいて俺は引っ張られ――水面近くから大量のあぶくを吹いている場所へと引き込まれた。
(滝壺か……!)
ユアユは回転をやめ、滝とは逆方向にまっすぐ釣り糸を引いた。
すると俺の体はコマのように時計回りに回転し、そのまま滝壺に突っ込んだ。
ルアが俺を助けるために動いているのが見えるが、ユアユがその軌道に立ちはだかって行動を阻止している。
強く揉むような滝の勢いに打たれた俺は、しばしの抵抗もむなしく……とうとう息さえ続かなくなり竿を両手から離してしまった。
直後、ユアユが俺を右脇に、竿を左脇にかかえた。
浮上し、俺をルアの背中に乗せる。
「非対称の釣り勝負は、釣られる側のわたしの勝ちだな」
ついで近くの舟に寄り、そのへりに左手を置いて釣り竿をなかに入れた。
湖面から顔を出した状態でユアユが言う。
「だがやりやがるなオメー、トータハーン(ท)よー」
ルアとも目を合わせ、しわがれた声を陽気に上げる。
「シャチっぽいピーもたいしたもんだ。このわたしも水中で動きを封じられたときは焦ったぜ。釣り勝負でわたしをここまで追い詰めたのはポープラー(ป)以来だ。ほめてやろうじゃねーの」
ユアユが口に引っかけていた釣り針を外す。
その際、口内に部分的に生じていた緑がかった茶色の甲羅がボロッと崩れて水中に落ちた。
「あ、これはエサになるから湖をよごしたりしねえよ」
たちまち魚たちが水面近くに浮上し、甲羅の破片に群がる。
「とはいえトータハーン。オメー、雪の精霊も連れているだろ。そいつに頼んで湖をこおらすことも可能だったはず。それにコウモリっぽい兵隊も仲間だって聞いてるぜ。そのピーは空気の層を発生させることができるんじゃねーのか。その層で自分をくるめばもっと水中で長く戦えたと思うが」
「タハーン・ユアックとタハーン・アーガートのことか」
俺は濡れた服を絞りながら答える。
「ユアックで湖を凍結させる案は俺とルアの身動きもとりづらくなるから却下した。アーガートの空気の層にしても、それを作れば巨大な泡になって俺の居場所が明白になってしまう。だからやらなかった」
続いて俺は炎の小鳥の姿をしたタハーン・プルーンを呼び出し、衣服と体を乾かす。
「言っただろ、手は抜かないって。俺は君を釣り上げるために全力を尽くした。そして負けた。それだけだ」
「潔いじゃねーの、トータハーン。好きだぜー、そういうがんばる姿勢。同じ負けにしても一生懸命やって手にする敗北と適当にやって手にする敗北はそれぞれ違う意味を持つからな。じゃあ約束どおりわたしがオメーに勝ったから」
ユアユが首を右に回し、クマリーのほうを見る。
「ウォーウェーン(ว)にトータオ(ต)をなぞってもらおうじゃねーの」
* *
俺はルアを自分の頭のなかに戻したあと、クマリーとプラトゥのいるマヨムの木の下に移動した。
あぐらをかいたままプラトゥが俺に声をかける。
「マイペンライだよ、兵隊く~ん」
「亀さんもすごかったですが、お兄さんも健闘していましたっ!」
クマリーも俺をフォローしてくれた。
なおユアユのことを亀さんと言っているのは彼女を亀ちゃんと呼ぶプラトゥの影響だろう。
俺はプラトゥとクマリーに礼を言ってから、続いて地面に上がってきたユアユに目を向ける。
ユアユはうなずき、クマリーに近づく。
「さてクマリー。スーンとの戦いに駆け付けられなかったわたしにもすでにロージュラー(ฬ)から連絡が届いているからオメーがウォーウェーンを受け継いだことは理解している。そこでわたしはオメーの体に刻まれた文字に合わせてオメーを『ウォーウェーン(ว)』と呼んでやる」
「え……っ」
クマリーはプラトゥの供物台から離れ、ユアユの前に浮いた。
「でもウォーウェーンはスーンさんのものでは……」
「オメーが継承したんだから」
こともなげにユアユが自分の胸部の鎧をつつく。
「これからはオメーがウォーウェーン(ว)なんだよ」
さらにユアユの緑がかった茶色の鎧が砕け、破片が地に落ちた。
その破片を湖に投げたのち、ユアユがクマリーと向き合う。
鎧に隠されていたユアユの白い胴衣のみぞおちの部分に穴があいている。
そのみぞおちのくぼみに赤いตの文字が刻まれていた。
「トータオ(ต)の力は体のあらゆる場所に甲羅を作ることも可能なんだぜ。わたしの胸の鎧は心臓を守ると共にこの大事なトータオも守護しているっつーわけだ。なぞりな」
「はい……っ、それにしても亀さんもなかなかイカす場所に字を持っているんですね~」
クマリーが右人差し指をユアユのトータオ(ต)に当てる。
中心の丸から始まる書き出しはクルムのソーサーラー(ศ)にも似ているが、ソーサーラーの丸が反時計回りで書き出される一方、トータオ(ต)の丸は時計回りで書き始める。
まず中心に時計回りで小さな丸を書く。
その丸の下に左下へと向かう斜めの線を引く。
そうして左下へと来たあとは緩やかなカーブをえがきながら線を持ち上げる。
左上に近づいたら弧を続けつつ右へと寄る。
ただしすでに書いた丸の上に達したタイミングで右斜め下に折れる。
そしてすぐに右斜め上に上がり、全体の右上近くに到達したところで線を下ろして右下でとめる。
こうしてトータオ(ต)の字を書く工程が完了する。
「亀さん、トータオをありがとうございます~」
クマリーがやはり空中で指をグルグル動かして字を再現する。
「この時計回りを連続させる回転が楽しいですっ! なんというか文字って『回転』を大切にしているんだなって思います。アーティットお兄さんの名前を書くための文字も手に入れたクマリーは、絶好調の極みですよ~」
「あー、トータハーン(ท)の本名を書きたかったのか。それでトータオ(ต)の字を」
ユアユが納得したように首を縦に振った。
合わせて目を輝かせているプラトゥを横目に入れつつ、小さく笑う。
「いい趣味してんじゃねーかよ、オメーよー」
さらに唱える。
「フムグロ」
詠唱と共に緑がかった茶色の甲羅がユアユのみぞおちから生じる。
甲羅は植物のように生長してユアユの胸部全体を鎧のようにおおった。
ユアユは固くなった胸部をコツコツたたく。
「きょうの強度も問題ねーな」
「ところで亀さん……」
クマリーがユアユの鎧を見つつ聞く。
「トータオ(ต)の『トー』はアーティットお兄さんのトータハーン(ท)のように息を出す『トー』ですか。それともレックさんのトーパタック(ฏ)のように息を出さない『トー』ですか」
「わたしのトータオはトーパタックと同じで息を出さない音だ。どちらもアクソーングラーン……中子音というグループに分類されるしな」
うれしそうにユアユが言葉を継ぐ。
「にしてもオメー、そこに注目するとはやるじゃねーかよ、オイ」
「えへへ~、亀さん。重ね重ね、ありがとうですっ!」
照れたクマリーが空中で身をもだえさせた。
ユアユは空を見つめる。
日はだいぶかたむき、西の崖の上から光を放出している。
夕焼けに染まりつつある湖を確認したユアユは、俺とプラトゥにも視線を投げる。
「もう暗くなるし、オメーらこのプーカオ・グラドーンで休んでいけよ」
「助かる」
とくさ色の瞳へと、俺は視線を向け返した。
「レックも来ているけど一緒でいいか」
「そりゃあな」
迷わずユアユは答えた。
なんにせよトータオ(ต)の字を学んだクマリーが俺の名前を書くために必要な子音字はあとヨーヤック(ย)だけになった。
(次はヨーヤックの文字保有者ナーグルアと会うことになるな。現在彼女がどこにいるかは不明だが……まあクマリーの目標は俺の名前を書くだけじゃなく四十二ある文字すべてに出会うことでもあるから、ゆっくりほかの文字保有者たちとも顔を合わせながらナーグルアを捜せばいいか)
――次の朝が来るまで、俺はそのように気楽に考えていた。
次回「49.老人のトー(ฒ)【前編】」に続く!
ต←これが「トータオ」の文字。意味は「亀のトー」……弧になっている上の部分が割れているのと下の斜めの線に丸が載っているのがポイントですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
タオ(เต่า)→亀
マイペンライ(ไม่เป็นไร)→気にするな/以前紹介した「どういたしまして」以外の使い方
フムグロ(หุ้มเกราะ)→鎧をつける




