33.【ว】指輪のウォー・スーン【その5】
俺は腹這いの状態で両腕を前に出した。
うつ伏せのスーンにわしづかみにされているクマリーを彼の右手から引き離す――。
引き離――。
(――引き離せない)
クマリーのうなじをスーンの右手がガッチリつかんだままなのだ。
そしてスーンの頭部が持ち上がり、俺のほうを向いた。
「やるじゃないかね、アーティット」
二重の瞳を細め、聞き心地のいい低音でささやく。
「さすがトータハーン(ท)の文字を刻んだ男だ」
「さっきの連撃を耐えたのか……っ! 焼け、冷やせ!」
反射的に俺は炎の兵隊と雪の兵隊に攻撃の指示を出す。
しかしスーンはすぐに立ち上がった。
立つ際に発生した風圧により、プルーンの炎もユアックの雪もしりぞけられた。
スーンはクマリーをわしづかみにしたまま俺から距離をとり、軽く舌打ちした。
「やはり君は厄介だな」
言いつつ、左足を横に出して股を広げる。
「よって都市を壊滅させる前に君を先にどうにかしよう」
右足を軸にして時計回り方向に左足をぶん回す。
地面に生えていた薄緑の雑草がブーツのかかとによって刈られ、色あせた赤土が露出する。
その場でスーンは一回転した。
結果、スーンのまわりの地面が円のかたちにえぐり取られた。
「アーティット。この字(๐)がなにか分かるかい?」
楽しむように声を上げるスーン。
這いつくばった状態から上半身を起こしつつ、俺は答える。
「知っているに決まっているだろう。その丸(๐)はゼロの数字だ」
「ถูกต้อง(当たりだ)……本当に君は優秀な子だよ」
子どもでも分かる答えに対し、スーンがわざとらしく拍手する。
ただし右手がクマリーでふさがっているので、左手で自分のほおをパチパチたたく。
「ゼロの数字(๐)――これを私たちは『スーン(ศูนย์)』と発音するわけだが……この字のかたちは」
スーンが右足を上げたのち、地面にえがいた円の中心を踏みつける。
「指輪のリングのそれに似ている。まさに『指輪のウォー(ว)』に選ばれたこの私……ウォーウェーン・スーンにふさわしい字形と言えよう」
刹那――。
地面に刻まれた円が白い光を発した。
円周上に露出した赤土がまばゆく輝く。一方で円の内部は光っていない。
この光の円が草を揺らしながら大きくなり、俺の体をも通り過ぎる。
ある程度広がったあとで膨張を終えた。
ただしグラーン川は光の円の内側に入っていないようだ。
(円の直径は百メートほど)
内側の原っぱにはスーンとクマリーと俺とホーノックフーク(ฮ)とサラサルアイがいる。
続いて、水平方向への膨張を完了した光の円が今度は鉛直上向きに伸び始めた。
白い光が壁のようにせり上がり、俺たちを丸く包囲した。
光による壁の向こう側はまったく見えない。グラーン川のせせらぎも、ディアオの都市の炎上も捉えられなくなった。
プルーンで照らさなくとも、まわりが明るい。
しかも壁は高高度までせり上がった段階で内側に曲がって屋根を作り、空を隠した。
俺たちは白い光の円柱に閉じ込められたようだ。
左のつま先で地面をつつきながら、スーンが深呼吸する。
「……ふう~っ」
左肩を上下させる。
「これで君たちは絶対に逃げられない。地中にも光は及んでいるから穴を掘っても無駄だ」
「まだ、分からない……」
俺は両ひざに手を置きながら、なんとか二本足で立つ……。
無表情でスーンは自分のうなじを左手でトントンする。
「しつこいな。それじゃあ心をへし折ろう」
スーンはつぶやいたあと、わしづかみにしているクマリーを左右に激しく揺らした。
すると今まで目を閉じていたクマリーのまぶたがあいた。
彼女は俺に気づいて口を動かそうとした。
「お……いい……あ……う」
――首を強くつかまれているせいだろう。うまく発音できていない。
クマリーの少し垂れた目がゆがみ、ピクリピクリとけいれんしている。
(あの状態じゃ自分のサイズを変えることもできないだろう)
思わず俺は、ガクガクする足で地面を蹴っていた。
が、スーンに接近した途端、あっさりと足払いを受けて地面にまたもや這いつくばった。
この状態の俺を左足でスーンが蹴飛ばす。
俺は力なく跳ね、あお向けになった。
ここでスーンが自分の上着の左袖をくわえ、それを肩までまくり上げた。
「さっきから私はクマリーの飲み込んだウォーウェーン(ว)の文字を回収しようとしているんだが……どうも手間取ってしまっている。私も、ただ盾にするためだけにクマリーをわしづかみにしていたわけじゃないんだよ。実は右手に持った状態で体内のウォーウェーンを探していたんだ。しかしこれではラチがあかないらしい」
冷たい声を出しながら、左手の五本の指を小刻みに動かす。
「そこでだ」
つかんでいるクマリーの顔を少しだけ自分のほうに向け、スーンが笑みを浮かべる。
「こうする――ッ!」
言うやいなや、スーンが左手をクマリーの口に突っ込んだ。
ゆがんだままのクマリーの垂れ目が見ひらかれる。
「あ……! むぐ、うう……う……」
両の眼球から涙が散った。
大きなこぶしがクマリーの口内をさぐる。
次第に手首まで入り、ほどよく太い腕が斜め上からズブズブと突っ込まれていく。
さらにスーンはうなじをつかんだ右手を動かし、クマリーの顔を斜め下から突くように押し上げた。
ひじ……盛り上がった筋肉を持つ二の腕……しまいには肩までもがクマリーの口内に侵入する。
そのたびにクマリーが涙をこぼし、両目と全身をけいれんさせる。
「さっきの怒濤の攻撃……ガーオラーオとアスニバートの反動でほとんど動けないんだろ、アーティット。今の君の心情は察するに余りある」
肩を震わせつつ、口内に入れた左腕を動かすスーン。
「君の入れ込んでいる精霊が目の前で苦しんでいるのに、なにもできない。おまけに彼女を苦しめているのは君のいのちの恩人ときている。その恩人も君の頼れる仲間の姿をしているわけだ。――どうかねっ、なかなかっ、そそる状況だろうっ」
手さぐりするように左肩から下の腕を上下させる。
「むむう……しかし、なかなかウォーウェーン(ว)の字が見つからんな。……こっちか。いや、別のところをつねってみれば、あるいは……?」
「あ、あううう……っ!」
クマリーの静かな悲鳴がこだまする。
しばらく同じような挙動をくりかえしたあと、スーンが首をかしげた。
「おかしい。……どこにもない。こうして私がゴーガイ・ディアオへと魂をはめることに成功しているのだから体外に出したというわけでもなさそうだが。……もしや、すでにウォーウェーンの字とクマリーは一体化してしまったのかな。となると――」
この瞬間、クマリーの口内に入っていた左腕が一気に引き抜かれた。
クマリーは目をギュッと閉じ、えずくようにせき込んだ。
一方スーンは彼女をわしづかみにしている右手に力を込める。
「――このピーごと、ウォーウェーン(ว)の字を吸収するまでだ。……グルーン」
「あ、あえ……え」
クマリーは青ざめ、その身を小さく振動させた。
途端、クマリーの体が輪郭をゆがめ、氷菓子のように溶けていく。
白っぽい衣装もバナナの房が重なったみたいな茶髪も例外なく。
スーンの右手の平が、溶解するクマリーを取り込んでいく。
彼女の頭部から始まり、徐々に下の部位が彼の手の平のなかに入っていく。
クマリーを飲むたびにスーンの手首がのどぼとけよろしく盛り上がった。
じきにクマリーのつま先まで右手の平のなかに消え、彼女の姿は完全に消失した。
代わりにスーンのその手の平に赤い文字が浮かび上がった。
スーンがそれ(ว)を俺に向け、左手でなぞってみせる。
右斜め下に丸をえがき、上に向かって縦の線を引く。
そのあと反時計回り方向にカーブを作って左上よりも少し下の位置でとめる。
「ああ……やはりゴーガイ(ก)もいいが、私にはこの文字が――ウォーウェーン(ว)こそが一番いとおしい。しっくりくる……」
うっとりとして何回も同じ字をなぞる。
ついで俺に近寄り、しゃがんだ。――いや、腹這いになり、あお向けの俺と目線の高さを合わせてきた。
俺の左右のほおにスーンの両手がふれる。
「私は君を評価しているんだ。そこで……君の失望といった都合の悪い真実を抜き、新しく恩義を感じられるように別の都合のいい真実をはめてやろう。แล้วก็ผมจะจ้างน้องเป็นทหารของผม(そして私の兵隊にする)」
文字が刻まれた左右の手の平はとても熱かった。
だが……とくに俺に変化はない。
「……おや」
目を丸くし、スーンが口をすぼめる。
「まだディアオの体にウォーウェーンがなじんでいないせいで君に真実を着脱することはできないか。では、いたしかたない」
ため息をつき、スーンが両腕を伸ばす。
そこにタハーン・プルーンとユアックが飛んでいた。
「君の兵隊を取り外し、私が装着する」
プルーンとユアックはスーンの手につかまった。プルーンの炎は右手に、ユアックの雪は左手に捕らわれた。
スーンは腕をクロスさせ、二体の精霊を自分の肩に押しつけた。
するとプルーンの火とユアックの雪が俺から離れ、スーンのまわりを飛び始めた。
「よしよし。ウォーウェーン(ว)の力は健在だ」
満足げにうなずいたあと、再び俺の頭部を両手でつかむ。
内側に向かって力を加える。それを回転させ、首をねじ切ろうとする。
そんな間一髪のところで――。
スーンの身が突然えび反りになり、真後ろに吹っ飛ばされた。
無理に絞り出したような野性味あふれる声が俺の頭上で響く。
「アーティ。無事か」
サラサルアイが真正面からスーンに頭突きを食らわせたのだ。
とはいえ彼も無理して起きたらしく、俺の右横の地面に沈んでうつ伏せのまま動かなくなった。
そしてスーンは後ろ歩きを連続させて激突の衝撃を吸収しつつ、自分の足で書いた円の中心に戻った。
「しつこいねえ、サラサも」
草を刈ってできたゼロ(๐)の数字のなかに立ち、まくり上げていた左袖を引っ張ってもとに戻した。
ついで両腕を天にかかげた。
頭上で左右の手を合わせる。
手の平から巨大な赤い曙光がまばゆく漏れ出す。
さきほど俺から奪ったプルーンとユアックの力も混じっているせいか、曙光の赤が濃淡の模様を持つようになっている。
彼の黒とオレンジの混ざった上着が光を吸って輝き始める。朽葉色の髪が嵐を受けたように乱れる。
「アーティット、サラサ……ホーノックフーク(ฮ)。夜明けを待たずに滅んでもらうぞ」
スーンの両手から漏れる熱と光が円柱の空間を満たす。
「正直、君たちを殺すかどうか迷ったが……ウォーウェーンの力がまだ万全じゃないならしょうがない。なあに、君たちが死んだら今度こそ使えそうなコマに文字を刻むさ」
光につつまれた彼が左右の手をひらきながら高らかに名乗りを上げる。
「さようなら。これから世界に理想の真実をはめてやろう……ただし、私の理想と真実をね。【ว】ウォーウェーン・スーン、つかさどる字は指輪の――」
しかし口上の途中で……。
スーンとその周辺に大きな影がおおいかぶさり、頭上から巨大ななにかが落ちてきた。
「――うぉおおッ!?」
驚がくの声をスーンがはいた。
その「なにか」は圧倒的な質量を持つ焦げ茶色の物体だった。
スーンは焦げ茶色のそれに押しつぶされた。
轟音が響く。地面が揺れる。結果、スーンの手にたまっていた赤い曙光もかき消えた。
焦げ茶色の物体は船首から船尾までが五十メート以上もあるジャンク船のかたちをしていた。その船底にスーンはつぶされたのである。
ジャンク船の甲板からは三つの帆柱が延び、白い帆を張っている。
光の円柱に囲まれたこの空間に雲が渦を巻いて現れ、そのなかからジャンク船がスーンめがけて落下したのだ。
左舷の上に誰かが立っている。
格好は濃いオレンジ色のホットパンツに白いタンクトップ。
異様に大きなオレンジ色の靴をはき、そして白と黒を組み合わせた水兵帽をかぶった女性だ。
左右に垂らした亜麻色の三つ編みをなびかせながら、髪と同色の瞳を輝かす。
「――緊急事態につき、今回のチケットは要らないから」
そこに立つ女性が水兵帽のつばを右手でつまみ、はつらつとした声を出す。
「【ภ】ポーサムパオ・ジョットマーイ、つかさどる字はジャンク船のポー」
同時に船底から船全体に大きなヒビが入り、ジャンク船が崩れ始める。
そんな事態にも動じず、崩壊する左舷に立ったままジョットマーイが胸をそらす。
「もうだいじょうぶ! アーティットさん、サラサルアイさん、ホーノックフーク! 頼れる仲間を運んできたよ!」
ついで崩壊する焦げ茶色の船体から――。
七つの影が飛び出した。
次回「34.【ท】兵隊のトー・アーティット【その1】」に続く!(2月7日(土)午後7時ごろ更新)
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
トゥークトン(ถูกต้อง)→正しい
グルーン(กลืน)→吸収する
レーオゴー(แล้วก็)→そして
ポム(ผม)→私
ジャ(จะ)→○○するつもりだ
ジャーン(จ้าง)→雇う
ノーン(น้อง)→君
ペン(เป็น)→○○として/以前紹介した「○○である」とは違う用法。英語の「as」に近い使い方。
コーン(ของ)→○○の/所有を表す単語のようです。「ทหาร(タハーン)」+「ของ(コーン)」+「ผม(ポム)」で「私の兵隊」という意味になります。
スーン(๐)はタイの数字の「ゼロ」です。アラビア数字のゼロ(0)と比べて縦長ではないようですね~。
ゼロから12までを順に書くと以下のようになります。トータハーン(ท)やホーノックフーク(ฮ)のような子音字ではなく数字の記号です。
0→スーン(๐)
1→ヌン(๑)
2→ソーン(๒)
3→サーム(๓)
4→シー(๔)
5→ハー(๕)
6→ホック(๖)
7→ジェット(๗)
8→ペート(๘)
9→ガーオ(๙)
10→シップ(๑๐)
11→シップエット(๑๑)
12→シップソーン(๑๒)
あとタイの「九九」は12の段まであるらしいですね~。




