41.クマリー・トーン(กุมารีทอง)【中編】
朝の光がふりそそぐ。
近くのグラーン川の水面が穏やかにきらめく。
クマリーを両手にかかえたまま俺は赤い地面の๐のかたちを踏みつけた。
ついで宙に浮くホーノックフーク(ฮ)の銀色の瞳に視線をやる。
そのあとホーノックフークのまわりにジャムーク、ガムラン、キア、プリアさん、クルム、エーンがつどった。
なおすでに都市のほうに向かったディアオとサラサルアイの姿はない。また、スープパンは原っぱに待機しているジャンク船にひっこんでしまっている。
ジョットマーイもいったんそのジャンク船に戻っていたが、彼女は船内の文字保有者たちと話したあと左舷からじかに飛び下りて俺たちのもとに駆け寄ってきた。
ここでクルムが自身のドレスのレースをちぎって黒いあずまやを作り出し、俺たちをその屋根の下に入れた。
ホーノックフークがあずまやの中心に浮遊する。
そんな彼女を取り囲むように俺たちは立つ。クマリーをかかえた俺から時計回りに、ジャムーク、プリアさん、エーン、クルム、ガムラン、ジョットマーイ、キアの順で並んでいる。
俺は背を西に向けている。
右手にはグラーン川も見える。
(クルムのあずまやのなかにいるだけで、心も体も楽になってくるな……)
ともあれせき払いをしてホーノックフークが切り出す。
「そのほうら、大儀であった」
一人一人の顔に視線を向けつつ言う。
「みなの活躍により裏切り者のスーンは罪を暴かれたうえで死に、ウォーウェーン(ว)の文字は彼から離れてクマリー・トーンの体に移った」
ぐいっと首を動かして俺とクマリーにも眼光を向ける。
「乗っ取られていたゴーガイ・ディアオの体もスーンの魂から解放された。そうじゃな、トータハーン(ท)」
「ああ」
短く俺は返答した。
「俺が確認した」
「証言、助かる。スーンにとどめを刺したのもそのほうじゃものなあ」
ホーノックフークは反時計回りに首を動かし、「ほ~」とつぶやく。
「ひとたび光に消されたわしらが復活できたのも、取り外された『存在』がスーンに回収されずに戻ってきたため。みな、無事でなによりじゃ」
「喜ばしいことね~」
クルムが顔をほころばせて手をたたく。
が、俺とジャムークとガムランとジョットマーイは顔を伏せた。
(確かにやりとげた実感はあるが、素直に歓喜することはできない)
そもそもどんな事情があったにせよ俺たちに文字を刻んでその力を与えてくれたのはスーンである。それで人生を救われた者がいるのは事実なのだ。
(彼が本性を暴かれて今度こそ死んだことに対して複雑な思いがあるのは当然だ)
ただし無理やり文字を刻まれたプリアさんは、なにかから解放されたように胸をなで下ろしている。
キアに関しては、顔色一つ変えていない。
さらに、サバサバした声で紺色の水着姿のエーンがホーノックフークに話しかける。
「ラーちゃん。みんなの前でウチから報告しときますね」
「遠慮なく言うがよい」
首を左に倒し、ホーノックフークがほほえむ。
エーンは手に持ったタコ糸の棒とそれにつながった五本足のタコをあやつりながらまばたきする。
「ウチ、すでにタコアゲで文字保有者のみんなにあらためて知らせたから。光の円柱のなかだと外部に情報を送信できなかったし」
そういえばエーンは先ほど自身のタコからジューという音を生じさせていた。どうやらそのとき味覚言語による情報の一斉送信をおこなっていたようだ。
日焼けした肩を上下させ、エーンが続ける。
「もとのスーンさんをリアンゲさんに殺させたのはスーンさん自身で……そのスーンさんがディアオさんの体を乗っ取っていたけれど結局失敗したってことを戦いに参加していなかった文字保有者二十八人に報告したんよ。マーイちゃんのジャンク船に乗っているみんなだけじゃなくてこの場に来られなかったみんなにもからあげ送っといた」
それからジャムークのほうに目を向けてはにかむ。
「あ、だいじょぶだよ、ムークくん。前に座標を捕捉できなかったバンダーくんとガーちゃんとダーンナーさんとジウさんにも伝えることはできたから。ガーちゃんとダーンナーさんはウチらのそばで停泊しているジャンク船のなかだしさ。ただバンダーくんは遠くにいるけど、なぜかジウさんは――」
このタイミングでエーンがグラーン川の向こうに視線を投げる。
「なぜかディアオさんの都市にいるっぽいんよ。少なくとも、さっきからあげ送ったときはそうだった」
「ジウが……?」
俺もエーンと同じ方向を見やる。
川向こうでは、赤茶色の半壊した都市がその輪郭をさらしている。
(そうだ……スーンによって都市は破壊され、一般人に死傷者が出たはずだ。だがその都市にジウが……「仙人のソー(ษ)」を持つジウがいたとすれば……もしかしたら。それならジャンク船で待機していたみんなに悲愴感がないのにも納得がいく)
続いてジョットマーイが右手を挙げる。
「それについてだけど、あたし……ジャンク船に乗っているみんなから聞いてるよ。ホーノックフーク(ฮ)はすでに分かっていますよね」
「無論じゃ、ポーサムパオ(ภ)」
ホーノックフークは都市とジョットマーイを交互に見た。
「そのほうの真実もすでに閲覧しとる。わしから説明してもいいが」
「――待った」
この刹那、グラーン川のほうから中性的な声が響いた。
「小生から話す」
あずまやの南側に面する赤い地面の上に薄桃色のかすみが発生する。
そのかすみが晴れ、人の姿が現れる。
彼あるいは彼女は、ひざまで伸びた薄桃色の髪に、焦点の合っていない薄桃色の瞳を持つ。
中肉中背であり、年齢も性別もその見た目から推し量ることはできない。
衣服はほとんど身につけておらず、胸部と腰を浅黄色の布でおおっている程度。
同じく浅黄色の靴で小さな足をささえている。
そして彼あるいは彼女は、先端が二つに分かれた焦げ茶色の木の杖を右手に持ち、二つに分かれていないほうの先端を地面につけている。
ただならぬ雰囲気を漂わせているその人物の文字の名をホーノックフークが口にする。
「ソールーシー(ษ)か。ではそのほうに説明を頼もうかの」
「御意」
ソールーシー・ジウが薄桃色の唇をひらく。
「結論から述べる。ゴーガイ(ก)の治める都市は無事だ」
体を向ける俺たちに淡々と伝える。
「人にも建物にも、いっさい被害は出ていない。スーンがゴーガイの力を奪って破壊したのは小生の『かすみ』で作られた偽物の都市」
「……ホーノックフーク」
ジウの言葉が切られたところで、ジャムークが問う。
「あなたさまは都市が壊されるのを見ていなかったのですか」
「視界がぼやけてほとんど見えんかったんじゃ」
気まずそうにホーノックフークは目をそらす。
「そのときはスーンに痛めつけられとったからのう。光の円柱のなかソーサーラー(ศ)によって回復させられたあとトータハーン(ท)とスーンから都市が壊されたという真実を間接的に読み取ったわけじゃな。まあ二人の視点からすればそれで住民を殺したのは真実じゃったわけで……」
そして宙からあずまやのゆかにおりて謝る。
「ほ~、すまん。わしの力もけっこうガバガバじゃったわい」
「いえ……責めるつもりでは」
ジャムークが慌てて言葉をかぶせる。
「ただ……今回ばかりはホーノックフークの真実を閲覧する力にも穴があってよかったと思います。民間人に犠牲者がいないことはなにより喜ばしいことですから」
「そうじゃよなあ!」
ホーノックフークが再び宙に舞い上がる。ジャムークの言葉に、俺もクルムもエーンもガムランもプリアさんもジョットマーイもうなずく。キアまで無表情のまま首を小さく縦に振った。
ジウが話を再開する。
「ロージュラー(ฬ)から緊急招集を受けた際……」
あずまやのまわりを反時計回りでゆっくり歩く。
「小生はジャンク船に乗らず一足先にゴーガイの都市に向かった。モーマー(ม)とトータハーン(ท)が同行した状態にもかかわらずホーノックフークが危機に瀕しているという話だったゆえ、相手は相当の手練れと分かる。となれば近隣住民にも被害が及ぶかもしれない。そう考え、都市に到着した小生は小生のかすみで都市のダミーを作成した」
つまりスーンはグラーン川の向こうにある本物の都市を攻撃できていなかったようだ。
(ジウの作った「かすみの都市」を壊滅させただけってわけか。スーンの放った曙光は確かに都市を炎上させたように見えた……だから俺もスーンもその気になっていた。だがスーン……お互い、ジウにみごとにだまされていたらしいな)
右手の杖で地面をつつき、ジウが唱える。
「デート・オーク」
すると……グラーン川の向こうの半壊した都市の輪郭がかすみのように溶けた。
代わりに、まったく損壊していないもとの赤茶色の高床式都市の姿が――同じ場所に出現した。
その場にいるみんなが安堵の声を上げる。ジウにも感謝を伝える。
といっても俺としては現実感がない。
実は都市や住民が無事だったというのは、いいことだと思う。
俺たちの字の力を使えば都市一つのダミーを作ることは可能だろう。
そもそも文字保有者の数はスーンとリアンゲが死んだ今でも三十を優に超えている。であればソールーシー・ジウのように適確に動く者が一人はいてもおかしくない。
もちろんスーンが住民もろとも都市を容赦なく破壊しようとしたのは事実だから、彼を倒したことを後悔する気はない。
ただ……俺はホーノックフークじゃない。
自分の目で見ないと、都市や住民が無事であるという確信を持てない。
* *
そういうわけで俺たちはジウと共にグラーン川を渡ってディアオの都市のなかに入った。
高いところに設けられた木材のゆかは相変わらずだ。
建物も人も、なにごともなく……そこにある。
住居や店舗、広場、公共施設などが並び、そのあいだを穏やかな顔の人々が歩いている。
そして都市の北西端に位置するディアオの屋敷を訪ねたところ、ディアオの伴侶のジュットジョップさんが「都市に被害は出ていない」とはっきり伝えてくれた。
なおソールーシー・ジウはジュットジョップさんにだけ自分の存在を明かし、都市のダミーを作成することを知らせていた。
ディアオは先ほど妻からその事実を聞かされて、落涙して喜んだらしい。
今は部下に仕事を任せ、屋敷の奥で休んでいるようだ。
* *
こうして都市の無事も確認できたので、俺たちは解散する。
ディアオの屋敷で待っていた笑顔のサラサルアイと共に都市の外へと出る。
またグラーン川を渡ってジャンク船のそばに行く。
ホーノックフークはサラサルアイにまたがった。
「じゃ、わしは帰る。モーマー(ม)、図書館塔まで頼むのじゃ」
「おうよ、ばあちゃん! 最初から塔に帰ってくるまでよろしく頼まれてたからな!」
ついでサラサルアイはガムランとキアのほうを見た。
「ガムラン、キア。おまえらもおれに乗ってけよ」
「われは走る」
キアはツンとして答えた。
ガムランは快くホーノックフークの後ろに乗った。
それから地上の俺たちとジャンク船に乗っているみんなに視線を向けて言う。
「あらためてオマエら……来てくれてありがとな! これで全部解決した! ただ……今回の事態はみんなの警察でもあるボクの失態でもあった。だから今後は二度と……仲間を殺させたりしねえ」
「わしからも感謝と謝罪を言わせてもらおう」
サラサルアイの見えない手綱を握り、ホーノックフークが声を上げる。
「これからは、わしもみなのことをもっと頼ることにする」
続いて俺に目を向ける。
「トータハーン(ท)、とくにそのほうには感謝してもしきれんわ。みなが来るまでよくスーンを抑えてくれた。そしてよくとどめを刺してくれた」
「アーティ、おれからもありがとうッ! おまえがピーのお嬢ちゃんと一緒に帰ってきたのも喜ばしいぜ」
野性味あふれる声を出してサラサルアイが笑う。
「あと、さっき都市に向かっているときディアオもおれの背中でおまえに感謝してたぜ。ちゃんと礼を言えてなかったような気がするってな」
「そうか……」
俺は小さな声で答えた。
ついでサラサルアイがガムランとホーノックフークを背中に乗せて図書館塔に帰っていく。
その際、ガムランが俺に手を合わせた。さらにサラサルアイと並走を始めたキアがか細い声で「ホーノックフークを守ってくれて感謝する」と言った。
ジョットマーイは文字保有者たちを運ぶためにジャンク船に戻る。
「じゃね、アーティットさん、クマリーちゃん」
「……ジョットマーイ」
「ジョットお姉さん……」
俺とクマリーはなんと言えばいいか分からなかった。
しかしジョットマーイは亜麻色の髪を揺らしてほほえむ。
「スーンさんは許されないことをしたかもしれない」
その笑顔は、少しつらそうにも見えた。
「だけどスーンさんがあたしに文字を刻んでくれたからあたしはここに生きている。それだけは本当なんだよね」
「ああ、それは俺も同じだ」
俺はゆっくりうなずいた。
さらにジャムークが俺に「アーティットさま、お疲れさまでした。クマリーさまも無事でなによりです」と言ったあと、その場を歩いて去った。
続いてクルム、エーン、ジウがあいさつもそこそこにジャンク船のタラップをのぼる。
ここでプリアさんが俺に声をかける。
「あ、あの……アーティットさん……っ」
だがしばらく黙ったあと、泣きそうな調子で続ける。
「あ~、あの男にとどめを刺してくれてありがとうって言おうとしましたけれど……なんとなくワタシが言うのは間違いな気がしたので結局なにも言わないでおきます……てかワタシ、性格悪いですね……ホントすみません……っ」
プリアさんは俺の返事も聞かず水のたまったハスの葉を出し、そのなかに飛び込んで姿を消した。
ハスの葉はグラーン川に着水し、流れていった。
「どうもプリアさんはよく分からない……」
とりあえず俺はジャンク船にも乗らず、クマリーと共にグラーン川の近くにとどまることにした。
次回「42.クマリー・トーン(กุมารีทอง)【後編】」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
バンダー(บรรดา)→すべての
ダーンナー(ด้านหน้า)→正面
ジウ(จิ๋ว)→非常に小さい
デートオーク(แดดออก)→晴れる




