番外編02.廃字との接触・パチューンガップアクソーンラーラン(เผชิญกับอักษรล้าหลัง)
月明かりを反射するグラーン川の南側の岸で、若草色の髪と瞳を持つ女・カヤンが逆立ちのまま右横をにらむ。
カヤンの視線の先には木の幹ほどの太さを有する白いビンが立っている。
そのビンのかげから若い男が出てきて少々高めの声を出す。
「あらら。トープータオ(ฒ)。あなたならホーノックフーク(ฮ)殺しにも協力してくれると思ったんですがねー」
男の髪は乳白色であり、触手のようにうねっている。
瞳も乳白色に染まっているものの、男の貼りつけたような笑みに隠れて目の全体はほとんど見えない。
黒い前開きの上着からは腹筋の割れた裸の上半身がのぞく。
腰より下は黒いズボンでおおわれている。靴の色も黒だが靴下をはいてはいない。
さらに男は右手にビンをつかんでいた。
そのビンのサイズは二リットほどの液体を持ち運びできる程度のものだ。透明な素材が月光を吸い込んでキラキラ光る。
先端に近い細い部分を逆手に持ち、男がビンの穴に口をつける。
それをかたむけ、細いのどぼとけを上下させる。
三回のどぼとけを動かしたのち、左手の甲で口もとをぬぐう仕草をする。
「อร่อย(うまいなあ~)」
ビンから口を離した男はカヤンに向かってビンを差し出す。
「どうです、あなたも一杯」
「ตลกฮะ(おちょくってんのか?)」
ドスの利いた声を発し、カヤンが逆立ちのまま男のほうに背中と顔を向ける。
「最初からそのビンにはなんも入ってないだろうが」
「まあそうなんですけど」
乳白色の目を細め、男はビンを逆さにした。
ビンの口が地面を向いても、いっさいこぼれるものはない。
「でも空きビンの中身をごくごく飲むのも、なかなか気持ちいいもんですよ」
「それはイカれた趣味なことで」
カヤンの若草色の視線が男の全身を走る。
「おまえは字を体に刻んでいると言ったな。だがわたしはおまえのような文字保有者を知らんぞ」
「無理もありません。俺の文字はウォーウェーン(ว)に刻まれたものじゃありませんから」
男が口を半開きにし、薄赤い舌を出す。
その舌の表面に一個の赤黒い文字(ฃ)が浮かんでいる。
すぐに男は舌をひっこめ、右手のビンを無音で振る。
「これが俺の文字。コークアット(ฃ)です。そして俺はコークアットの文字保有者のヨム」
そう言うやいなや、乳白色の髪の男――ヨムがカヤンに駆け寄った。
右手に持った透明なビンをカヤンの左脇腹に棍棒のように打ちつける――。
「協力しないのなら、まずはあなたに死んでもらいましょう」
「……コンラーイ」
ビンが脇腹に当たる直前、カヤンのドスの利いた声が静かに響いた。
するとヨムの足が地面から離れた。
体が宙に浮き上がり、両手両足を広げた状態でヨムは地面に這いつくばった。
ただしビンはヨムの右手にしっかりと握られている。
カヤンは地面の小石を右手ではじき、ヨムの頭部に当てた。
「บ้า(バカが)」
逆立ちの体を左手だけでささえ、カヤンがヨムの乳白色の髪を刺すように見る。
「半端に殺意を向けやがって」
「これは……やられましたね。動けません」
あくまで軽い調子でヨムが笑う。
「いったいなにをやったんです。これもトープータオ(ฒ)の力ですか」
「教えるわきゃねえだろ若造」
カヤンは左肘を曲げてヨムにささやく。
「おい粗ビン野郎、二つ答えろ。おまえのコークアット(ฃ)はいつどこでどのように発現した。そしてなぜホーノックフーク(ฮ)を殺したがっている」
「そ……それは」
答えかけ、ヨムは愉快そうに息を漏らす。
「教えませーん。お・ば・あ・ちゃ・ん」
直後、カヤンの視界が透明なガラスビンのように音を立てて細かく砕けた。
いや……なにかが砕けたのは気のせいのようで、破片はカヤンの近くに散らばっていない。
代わりに目の前に這いつくばっていたヨムが姿を消している。
同時にカヤンからやや離れた場所にある幹のような白いビンがコナゴナに破裂し、そのなかから透明なビンを持ったヨムが現れた。
「トープータオ……現状あなたをどうこうすることも不可能のようですね」
「そんなことはない」
カヤンが右手を地面にふれさせる。
「未来永劫不可能だ」
「……貫禄ありますね~」
白いビンの破片が霧散するように空気中に溶けていく。
「俺も今はしりぞきましょう。また会うまで、せいぜい余生を楽しんで――」
「逃がさんわ」
相手の言葉が終わる前にカヤンは両手で地面を蹴り、ヨムに対して間合いを詰めた。
背中を向けたまま両脚をヨムの頭部に打ち下ろす。
が、カヤンの両脚は人間の頭よりも固いものに当たった。
ヨムではなくヨムを映した透明なガラスビンを砕いていたのだ。
見ると、グラーン川の岸からだいぶ離れた丘の上に乳白色の髪を持った男がぽつんと立っている。
「こっわいな~。じゃ、さよならー」
そう言って男は背を向けて走り、丘の向こうに消えた。
カヤンは急いで丘にのぼったが、ヨムと名乗った者の姿はすでにない。
「あの粗ビン野郎……」
逆立ちのままきびすを返し、再びカヤンは川に沿って東を目指し始めた。
* *
それからカヤンはグラーン川から離れ、南東に延びる街道の馬車に乗ってホーノックフーク・ラートリーの図書館塔に到着した。
時刻は正午すぎである。
最上階の館長室に入り、手を合わせてラートリーにあいさつする。
灰色の衣装に身をつつんだラートリーの向かって右には、全身に鎖を巻いたガムランが控えていた。
二人に体の前面を向けてカヤンは逆立ちを続けている。
「ラートリー、ガムラン。わたしが今回の件をグリアムに報告してきた。それとグリアムのやつ、わたしらに敵をあてがってくれるとよ」
対象を見ただけで真実を閲覧できるラートリーに口頭での報告は不要かもしれないが、文字保有者の警察を担当しているガムランにも聞かせる必要があるのでカヤンはわざわざ声に出した。
カヤンの報告を聞いたラートリーは満足そうにうなずく。
「ご苦労じゃったな、トープータオ(ฒ)。グリアムの提案も一考に値するのう」
ついで館長室の机に両手を載せ、逆立ちするカヤンに銀色の視線をそそぐ。
「それと……グリアムの屋敷から帰ってくる途中でそのほうが襲われた件も報告せい」
「おう。逃がしちまったが、あれは乳白色の髪と瞳を持つ若造で――」
ヨムと名乗った若い男のことをカヤンが話す。
聞き終わったガムランが鎖をジャラリと鳴らし、色あせた赤い瞳を細める。
「……ラートリーがいのちをねらわれるのはいつものこととして、なんだそのコークアットって文字は」
「そういやガムラン。おまえは知らないか」
カヤンは館長室の机に近づいた。
ここでラートリーが引き出しから黄土色の砂が敷かれた灰色の板を取り出し、机に置いた。
その砂にカヤンの右足の親指が突き入れられ、一個の字(ฃ)を書く。
「これがコークアット(ฃ)だ」
「……ボクのソーソー(ซ)にも似てるな。それを言うならバンダーのコーカイ(ข)とネーティのチョーチャーン(ช)ともそっくりな字だけど」
砂の上の字をガムランがのぞき込む。
「つってもコークアットなんて聞いたことねーよ」
「廃字じゃよ」
ラートリーが首を左に倒してガムランを見上げる。
「現在わしらが使用する子音字は四十二個じゃが……そのほうが産まれるよりも前は四十四個あったのよ。今は廃れた二つの文字の名を『コークアット』と『コーコン』と言う。使用頻度が低く、かつそれぞれコーカイ(ข)とコークワーイ(ค)で代用できるため廃止された歴史があるのじゃ」
「スーンも刻まなかった字か……それがなんらかの理由でヨムとかいう男に浮き出たと」
ここでガムランがハッとする。
「待て、だったらコーコンとかいう文字を体に浮かび上がらせたやつも別にいるんじゃねえのか」
「ま、ほぼそう見て間違いねえわ」
カヤンが右ひざを伸ばし、天井に足裏を向けなおす。
「コーコンの保有者とコークアットの保有者ヨムがつながっているかは分からないが……なんにせよ警戒はしといたほうがよさそうだな」
「無論じゃ。ロージュラー(ฬ)に頼んで文字保有者全員に注意を呼びかける必要もあるの」
そう言ってラートリーが砂の敷かれた板を引き出しにしまった。
「単にわしを殺したいだけであれば、いいんじゃがのう」
「ところでよ」
首を左右にかしげ、カヤンが問う。
「おまえら、空きビンの中身はアロイと思うか?」
「飲んだことがないから分からん」
ラートリーはかぶりを振った。
ガムランは少しうなって答える。
「……少なくとも、中身がないならまずくはないよな」
* *
同時刻……どこかの海。
そこに灰色の石でできた人工の小さな島があった。
島は、人の頭蓋骨の上部を模した形状だ。
太陽が照りつけ、灰色の表面に浮き出た黒い粒のような模様をあたためる。
その島の上空にガラスのようなヒビが走り、割れる。
霧散する破片のなか、触手に似た乳白色の髪が揺れる。
カヤンにヨムと名乗った男が、両ひざを曲げて島にゆっくり着地する。
すぐに立ち上がり、島の側面にあいた直径二メートほどの穴に入る。
薄暗い島内には半端な闇以外なにもなかった。
木の幹のように太い透明なビン一本を除いて。
わずかに差し込む太陽光がテカテカした表面をきらめかせる。
巨大なビンのなかでは、産まれたままの姿の若い女が浮いている。
ふんわりとした絹のような長髪は黒というよりは少し灰色に近い墨色。その髪が、女以外になにも入っていないビンの内部で絶えず躍っている。
まぶたが閉じられているため瞳の色は分からないが、尾てい骨のあたりに赤黒い文字(ฅ)が刻まれているのが確認できる。
ヨムは背面に回ってその字を見つめたあと、ビンにそっとしがみついた。
「ムート……ごめんな」
女が聞いているかは定かでないが、ともかくヨムは透明なビンのなかに向かって静かに話しかけている。
「もう少し、俺を信じて待っていてほしい」
その声は、やはり少々高かった。
だが島の内部に反響したヨムの口吻は、けっして軽いものではなかった。
ついで赤黒いコークアット(ฃ)が刻まれた舌を出し、ヨムがビンの表面を薄くなめた。
重くにぶい声音のあとに唾液がはじけ、さらにザラザラとした波の音が混ざる。
それでもビンのなかの女は目を閉じたまま、自身の文字(ฅ)を黙してヨムにさらし続けていた。
次回「43.突き棒のトー(ฏ)」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
ネーティ(เนติ)→法律
ヨム(ยม)→死
ムート(มืด)→暗い
パチューン(เผชิญ)→遭遇する
ガップ(กับ)→○○と
ラーラン(ล้าหลัง)→廃れた
リット(ลิตร)→リットル
アロイ(อร่อย)→おいしい
タロック(ตลก)→冗談
ハ(ฮะ)→○○ですか
コンラーイ(คนร้าย)→犯罪者
バー(บ้า)→バカ




