45.供物台のポー(พ)【後編】
白の交じった群青色の髪と瞳を持つ女――プラトゥは金色の帽子を外して赤い地面の中心に置いた。
帽子はひっくり返された。
こうして見ると、幅広の円筒形の台に深皿が載っかったような形状だ。どうやら本物の金でできているようで、かたちが崩れることはない。
プラトゥが帽子の前に両ひざをつき、赤い地面の外にいる俺とクマリーとレックに目をやる。
酒焼けしたような声を出してプラトゥは舌を出す。
「アタシね、本当はジャンク船でここを去ろうと思ってたんだけど……チケットの回数がちょうどゼロになってたことがバレてジャンク船ちゃんのペンギンの船員に追い出されたんだわ。オーバースローでさあ! いやあ、まいったわー」
ジョットマーイのジャンク船のチケットには定められた利用回数がある。
つまりプラトゥはその回数を超過してジャンク船を利用していたため、強制的に下船させられたらしい。
「ま、それで薄緑の原っぱに落とされたアタシは思ったわけよ。『そういえばグラーン川のそばに赤い地面の円ができてたけど、せっかくだから戻しとくか』ってね。とはいえ兵隊くんたちがなんか盛り上がってたんでしばらく遠くから見守ってたんだわ。アタシな~、そういう精霊と人間の濃厚な交流とか男同士のあっつい友情とか見るの好きだし」
ついで白い上着の右ポケットから銀色のハサミを取り出し、左の親指に近づける。
パチンと音を立て、切った爪を帽子の皿に落としていく。
クマリーが宙を移動してプラトゥの左横に浮いた。
「失礼します、プラトゥお姉さん……でいいんですよね。どうしていきなり爪を切り始めたんですかっ?」
「นี่อาหาร(ニー・アーハーン)〔これはごはんだよ〕」
親指以外の爪にもハサミを当てながらプラトゥが答える。
「アタシは『供物台』……『パーン』を帽子代わりに頭に載せていてねー」
円筒形の台と深皿を組み合わせた形状の金色の帽子――いや供物台をプラトゥが見下ろす。
「供物台というのは儀式とかで使うお盆のこと。今アタシはその供物台に宿った精霊に供物を捧げているところなんだわ。この子はアタシの爪が大好物」
金色の皿にたまった爪のカケラを見つつ、今度はハサミを左手に持って右手の爪を落としていく。
「ほかにはアタシの髪がおいしいって言う子もいるし、へそのゴマや耳あかを所望する子もいる。アタシが死んだらみんなはアタシの体を仲よく分け合っておいしくいただくことになってる。人間やほかのピーからは理解されない食生活。そんなみんなをアタシは残らず愛してる。好き嫌いは人それぞれ精霊それぞれってわけだねー」
「グルメですね!」
クマリーがごくりとつばを飲む。
プラトゥは爪を切り終わり、ハサミをポケットにしまった。
「シアサラ」
そう唱えると共に、供物台の皿の底から薄緑色のもやが発生した。
もやは螺旋状に立ちのぼったかと思うと一気に中央へと収束し、切り落とされた爪をおおった。
爪はカケラ一つ残さず薄緑色のもやのなかで溶けるように消失した。
ついでプラトゥは手を合わせ、もやに向かって礼をした。
「この地をもとに戻してください」
すると薄緑のもやが周囲の赤い地面全体に広がり、まるで水のようにその表面に吸い込まれた。
そして雑草を失って色あせた赤土を露出させていた直径百メートの地面から草が生じた。
草はぐんぐんと伸び、あっという間に赤い地面を隠した。
新たに生えた草はあたりの薄緑の原っぱと混ざり合った。
スーンの作った赤い円は消え失せ、最初からなにごともなかったかのように……ただの原っぱがそこに広がる。
「ふー、これでこの周辺の人も精霊も『この謎の円はいったいなんなんだ』って戸惑わずに済むね」
プラトゥは地面に置いていた供物台を持ち上げ、それをひっくり返して頭にかぶる。
続いてレックのえび色の目に視線を向けた。
「さてあらためて突き棒くん。アタシも指輪ちゃんと兵隊くんと一緒に亀ちゃんのところに連れていってくれるかなー」
亀ちゃんというのは、「トータオ(ต)」すなわち「亀のトー」の文字保有者ユアユのことだ。
「まあ正確には、亀ちゃんと暮らしている『虎ちゃん』に用があるんだけどね」
「それはオレチャンとしても構わない。ただ……」
レックは彼から見て左へと目をやった。
そこにはクマリーが浮いていた。クマリーがじっとプラトゥの肌を見つめていたのだ。
気づいたプラトゥがクマリーと向き合う。
「どしたの指輪ちゃん? もしかしてアタシの体においしそうな部位でもあった?」
「い……いえっ、クマリーはバナナが好きなので……!」
クマリーが慌てて否定する。
「実は、クマリーは体に文字を持つみなさんから直接文字を学んでいるんです。ついてはプラトゥお姉さんの文字もなぞらせていただけないかと」
「おー、なぞれなぞれー」
ここでプラトゥが供物台を原っぱに置いて倒れ、右半身を下にして横たわった。
さらに右脚をつま先の方向に出し、左脚をかかとのほうに引き下げた。
赤紫のスカートをややたくし上げる。
そうしてプラトゥの右の太ももの内側に刻まれた赤いพの文字があらわになった。
「アタシの友人の精霊いわく、文字が刻まれたことでその周辺の肉はさらにおいしくなるらしいよ。というわけでアタシの体のなかで一番肉の多い部位にポーパーン(พ)を刻ませてもらったわけだわ」
「す……すごいこだわりです! それではクマリー、なぞります!」
クマリーがポーパーン(พ)に近づき、右の人差し指を這わせる。
といってもそのかたちはエーンのロージュラー(ฬ)の最後の丸の部分を省くだけで作れる。
まず左上に時計回りで小さな丸を書く。
次に丸の右側から線をまっすぐ下ろす。
そのあとで右斜めに上がり、最初の丸と同じくらいの高さに来たら右斜め下に線を引っ張る。
右下に到達したところでまっすぐ線を上げる。
やはり最初の丸と同じ高さで線をとめる。このとき線を上げすぎると違う字になるので注意が必要だ。
こうしてポーパーン(พ)の文字が完成する。
「ありがとうございます、プラトゥお姉さんっ」
クマリーの指が太ももから離れ、空中で大きく上下する。
「そしてやりました~、これで十六個目ですよ~! しかもクマリーはポーパーン(พ)のこのシンプルなジグザグに『美』を感じますっ!」
「ご満悦のようだね指輪ちゃん」
プラトゥは笑みを貼りつけたまま起き上がり、供物台を再び頭に載せた。
「でも似たような字も多いから混乱しないようにがんばってねー」
「似た字……そういえば」
動かしていた指をとめ、クマリーが晴れた空を見上げる。
「プラトゥお姉さんのポーパーン(พ)はジョットお姉さんのポーサムパオ(ภ)とも音が似ていますね」
ついでニヤリとする。
「しかしクマリー、この謎がとけましたよっ! きっとクルムさんのソーサーラー(ศ)とガムランさんのソーソー(ซ)のように……ホーさんのホーノックフーク(ฮ)とスープパンさんのホーヒープ(ห)のように……それぞれ声の出し方が異なるんですねっ!」
確かにクマリーの言うとおり、高子音のソーサーラー(ศ)とホーヒープ(ห)、低子音のソーソー(ซ)とホーノックフーク(ฮ)では声の出し方を区別しなければならないが――。
プラトゥは上着のポケットに両手を入れてかぶりを振る。
「いやいや指輪ちゃん。ポーパーン(พ)もポーサムパオ(ภ)もどっちも低子音というグループに分類されるから声の出し方は同じなんだわ」
「な……なんとっ!」
驚いたクマリーは少しうなって手をたたく。
「あ、今度こそ分かりました! おそらくお兄さんのトータハーン(ท)とレックさんのトーパタック(ฏ)のように息を出すか出さないかの違いなのでは……!」
「そういうわけでもないんだわ。アタシのポーパーン(พ)とジャンク船ちゃんのポーサムパオ(ภ)はどっちも息を出して発音するからね」
いったん言葉を切り、プラトゥが息を漏らしながら「ポー」と二回口にした。
「――つまり完全に同じ音。違うのはかたちと……どんな単語に使われるかだけ」
「しょ……衝撃です! クマリー、まだまだ修業が足りませんでしたっ!」
クマリーが両手を自分のほおにあてがって体を反らす。
「でもまったく同じ音なら、どうして違う字に分かれているんでしょう……?」
「それは文字が、単なる音をあらわす記号じゃないから」
少々まじめなトーンで、プラトゥは酒焼けしたような声を続ける。
「文字には人の歴史が宿っている。その歴史を積み重ねて今の言葉ができている。音だけでは表現できない言葉があるから、同じ音を違うかたちであらわすこともあるんだわ。パーン(พาน)という言葉を始めるのはポーパーン(พ)でないといけないし、サムパオ(สำเภา)に含まれる字もポーサムパオ(ภ)じゃないとしっくりこない。どちらかがどちらかを駆逐してはダメなんだわ。それぞれの言葉が――それぞれの言葉を構成する文字一つ一つが、アタシたちの歴史の息吹そのものなんだから」
「おお~……クマリー、感動しました!」
クマリーはふにゃふにゃ声を響かせ、時計回りでプラトゥのまわりをぐるぐる飛んだ。
「これからはプラトゥ師匠と呼ばせてくださいっ!」
「師匠とな。それは……悪くない!」
群青色の瞳を細め、プラトゥがクマリーに笑みを返す。
(プラトゥに精霊の知り合いが多いなら、人間以上に生きている存在と交流することもめずらしくないだろう。今までの人の歴史について聞かされることもあるのかもしれない。それでプラトゥは文字の歴史に対しても独自の考えを持っているのか)
俺はそう納得し、あらためてプラトゥとレックに視線を向けた。
「ところでこれからユアユのところに向かうわけだが、どうやって行こうか」
「オレチャンに任せるんだ」
えび色の髪を揺らし、背中の突き棒を外してレックが前に進み出る。
なお俺との戦いで大きくなっていたひし形の穂先はすでにもとのサイズに戻っている。
「クン・アーティット、クン・クマリー、クン・プラトゥ、オレチャンにつかまってくれ」
「よしきた」
プラトゥがレックに近寄り、右の二の腕を両手でつかむ。
俺は左の二の腕をつかんだ。クマリーは後ろからレックの首に両腕を回した。
ついでレックがうなずき、突き棒のえび色の柄を両手で握る。
臼のようなかたちの先端で地面を突く。
「……プラック」
レックの詠唱と共に俺たちの足が地面から浮いた。
高度は上がり続け、薄緑の原っぱからどんどん離れる。グラーン川も、対岸の向こうに見えるディアオの赤茶色の都市も小さくなる。
(突き棒の臼の穂先が地面に当たって反動が発生したようだが、それで飛んでいるのか)
まるで砲弾が射出されるように、レックと俺とプラトゥとクマリーの体が放物線をえがいて空中を一気に飛んでいく。ただしサラサルアイに乗っているときと同じく風圧などの影響はほとんどない。
クマリーがはしゃいでいる。
「わあ~っ、太陽がいつもより大きいですよっ!」
「いやあ~、爽快だねー」
空中でプラトゥが俺と目を合わせる。
「こうして経験を重ねるたびにまた一つ心が洗練され、アタシらのウィンヤーン(魂)もさらにおいしくなるわけだ」
次回「46.虎のソー(ส)」に続く!
それにしても前回の後書きでポーパーン(พ)が英語のWに似ていると書いていますが見返すとこれと似たようなことをロージュラー(ฬ)のときも書いていました。ポーパーンとロージュラーも互いに似ているのでけっこう混乱しますね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ニー(นี่)→これ
アーハーン(อาหาร)→食事
シアサラ(เสียสละ)→捧げる
プラック(ผลัก)→突き飛ばす
ウィンヤーン(วิญญาณ)→魂




