30.【ว】指輪のウォー・スーン【その2】
俺は負傷したホーノックフーク(ฮ)とサラサルアイをかかえた状態でシャチ型の海の兵隊に乗り、夜のグラーン川の向こう岸へと進む。
スーンを丸飲みにした天幕の兵隊がしっかり口を閉じて右横を泳いでいる。
ただしスーンは今は見えないがディアオの体を乗っ取っており、かつクマリ―を捕らえたままだ。
「トータハーン(ท)……」
俺の背中でホーノックフークが吐息の混じった声を発した。
川音に打ち消されないようにするためか、ややボリュームは大きめだ。
「スーンを飲んだグラジョームを炎の兵隊で中身ごと全焼させることはできんのじゃよな……」
「分かっているだろう?」
頭上を飛ぶ炎の小鳥をちらりと見て俺は答える。
「เป็นไปไม่ได้(無理だ)」
ついで横を泳ぐワニの姿のグラジョームにも視線をやる。
「グラジョームは頑丈なんだ。プルーンの炎も優にはじくよ」
「ほうほう……それじゃあ今できることはモーマー(ม)の早期回復を祈ることくらいじゃのう」
ホーノックフークは小さく身を乗り出す。
ついで俺の左肩にあごを置いたあと、両手にかかえられているサラサルアイを見下ろす。
「わしは未来の真実は読めぬゆえ……こやつがいつ起きるか分からんのよなあ」
「だとすれば俺も――」
左目近くにせまった彼女の顔を横目で見て俺はつぶやく。
「今はホーノックフーク(ฮ)と話すことくらいしかやることがない」
「言われんでも真実は教える。わしは隠し事ができんからの」
右に頭を倒し、ホーノックフークが俺を小突く。
「スーンの真実もすでにほぼ閲覧しとる。ただしゴーガイ・ディアオを乗っ取ったスーンの弱点や力の全貌は読む時間がなかった。というわけで現状わしが伝えられるのはウォーウェーン・スーン殺害の真相とクマリー・トーンの正体についてじゃ。まあ後者については、そのほうも察しておるようじゃが」
「……ああ」
左のほおをすべるホーノックフークの銀髪に逆らわず俺はうなずいた。
「まずはスーンさ――スーンがリアンゲに殺された事件について説明してほしい」
「了解じゃ」
声の調子を引き締め、ホーノックフークがささやく。
「そもそもなぜスーンは今回の事件を起こしたのか。その目的から述べねばのう。まあ、もったいぶらずに言うと『ディアオの体を乗っ取ること』がスーンの犯行目的じゃったんじゃ」
「確かにディアオは屈強な体を持つ」
ほどよく太い彼の腕や脚を俺は頭に思い浮かべた。
「……そしてスーンはかなりの高齢に達していた。だからウォーウェーン(ว)の力で自分の魂をディアオの体にはめたってわけか。スーン自身、もっと生きたかったんだろうな」
「それもあろう」
あごを上下させ、ホーノックフークが俺の肩を押す。
「が、一番はディアオの体とゴーガイ(ก)の力を欲したというのが大きい。人間としてのディアオの肉体は一種の到達点じゃしゴーガイの文字の力もすさまじい」
そのあごの先を連続で肩に押しつける。
「なにより普通の人間の肉体を乗っ取ろうとしても相手が強じんな心身を持っていなければ魂を装着しようとした時点でその者の精神と身体は破壊され、相手もろともスーンが死ぬことになる。その危険性がないゆえに、自分の魂をはめる対象としてディアオは最適であるとスーンは考えたわけじゃなあ。単純にゴーガイ・ディアオは群を抜いて強いから、それを乗っ取っておけばわしらと敵対する場合にもいろいろ都合がいいしのう」
「とはいえディアオは用心深い性格でもある……」
川の流れに揺れながら、俺はホーノックフーク(ฮ)の言葉を引き取る。
「ウォーウェーン・スーンが自分の魂をディアオに装着するためには少なくともディアオ本人とじかに会って体と文字にふれる必要があったんだろう? つまりゴーガイ(ก)の刻まれた左手をスーンがさわり、そこからディアオそのものを掌握するって流れだ」
両手でかかえたサラサルアイの腹部を這うトカゲ型の医者の兵隊を目に入れ、俺は続ける。
「だが濃厚接触を許すほどディアオは警戒心のゆるい男じゃなかった。ディアオはスーンにゴーガイ(ก)の文字を刻ませるときだけは特別に接触を許したが以降は不用意な接触をさけた。だからスーンはディアオのゴーガイに近づくための奇策を考えた――ってところか?」
「しかり。それでスーンはリアンゲに、ディアオの体がほしいと正直に打ち明けたのじゃ」
ホーノックフークが視線を上げ、月を隠す雲を見る。
「よくも悪くもリアンゲは一般的な倫理よりも目の前の他者を尊重する男ゆえ、あろうことかスーンに説得されてしもうた。そのうえでスーンは『私の文字をはいでくれ』と頼んだのよ」
「文字保有者は文字がはぎ取られたときに死ぬわけだから」
サラサルアイの額のモーマー(ม)の字を俺は見つめた。
「実質、スーンがやったのは自殺ほう助の申し出だな」
「事情が分かったところでリアンゲを許すことはできぬ。やつの軽率な行動によりディアオの体は乗っ取られ、今わしらは全滅の危機に瀕しておるのじゃからな」
息をつき、ホーノックフークが首を小さく回す。
「ともかくリアンゲはスーンのウォーウェーン(ว)を左手の皮からはぎ取った……もちろんそのほうも訪ねた湿地帯の隠れ家でな。これによってもとの肉体のスーンは死んだ。しかし、ここで鍵になるのが」
「……クマリー」
思わず俺はその名前をつぶやいていた。
ホーノックフークがうなずき、俺の肩を再度あごでたたく。
「もともとクマリーはただの少女の姿をした精霊じゃった。スーンはそんなクマリーを湿地帯で捕まえて、まるで長年の親子であるかのような虚偽の記憶をはめた。その偽りの記憶で心を掌握したあとスーンはクマリーに指示したのじゃ。『リアンゲが私からウォーウェーン(ว)を奪ったら、奪い返して離れた場所でそれを飲み込んでくれ』と」
さらに彼女は説明を続けた。
ホーノックフーク(ฮ)の読み取った真実によると、事件の流れは次のようになる。
スーンはリアンゲに殺される直前、自分の魂のすべてを「ウォーウェーン(ว)の文字が刻まれている左手の平の皮」に移していた。
この部分の皮膚をリアンゲがはぎ取ったあとで、クマリーがそれを奪い返した。
同時に皮膚内の魂がウォーウェーンの力を発動させ、「自殺をほう助した」「クマリーに文字を奪われた」といった真実をリアンゲから抜き取った。かつ、ウォーウェーンの文字を衣服のポケットにしまったという偽りの記憶を彼にはめた。
そしてリアンゲは「文字を取りたいと思ってスーンを殺した」という表面的な真実をたずさえて逃亡することになる。
まともな状態であればンゴーングー(ง)の力によってリアンゲはクマリーを簡単に撃退できていたわけだが、ウォーウェーンの力の発動のほうが早かったため抵抗するひまもなかった。
また、スーンは自分の遺体からも「リアンゲに自分を殺させた真実」や「クマリーに計画の手伝いをさせていた真実」を取り外していたようだ。よって俺が遺体を焼却せずホーノックフークに見せていたとしても事件の真相は分からなかったと言える。
続いてクマリーが指示どおりリアンゲから離れたのちにウォーウェーン(ว)を刻んだ皮膚を飲み込む。
彼女の内部でスーンの魂は「クマリーが事件に関与したこと」と「クマリーのなかにウォーウェーンの文字と自分の魂があること」という真実を取り外した。その際、クマリーからリアンゲやスーンの記憶も抜け落ちた。
結果、スーンの魂自体も自分の存在を忘れてしまったが、おかげでホーノックフーク(ฮ)の目をかいくぐることが可能になった。
ではどうやって、手放した真実をはめなおすのか。
クマリーの行動を予測し、それをトリガー……すなわち真実をあける専用の鍵として設定しておけばいい。
スーンはクマリーの「好奇心」に着目した。
好奇心によって「文字」を学ぶように誘導すれば、いずれディアオのゴーガイ(ก)にもたどり着く。
クマリーが手の平のゴーガイをなぞった瞬間、自分の魂に真実が戻るようスーンは仕組んでいたのだ。少女姿のピー相手であれば、用心深いディアオも油断する。
そこでスーンは自分を忘れる前に、クマリーから別の真実も抜いていた。
その抜き取った真実とは「クマリーに文字の知識がある」という真実だ。
もともとクマリーは文字を知っていたのだ。でなければウォーウェーン(ว)の字をリアンゲから奪うこともできない。
この真実が取り外されたため、クマリーは文字を未知のものとして一から学びなおすことになったわけだ。好奇心旺盛な彼女であれば必ず文字に興味を示し、積極的に学ぼうとするだろう。
(思い返してみればクマリーには不審な点が多かった)
スーンの死についてどこか無頓着だった。それでいてリアンゲの死を知ったときは、きちんと悲しんでいた。
(そもそもスーンの住居に入る前に、動いていない人がなかにいると言い当てていたしな)
これらの不可解は、クマリーがスーン殺害の真相をもともとは知っていたことのなごりだと思われる。クマリーにその自覚はなかったようだが。
近くにいる人に力を与えるクマリーの力にしても……よく考えればウォーウェーンの力に似通っている。
なによりクマリーは文字を知らないわりには、最初から流ちょうに話していた。
しかも文字に初めてふれるはずなのに、これまで書いた十四文字(ท・ว・อ・ภ・ฮ・ฬ・ม・ร・น・ศ・ง・ห・ซ・ก)について書き順を一回もミスしていない。
おそらく文字に関する真実を奪われてもなおクマリーの魂は、字の痕跡を完全には自分のなかから消すことができなかったのだ。
あとは文字を忘れたクマリーが好奇心のまま勝手に動き、文字保有者たちの字をなぞる。
彼女の好奇心は強かった。
大部屋にたくさんの文字保有者がいたときに、興奮で体調を崩したほどだった。
それほどの好奇があればじきにディアオのゴーガイ(ก)もなぞる。
この瞬間、それをトリガーにして真実を取り戻したスーンがディアオの体を乗っ取ったのだ。
ゴーガイにたどり着くにあたってクマリー(กุมารี)という名前もスーンにとってありがたかった。
その名前を記述するにはゴーガイ(ก)の文字が絶対に必要となる。よってクマリーは優先的にディアオと接触してくれるだろう――。
「――以上が、スーン殺害の真相とクマリーの正体じゃ。回りくどいよなあ……しかしこれ以外にスーンがディアオの体を乗っ取る方法はなかったわけじゃ」
長話を終えたホーノックフークが俺の背中で「ほう……」とひと息つく。
俺は間近にせまったグラーン川の対岸を目に入れつつ、口をひらく。
「クマリーがウォーウェーン(ว)の字そのものってわけでもなかったのか」
そろそろタハーン・ルアからおりる体勢に入る。なお向こう岸にも薄緑の原っぱが広がっているようだ。
「ただ、クマリーの前に都合よく文字保有者が現れなかった場合、ディアオにたどり着くというスーンの奇策は破綻していたんじゃないか」
「まあな。もちろん真実を抜いたリアンゲとクマリーを再接触させる手もあった。が、下手人としての記憶を持つリアンゲは積極的に文字保有者と関わらないじゃろうから、クマリーと組ませても効果が薄い……とスーンは考えた。そこで利用したのがオーアーン(อ)じゃ」
「ジャムークか。なるほど、スーンは彼に定期的に『洗顔』を頼んでいたんだっけな。もとの体が死んだあと――依頼のとおりにやってきたジャムークとクマリーを引き合わせる計画だったと」
「しかし偶然、トータハーン(ท)が先にクマリーと出会ったのじゃ。おかげでクマリー・トーンはそのほうになついてしもうた。そのほうと共に文字を求めた」
「――そうか、偶然か」
タハーン・ルアのシャチの背中で、俺は立ち上がった。
「クマリーは、なにからなにまでスーンの手の内にいたわけじゃないんだな」
ちょうど俺がそうつぶやいたとき。
シャチのようなルアの鼻先がグラーン川の対岸に当たった。
同時に――。
俺たちのそばを泳いでいたグラジョームのワニのかたちが音を立てて破裂した。
次回「31.【ว】指輪のウォー・スーン【その3】」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
ペンパイマイダーイ(เป็นไปไม่ได้)→不可能だ




