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43.突き棒のトー(ฏ)

今回から第二章です!

 東から西へとゆるやかに流れるグラーン川の北のほとりで、(おれ)右腕(みぎうで)左腕(ひだりうで)を順に天へと()ばした。


 薄緑(うすみどり)の原っぱにひざをつき、快晴の光を受ける水面(すいめん)をのぞき()む。

 乱れた赤い(かみ)と同色の(ひとみ)が川の表面(ひょうめん)にぼんやりと映る。


 俺は右手と赤いトータハーン(ท)の文字が刻まれている左手の平を川に()っ込んで顔を(あら)ったあと、立ち()がって自身の衣服を整えた。

 黒い胴衣(どうい)とズボンを軽く引っ張る。黒靴(くろくつ)のつま先で足もとの雑草をつつく。長袖(ながそで)の赤い上着をいったん()いで旗のようにはためかせたのち、再び着る。


「よし、こんなもんか」


 ついで、さっきから俺の周囲を飛び回っている精霊(ピー)に目を向けた。

 そのピーの身長は俺の(こし)から足までの長さと同じくらいであり、少女の姿をしている。


 オレンジの混ざった茶色の髪と瞳を持つ精霊(ピー)の少女だ。髪はバナナの(ふさ)が重なったようにふんわりと()れ、少し垂れている目は快晴の光にも負けず(かがや)く。


 少女の細身の体をつつむのは銀色の(ふち)を持つ七分袖(しちぶそで)の白い上着と、腰に巻かれた膝丈(ひざたけ)の白い布。

 彼女(かのじょ)は腰の布を元気にひるがえして小さなはだしを見せながら、丸っこい顔を陽気にはずませている。


 宙を飛び回り、右の人差し指でひたすら文字を書く。

 並べられた文字はいずれも「กุมารีทอง(クマリー・トーン)」という(おと)をあらわしていた。


 きのうピーの少女は自分の名前を書けるようになった。それがうれしくて、空中で指を動かしたり川に指を()っ込んだりしていつまでも「クマリー・トーン」という名前を書き続けているようだ。


 そんなクマリーが顔をほころばせたまま、ふにゃふにゃした声を()らす。


「えへへ~、とうとう手に()れたクマリーだけの文字……最高です~」


 続いて川のそばに立つ俺の正面に回り込み、笑顔(えがお)を見せる。


「これもお兄さんのおかげですっ! お兄さんが、文字を持つみなさんとクマリーを引き合わせてくれたから……クマリーはたくさん文字を知ることができて、ついには自分の名前も書けるようになったんです。だからあらためて、ありがとうございますっ」

ไม่เป็นไร(マイペンライ)(どういたしまして)……そして、いろいろな文字を書けるようになったのは君自身が熱心に学んでいるからだよ」


 俺も軽く()みを返した。


「ところでクマリー」


 左手の平をひらき、そこに刻まれたトータハーン(ท)をさらす。


「今のところ君がなぞった子音字(しいんじ)(ぜん)四十二文字(ちゅう)十四文字。全体の三分の(いち)を俺たち文字保有者から学んだわけだ。きのうも言ったが、残る文字は全体の三分の二に相当する二十八字。そこであらためて聞くけど……クマリーは残りの文字も知りたいんだよな?」

「もちろんですっ!」


 クマリーが俺の左手を両手でつかむ。


「お兄さんのトータハーン(ท)のようにイカした文字すべてとクマリーは出会うんです。ほかの文字保有者のみなさんからも直接(ちょくせつ)学んで、もっといろんな字を書けるようになりますよ~」

「分かった。俺も付き合うよ」


 それがクマリーの望みなら、俺は見届けようと思う。


(もともとスーンによって文字の知識を(うば)われたことがクマリーの学習意欲の始まりだとしても……今の彼女が文字を求めるのなら、応援(おうえん)したい。これまでクマリーと共に行動していた俺が中途半端(ちゅうとはんぱ)なところでサヨナラするのも無責任だしな。……なによりクマリーはスーンからウォーウェーン(ว)の文字を継承(けいしょう)して()もない。だからしばらくは見守りが必要だ。トータハーン(ท)として、俺が君を傷つけさせない)


 自分のやるべきことを整理したあと俺はクマリーの茶色の瞳と目を合わせた。


「といっても、どの文字から学ぼうか」


 上目(うわめ)づかいのクマリーをじっと見る。


「……そうだ、クマリー。自分の名前の次に書きたい言葉はないか。その言葉を書くことを(ひと)つの目標にして新しい文字にふれていくのもアリだと思うけど」

「おおっ、いいですね~。だったら」


 クマリーが()()がり、俺の鼻先に自身の鼻先をふれさせた。


「お兄さんの……アーティットお兄さんの名前を書きたいです」

「俺の?」


 思わず俺は顔を後ろに下げる。

 さらにきびすを返し、薄緑の原っぱのなかにできた直径百メートほどの赤い円に入る。


 スーンとの戦いによって雑草が取り(のぞ)かれて赤い地面が露出(ろしゅつ)した場所である。

 そこでしゃがみ、右の人差し指で文字を書く。


 書いたのは二文字。オーアーン(อ)とトータハーン(ท)だ。

 俺の右隣(みぎどなり)浮遊(ふゆう)するクマリーに言う。


「俺の名前であるアーティット(อาทิตย์)を書くには子音字が(よっ)つ必要だ。で、今のところはそのうちの(ふた)つ、ジャムークの持つオーアーンと俺の持つトータハーンを君は知っているわけだな。だからあとはトータオ(ต)とヨーヤック(ย)の(ふた)つにふれれば俺の名前も書けるようになる。今それら二文字を教えてもいいが、クマリーはそれぞれの文字保有者から直接(ちょくせつ)学びたいんだよな」

「はいっ!」


 気合いの入った返事をするクマリー。

 うなずき、俺はまばたきする。


「じゃ、当面はトータオとヨーヤックの保有者に会うのを目標にして残りの文字を学んでいくのがいいかもしれない」

「そうします!」


 直後、クマリーが相好(そうごう)(くず)す。


「……それにしても、ふへへ~」

「どうしたんだ」


「いやあ~、クマリーのクマリー・トーン(กุมารีทอง)って名前にもオーアーン(อ)とトータハーン(ท)が(ふく)まれていますよね。なんかアーティットお兄さんと同じ字を持っているのがうれしくてニヤけがとまりませんっ」

「言われてみれば確かに。たまたまだとは思うが」


 俺は地面に書いたオーアーンとトータハーンを見る。


「おもしろい偶然(ぐうぜん)だな。おまけに俺はトータハーン(ท)の文字保有者だし」


 ここで俺は立ち上がり、北のほうを向いた。


「ともあれ文字を学びに……」


 かぶりを()って言葉を切る。


「いや俺が言うべきじゃないな、これは君の旅なんだ。クマリー。これからどうするか、兵隊(タハーン)である俺に命令してくれ」

「で……ではっ!」


 緊張(きんちょう)しながらクマリーがふにゃふにゃ(ごえ)を張り上げる。


「お兄さんの名前を書くことを目標にしつつ残り二十八個の文字を学びに()きますっ。お兄さん、クマリーと一緒(いっしょ)に来てくれるとうれしいですっ」

ครับผม(クラップポム)了解(りょうかい))」


 兵隊として俺は答えた。

 クマリーは安心したように「お兄さん……っ、ありがとうございます」と言った。ついで右こぶしを突き上げて俺と同じ方向に視線をやる。


「ではお兄さん、行きましょう!」


 クマリーが前に移動し、バナナの房のような髪でおおわれた頭頂部で俺のみぞおちをくすぐる。

 そのとき北に向かって伸びたクマリーの影と俺の(かげ)が重なった。


* *


 同時に、ややビブラートの()いた声が後ろから聞こえた。


「話はまとまったようだな。じゃ、オレチャンも出てくるか」

「その声、レックか」


 俺は振り向き、グラーン川を見る。

 水に()れた童顔の青年が水のなかから体を出し、岸に()がる。


 えび色の髪の輪郭(りんかく)はギザギザであり、同じくえび色の瞳はパッチリとひらいている。

 ゆったりとした長袖のチュニックはさきほどまでは無色だったが、(かれ)――レックが薄緑の原っぱに上がってからは周囲の色に合わせるようにチュニックの色が薄緑に染まっていく。


 チュニックの(たけ)は長く、ほぼレックの(また)(かく)している。その(した)からは、すねの中間くらいまで届く少し短めの白いズボンがのぞく。

 靴は緑と黒が混ざったような色合いだ。迷彩柄(めいさいがら)に近い。


 かつ、背中の右肩から左腰にかけてえび色の()の突き棒を(なな)めに負っている。

 彼の前面には左肩から右腰にかけて黒いベルトがかかっているが、そのベルトと背中のあいだに突き棒を()れているのだ。


 突き棒の二つの先端(せんたん)はそれぞれ形状が異なる。斜め上を向く先端が銀色のひし形を見せる一方(いっぽう)、斜め下を指す先端は銀色の(うす)のようなかたちをしている。


(どちらも石突(いしづ)きではなく武器としての穂先(ほさき)だと聞いたことはあるが……)


 俺はえび色の髪を持つレックに近寄る。


「君は援軍(えんぐん)()けつけてくれたあと、ジョットマーイのジャンク船で帰っていなかったのか。でも今までどこにいたんだ」

「オレチャンは、きのうからずっと川の底にいたんだ。クン・アーティット」


 敬称(けいしょう)付きで俺の名を呼び、レックが濡れた体を(ふる)わせる。


「もちろんずっと息をとめていたわけじゃないぞ。オレチャンのパタック(突き棒)で頭上の水を飛ばし続けて水上(すいじょう)とのパイプを作り、息をしていたんだ。水しぶきが発生しないように()していたから分からなかっただろう」

「それはすごいが……」


 俺は目を細め、レックのえび色の目を見つめる。


「いるなら普通(ふつう)に出てくればよかったじゃないか」

「で、できなかったんだよー」


 やや涙目(なみだめ)になるレック。


「だってクン・アーティットが精霊(ピー)の女の子とまじめな話をしているみたいだったから」

「そうか、レック……空気を読んでくれたのか、ありがとう」


 俺は礼を言った。


「ともかく全身が濡れているな。今、炎の兵隊(タハーン・プルーン)を呼ぶから――」

「ありがたい。でも問題ないさ」


 そう言ってレックは背中の突き棒を右手で取り外し、臼のような先端を斜め前から自分の右の脇腹(わきばら)に当てた。


 するとレックから左斜め後ろに向かって水しぶきがはじけるように発生した。

 そして俺があらためて彼の体と服を見ると、どこにも濡れた様子はなかった。


(かわ)いたんじゃないな。突き棒で水分を飛ばしたのか)


 ここで俺の右横に浮遊していたクマリーが進み出て、輝く瞳をレックに近づける。


「は、初めまして! クマリーはクマリーと言います!」

「おや、君はクン・アーティットと親しげにしている……そしてウォーウェーン(ว)を継承した精霊(ピー)でもあるんだよな。オレチャンは君の姿を図書館(とう)大部屋(おおべや)で見ていたけど、今は初めて会ったという体裁(ていさい)で名乗ろう」


 突き棒を背中に戻し、手を合わせてレックがクマリーに礼をする。


「【ฏ】トーパタック・レック、つかさどる字は突き棒のトー。突くことだけがオレチャンの生き甲斐(がい)であり、生きる意味さ……よろしく、クン・クマリー」

「こ、これはご丁寧(ていねい)に! レックさん、クマリーこそよろしくですっ!」


 クマリーも(あわ)てて手を合わせて礼を返す。

 そしてレックに物欲(ものほ)しげな目を向ける。


「あの~、レックさん……」

「どうぞ」


 レックはクマリーがなにか言う前にチュニックを引き上げた。

 彼の腹部が露出する。へそのすぐ上の部分に刻まれた(トーパタック)の赤い字をクマリーに見せる。


「なぞるんだ、クン・クマリー」

「あ、これはありがとうございます」


 クマリーが目を丸くする。


「でもどうしてクマリーがレックさんの文字をなぞりたがっていると分かったんです」

「オレチャンは川の底で君とクン・アーティットの会話を聞いていたんだ」


 やや気恥(きは)ずかしそうにレックが答えた。


「だから君が文字を学んでいることも理解している。ま、アーティットの名前に使うトータオやヨーヤックじゃないけどな。あと(ぬす)()きしてごめん」

「いえ、お気になさらずっ! レックさんも(やさ)しいんですね~」


 そしてクマリーの右の人差し指がレックの腹部の文字へと伸びる。


「では失礼……!」

遠慮(えんりょ)するなよっと」


 ビブラートを利かせながらレックがひょうひょうと返事をした。

 クマリーの指が腹部のトーパタック(ฏ)をなぞる。


 まずは左下に反時計回りの小さな丸を書く。

 続いて丸の右側に縦棒を作り、上へと引っ張る。


 途中(とちゅう)でわずかに右に引っ込め、左に戻す。

 それからすぐに線の流れを再び右へと持っていき、上に湾曲(わんきょく)するカーブをえがく。


 カーブのあとは線を下ろす。

 ここまではジョットマーイのポーサムパオ(ภ)の書き順と同一だ。


 トーパタック(ฏ)の場合は最初に作った丸よりも深い位置まで線を下ろす必要がある。

 充分(じゅうぶん)に下ろしたのちに線を左に移動させる流れになる。


 右下から左斜め上に少し線を持ち上げてから、今度は左斜め下へと移る。

 それから再び線を左斜め上に持ち上げ、もう一度(いちど)反時計回りの丸を作って右斜め上へと線を貫通(かんつう)させる。


 これでトーパタック(ฏ)の文字が完成する。


「できた……っ! 感謝します、レックさん!」


 クマリーが右の人差し指を宙にすべらせ、トーパタック(ฏ)の文字をくりかえし書く。

 この光景も久しぶりのような感じがする。


「ジョットお姉さんのポーサムパオ(ภ)にも似てますねっ。それに……きのうからクマリーのお(なか)には文字が()かんでいますが、さっそくクマリーと同じくお腹に文字を持つかたと会えたことがうれしいです~」

「それはよかった、クン・クマリーの役に立てたようでなにより」


 チュニックのすそを下ろし、レックが()む。

 しかしここで、クマリーが右人差し指を口もとに当てて首をかしげる。


「ただ……クマリーには一抹(いちまつ)の疑問が生じています。トーパタック(ฏ)の音はアーティットお兄さんのトータハーン(ท)の『タ・ティ・トゥ・テ・ト』と同じ音なんでしょうか」

「核心を突いているな、クン・クマリー」


 レックがやわらかくうなずく。


「オレチャンのトーパタック(ฏ)の音とクン・アーティットのトータハーン(ท)の音は確かに酷似(こくじ)する。ただし明確な(ちが)いがあるのさ。トーパタックの音を出す際は()()()()()()声を発するけれど、トータハーンの音のほうは()()()()()()()発音するんだよ」

「へえ~、そんな違いがあったとはっ! やはり文字とは(おく)が深くておもしろいですっ!」


 興奮(こうふん)したようにクマリーは言って、息を出す「トー」と息を出さない「トー」を交互(こうご)に発音しだした。


 クマリーの文字学習が終わったところで俺は今一度(いまいちど)レックに視線をやった。


「ところでレック。俺になにか用があったんじゃないのか」

()き合ってほしい」


 レックのえび色の瞳がまっすぐに俺を見返す。


「クン・スーンにとどめを()したのはクン・アーティットと聞いている。だからオレチャンは、大活躍(だいかつやく)した君と突き合いたくてたまらなくなったんだよ。突きを(きわ)めようとするオレチャンは、より強い人間と戦って腕を上げたいのさ」

「分かった、突き合おう」


 俺は返答し、直径百メートの赤い円の中央に移動してレックを手招(てまね)きした。

 レックは俺の正面に立ち、手を合わせる。


「ありがとう、クン・アーティット」

「じゃあレック。ルールはこの円から先に出たほうが負けってことにしようか」

異存(いぞん)なし」


 背中の突き棒を右手に取り、レックがえび色の()を回す。

 赤い円の上でレックのチュニックが薄緑から色あせた赤へと変わっていく。


 俺は左手のトータハーン(ท)を赤く光らせ、名乗る。


「【ท】トータハーン・アーティット、つかさどる字は兵隊のトー。ゲーンタハーン・ホーク」


 赤く(ひか)った手の平の文字から(やり)を引っ張り出す。

 対するレックも俺に合わせて口上(こうじょう)を述べる。


「本日二回目だけど、【ฏ】トーパタック・レック、つかさどる字は突き棒のトー。クン・アーティット、いざ尋常(じんじょう)に突き合おう」

「で、では……始め!」


 俺とレックの頭上に浮かんだクマリーが戦いの合図を(くち)にした。


 直後――。


 俺の腹部の真ん中に突き棒の臼のような先端が当たった。

 同時に俺はレックのいる方角とは反対の方向にはじき飛ばされた。


 赤い円の(そと)に出て、薄緑の原っぱを四回()ねたのち、あお向けになった。


「な……なにが起こったんだ」


 レックと突き合うのは初めてだが、いろいろ意味が分からなかった。


(突き棒のトー(ฏ)の文字も伊達(だて)じゃないな)


 当のレックは突き棒を持ったまま俺に()け寄り、勝利宣言をするでもなく言う。


「もう一回(いっかい)。もう一回()き合ってくれ!」

「いいけど……」


 俺は差し出されたレックの左手を左手で(にぎ)り返し、右手の槍をつかんだまま上体を起こした。

次回「44.供物台のポー(พ)【前編】」に続く!


ฏ←これが「トーパタック」の文字。意味は「突き棒のトー」あるいは「牛追い棒のトー」……ポーサムパオ(ภ)の下に小さなギザギザと丸を付ける感じで書くようですね~。


今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り

レック(เหล็ก)→鉄

パタック(ปฏัก)→突き棒

マイペンライ(ไม่เป็นไร)→どういたしまして

クラップポム(ครับผม)→はい

クン(คุณ)→○○さん


あらためて、いつも読んでいただきありがとうございます。評価やブクマ等も励みになります!

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