37.【ท】兵隊のトー・アーティット【その4】
スーンと文字保有者たちとの戦いが続くなか、ホーノックフーク(ฮ)はあえてスーンに自分の文字の権能を奪わせた。
だが真実を閲覧するその力はスーンの精神に想像以上の負荷を与えたようだ。
スーンは苦しみ、奪った力をホーノックフークに返すしかなかった。
ホーノックフークは宙を飛び、金色のあずまやの外へと戻る。
「そのほうら!」
吐息を多く含んだ声をとどろかせる。
「スーンは大幅に弱った! 畳みかけるなら今じゃ!」
「がってんよ~」
一番早く反応したのは、黒いあずまやの屋根の上に立つクルムだった。
「ラートリーちゃんも、ちょっとは素直になったじゃな~い」
俺の右隣で黒いドレスのレースをちぎり、それをフッと吹いてスーンへと飛ばす。
「サーラー・サイ」
この詠唱と共に、飛ばしたレース生地がスーンの手前で消えた。
直後、焦げ茶の残骸の上でよろめいていた彼の動きがぴたりと停止する。
クルムがあおり立てるようにスーンへと声をかける。
「驚いちゃった~? スーンちゃんを~、色を持たない透明なあずまやに閉じ込めたの~。見えないけど、まるでちっちゃな牢獄みたいな特別製のあずまやよ~。捕らえる機会をずっとねらっていたけど~、ようやく隙を見せちゃったわね~。そのあずまやは~、内からは攻撃できないのに~、外からの攻撃はあっさり通すっていう~、あんまりにもひどいポンコツ建築なの~」
「ぐ……っ、クルム。どこまでもふざけた女めが……!」
スーンは灰色を帯びた朽葉色の瞳をゆがめた。
が、まるで縄で縛られたように両腕が胴体に貼りつき、左右の脚も太ももからつま先まで互いにくっついたまま動かせない様子。
さらに、水に浮かぶ残骸の上で身動きがとれなくなったスーンめがけて――。
水面下から赤茶色の潜水艦「ルアダムナーム」が浮上する。
(そういえばプリアさんは水中に血を二滴落としていたな。一滴は潜水艦にすぐ変えていたが、もう一滴の血についてはこのタイミングで変化させたのか)
足場の残骸を突き破ったプリアさんのルアダムナームはレモンのような形状の出っ張った部分を真上に向け、スーンの腹部を押し上げる。
そうしてスーンが宙に上がったところでルアダムナームが水中にひっこむ。
すかさず大きな影ができ、直上から新しい焦げ茶のジャンク船が落ちてくる。
船首を真下にかたむけてスーンの背中に巨体をぶつける。
加えてジャンク船の甲板から黒い鎖が伸びてきた。
鎖は水中に沈みつつあるスーンの胸部に巻きついた。
もう一方の鎖の先端は使用者の手から離れ、鉛直上向きに立った。
この直立した鎖の近くに五本足のタコが寄る。湯気を立ちのぼらせた真っ赤なタコだ。
空中を漂うタコから曙光に似た赤いひらめきが放出され、まっすぐ立った鎖に落ちた。結果、鎖に縛られたスーンが焦げた。
間髪いれずジャンク船の甲板から人影が飛び出し、鎖を引っ張り上げる。
水中から引き上げられた黒焦げの体に向かって、その人影が異常に高く大きい声を上げる。
スーンの耳から全身までが、張り裂けるくらいに振動する。
彼女の声は彼女が指定する者の耳にしか届かない。よってほかのみんなは無事だ。
音波攻撃を受けて完全に無抵抗になったスーンに、俺は遠慮なく矢を構えた。「ゲーン・タハーン」と「タヌー」……それらを唱えて左手から出した矢だ。
(もう体力は充分に回復した。絶対に外さない)
ただし水槽のように水をためた金色のあずまやの外から矢を射るので、見えない壁のない高所を通過するかたちで狙撃しなければならない。
俺は矢尻を仰角六十度以上に向け、放った。
矢は放物線をえがいたのち、顔を上げたスーンの眉間に命中した。
そして最後に、だめ押しでもするかのように――。
直径二メートほどの白い「タライ」が落下してきた。
タライは小気味いい音を立てスーンに直撃した。
落としたのは、言うまでもなく【อ】オーアーン・ジャムークである。
(さすが。だてに「洗面器のオー(อ)」の文字保有者じゃないな)
ともあれホーノックフーク、クルム、プリアさん、ジョットマーイ、ガムラン、エーン、キア、俺、ジャムークによる連続攻撃が成功した。
(サラサルアイはまだ黒いあずまやの屋根の下で寝ているから不参加か。あと【ห】ホーヒープ・スープパンは様子見してたな。まあ一人はそういうポジションでいたほうがいいんだろうけど)
ここでスーンがほえる。
「おのれ貴様らぁ……ッ!」
透明なあずまやと黒い鎖で拘束されたまま宙を落ちている。
ついでこんなことを言う。
「私が文字を刻んで力をはめてやったのに――もう許さん」
息を吸い、唱える。
「ダーオ・ルーク」
途端。
彼の全身からあらゆる方向に向かって光がほとばしった。
もはや曙光の赤い色ではない。
光は瞬時に白くなった。さらに青を含んだ。
戦いのなかでボロボロになっていたスーンの……もとはディアオのくすんだ色の衣装がはじけ飛ぶ。
黒とオレンジの混ざった上着も深みのある赤いズボンも純黒のブーツも光に溶けるように破れ、消失する。
あらわになった体から焦げが抜け、正常な肌へと戻っていく。
スーン自身はまるで胎児のように丸まる。
その球体をかたどる格好が第一に連想させるものは――。
(一個の恒星……)
それも太陽とは違う。太陽よりも格段に大きい星を模しているかのようだ。
青を溶かした白い光が、周囲のすべてをぬり替える。
刺さっていた矢も、タライも、タコも鎖も潜水艦もジャンク船の残骸も――スーンを捕らえていた透明なあずまやさえ、鮮やかな光に飲み込まれた。
金色の巨大あずまやも、そこにたまっていた水も蒸発するように光のなかに溶けていく。
文字保有者たちとて例外ではない。
ジャムークもキアもガムランもエーンもジョットマーイもプリアさんも光に飲まれた。
ジャンク船のかげに隠れていたスープパンも上空に浮いていたホーノックフークも光から逃げることはできず、あっさり姿を消された。
俺のいる黒いあずまやも、まばゆいばかりの光の侵略を受ける。
屋根に立っていた俺の足場が崩れる。隣でクルムが輝きに食われる。
不思議と熱さは感じなかった。
むしろ冷たい光だった。
崩れたあずまやのガレキの上に落下した俺は、その場でひざをついた。
例外なく俺も青白い温度に侵されていく。
そのとき。
ふにゃふにゃ声が聞こえた。
「お兄さん……」
目の前で、白っぽい衣装をまとった少女が俺に背中を見せている。
少女はその小さな体を宙に浮かせ、両手両脚を広げて迫りくる光を受けとめている。
銀色に縁取られた七分袖の白い上着も腰に巻いた膝丈の白い布もむきだしの足もオレンジの混ざった茶髪も半透明である。
バナナの房が重なったような髪や腰に巻いた布が激しく躍っている。
すぐに分かった。
スーンに取り込まれたクマリーの魂が俺を守ってくれているのだ。
「ごめんなさい……本当はみなさん全員を助けたいんですが……クマリーでは、お兄さんの前に立って光を防ぐのが限界です……っ!」
精霊の少女が立ちはだかっているため、冷たい輝きが俺の周囲をさけていく。
(クマリー……)
しかし俺が声をかける前にクマリーの姿はまた消えてしまった。
ここで、青白い光が失われる。
ひざをついた俺の下には黒い残骸が散らばっている。
もともと周囲に広がっていた薄緑の原っぱは、色あせた赤い地面にすり替わっている。
金色のあずまやもジャンク船もたまっていた水も文字保有者たちも消え失せた。
ただし直径百メートほどの白い光の円柱がこの空間を取り巻いている状況は変わらない。
(さっきの攻撃にはウォーウェーン(ว)の力も込められていたようだな。だからその文字と一体化しているクマリーの魂が光と共に俺の前に来ることができたってわけか)
黒い残骸を踏み、俺は立ち上がる。
「……ありがとう」
ついで真正面を見る。
赤い地面の向こうから、肉体美の化身のような一人の男が歩いてくる。
灰色を混ぜた朽葉色の髪と瞳が輝いて見える。
ほどよく太い両腕と両脚、主張しすぎない胸板……どこを見ても人の手を超えた芸術品のようである。
一糸まとわぬ体には無数の傷が刻まれている。ただし血は出ていない。
右肩に小さな火が、左肩にわずかな雪が漂う。
男は俺のいる黒い残骸の積み重なった場所の前で停止し、腕を組んだ。両ひざを曲げてその身を後ろにかたむけた。
足の裏を接地させたまま、ひざより上の部分を頭部に至るまで水平に倒す。当然ながら臀部も背中も後頭部も地面につけない。
こうして肉体が最低限機能しているのを確かめた男は、その体勢のまま満足そうにつぶやいた。
「――好調の極みだ」
「ขี้โกหก(ウソつきめ!)」
俺は男の言葉を、あらん限りの大声で否定した。
せき込み、声を抑えて続ける。
「今の……全身から光を放つ技は相当おまえに負担をかけたはずだ。クルムのあずまやを破壊するのみならず文字保有者たちを消滅させるほどの技をローリスクあるいはハイリターンで撃てるなら最初からためらわず連発していたに決まっているからな。だがおまえは文字保有者たちから想定以上にダメージを与えられてしまったために、そのリスクある技を撃つしかなくなった……そうだろ?」
「それでも、君を沈めるほどの力は残したさ、アーティット」
男はひざをまっすぐに立てる。
臀部から頭部までを持ち上げ、腕を組んだまま直立の体勢に戻る。
「自分たちが押しているとでも思っていたか? 実際は十を超える人数でかからないと私を倒す希望さえ見いだせない――それほどの戦力差があったわけだ。今さら、君一人じゃどうにもできんよ」
「……みんなはどうなった?」
黒いガレキの上に立ち、あたりの赤い地面を見回しつつ俺は聞いた。
もったいぶらずに男は答える。
「存在しているという真実を取り外した。念には念を入れてゴーガイ(ก)の光にウォーウェーン(ว)の力を混ぜ込んだのだよ。そのおかげであのちっこいピーの魂が一時的に活性化し、君はいのちを拾ったようだがね」
腕をほどき、左右の手を軽く振った。
「ちなみに君が彼らの存在を忘れないのは、彼らに関する記憶が君自身の魂に真実として焼きついているからさ」
両の手の平をゆっくりと開閉する。
俺はほとんどまばたきせず、目の前の彼を見据える。
「なぜ明かす、スーン」
「絶望してほしくってねえ」
まったく声を荒らげず、スーンは淡々と口にした。
刹那、風も音も発生させずに俺のふところに飛び込む。
黒いガレキの上でスーンの両腕が俺の首に伸びる。
右腕からは火がのぼり、左腕のまわりでは雪が舞う。
スーンに使役されている炎の兵隊と雪の兵隊までもが俺の首を締め上げる。
次回「38.【ท】兵隊のトー・アーティット【その5】」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
サイ(ใส)→透明
ダーオルーク(ดาวฤกษ์)→恒星
キーゴーホック(ขี้โกหก)→ウソつき




