03.洗面器のオー(อ)
スーンさんを殺害した犯人はまだ近くにいるはず――。
そう踏んだ俺は斥候の兵隊を放って夜の湿地帯をさぐった。
結果、ぬかるんだ湿地のひらけた場所で見知らぬ青年と顔を合わせた。
だが彼は誤解しているようだ。
ウォーウェーン(ว)の文字を持つスーンさんを殺したのが、俺であると……。
* *
(騙そうとしている感じもしない。とすると、彼は犯人じゃないのか)
ともあれ誤解をとくのが先決だ。
「俺はスーンさんを……『ウォーウェーン(ว)』を殺していません」
本来ウォーウェーン(ว)とは「指輪のウォー」を意味する文字の名称だが……その字を体に刻んだ本人を指して直接「ウォーウェーン」と呼ぶこともある。異名のようなものだ。
トータハーン(ท)を持つ俺もほかの文字の保有者も、この例に漏れない。事実、俺も「アーティット」ではなく「トータハーン」と呼ばれたりする。
俺は、青年の黒い瞳をじっと見る。
「スーンさんをウォーウェーンと呼ぶことから察するに、あなたも文字の保有者ですね。俺もそうですよ。スーンさんに文字を返しに来たんです。でも俺がこの湿地の隠れ家に来た時点で、スーンさんは手の平の文字をはぎ取られて息絶えていました。あとは本人の残していたメモに従い、彼の遺体を燃やしたんです」
「……メモ?」
やせた男はくっつけた両手で器のかたちを作ったまま、首をかしげる。
「それは、どこに」
「スーンさんの隠れ家に置いてきました」
「――お兄さんの言ってることは本当ですよっ。クマリーもメモを見ましたもんっ!」
ふにゃふにゃ声と共に、茶髪で白い衣装をまとった少女の精霊が俺の背後のしげみから飛んでくる。
「ごめんなさい、お兄さん。隠れてろって言われたけど、さすがにお兄さんが誤解されているのを黙って見ているわけには……いきませんっ!」
「……お話になりません」
目の前の男は俺とクマリーに向かってため息を落とした。かしげていた首をもとに戻す。
その手の器から、ゴボッゴボッと透明な水があふれる……。
「わざわざホタルのようなピーを見のがし、ウォーウェーンの隠れ家から離れたここまであなたさまを誘導したわたくしの意図が分かりますかね。ウォーウェーンの住まいを……押し流したくなかったのですよ」
手からあふれた水が足もとのぬかるみに落ちる。
次第に滝のようにゴウゴウと音を立てながら、水があたりに満ちていく。
この湿地帯の水位はもともと人の足の甲が隠れる程度のものなのだが……その水位がどんどん上昇し、ついには俺のひざくらいの高さに達した。
こけ色だった湿地の水が、男の透明な水を混ぜて色を薄める。
一瞬のことだった。俺の兵隊を呼び出すひまもなかった。
しかも水には勢いがある。
ひざ裏に水流が襲いかかる。
バランスを崩した俺は後ろに倒れ、背中から水面に激突した。
「お兄さん!」
空中に浮くクマリーが俺に手を伸ばす。しかし小さな手は空をつかんだ。
俺は押し流されていく。
水流は弧をえがく。やせた男を中心に、渦の形状をなしている。
「タハーン・アーガート!」
俺は水面から口を出し、さけんだ。
すると紫のコウモリに似た精霊が頭上に出現した。
その体には二対の羽がある。
うち一対で俺の体を引っ張り上げる。もう一対をバタバタ動かし、宙にとどまる。
やせた男が手から水をこぼしつつ、俺を見上げる。
「ピーを兵隊のように使役するとは……」
少し間を置いたあと、納得したようにうなずく。
「なるほど、あなたさまは『トータハーン(ท)』でしたか」
「……そうだ」
空の兵隊の一対の羽は俺のわきの下に後ろから差し込まれている。
この状態で、月光に照らされた男を見返す。
「【ท】トータハーン・アーティット、つかさどる字は兵隊のトー。あなたが俺の話を聞かないっていうなら、いったん戦闘不能にさせてもらう」
「できるものですか。とはいえ正式なあいさつには正式なあいさつを返すのが礼儀ですね」
水のたまった手の器を持ち上げ、彼はそれを顔面にパシャリと当てた。
そうして顔を洗い、鋭い視線を向ける。
「【อ】オーアーン・ジャムーク、つかさどる字は洗面器のオー。あなたさまの顔も、きれいに洗ってあげますよ」
暗い湿地が、月の光につつまれる。
そのなかで俺とジャムークの目が合った。
ジャムークは内部の水をかき混ぜるように手の器を揺らす。
瞬間、周辺に渦巻いていた水が盛り上がった。
風のように軽やかに回転し、竜巻となる。
(まるで一個の巨大生物……!)
勢いを増す。立ちのぼる。
そのまま竜巻が大口をあけ、上空の俺を飲み込もうとする。
「突っ込め」
俺の体を翼でかかえたコウモリ型の精霊……空の兵隊に俺は命令する。
アーガートは即座に竜巻の大口に侵入した。
内部は薄いこけ色の水で激しくうねっていた。まっすぐ飛ぶことはできない。
それでもアーガートは身をひねりつつ、竜巻内部の奥を目指す。
ついに竜巻の中心に立つジャムークを視界に捉える。
当然、向こうも俺たちに気づく。
ジャムークの上品な声が、水音にかき消されることなく響く。
「グラジョック……!」
――それは「鏡」を意味する言葉。
彼の両手にたまった水の表面が変化する。
水面に俺の顔が映し出される。ジャムークは左右の親指を動かし、その表面に波紋を作る。
同時に、俺の顔面に激痛が走った。
加えて――思わず悲鳴をこぼす俺の体の真下から、水の柱が槍のように立ちのぼる。
「投げろ!」
とっさに俺は命令した。
すぐにアーガートは反応し、かかえていた俺を前方にはじき飛ばすと共に消滅した。
真下からせまっていた水の柱をよけ、俺はジャムークめがけて突っ込む。
彼は手の器を勢いよく上に動かした。この動作により、たまっていた水が一挙にこぼれる。
こぼれた水が広がってタライのような形状となり、ジャムークを守る盾と化す。
俺はつぶやく。
「ゲーン・タハーン。……ホーク」
言葉と共に、左手の平に刻まれたトータハーン(ท)の文字が赤く輝く。
この手の平に右手を近づけ、俺はそこから槍を引っ張り出した。
槍を軽く回して構え――水の盾をうがつ。
盾を貫通した槍が、ジャムークの手にせまる。
即座にジャムークはくっつけていた両手同士を分離させ、左右に逃がした。これにより、彼の手で作られていた器の形状が崩れた。
竜巻が収まり、周囲の水位が下がる。
あたりは、浅いこけ色の湿地に戻った。
俺は槍の穂先をジャムークのみぞおちの前でとめた。
「もし俺がスーンさんを殺した犯人なら、俺を疑うあなたをここで始末するだろう。ほかに見ている人もいないしな」
「ふむ……そうしないということは、アーティットさまは下手人ではないと」
そう言って彼は、左右の腕を真横に伸ばした。
「これぞわたくしの降参の合図です。もちろんあなたさまのことを完全に信じたわけではありませんが、これ以上言い争っても水掛け論になりかねないのでね」
「助かるよ、ジャムーク」
槍をひっこめ、俺は穂先を左手の平に突き刺す。
すると槍が手の平に入っていく。反対側の甲から飛び出ることもない。柄の先端つまり石突き部分までをすべて押し込めたのち、トータハーン(ท)の文字の輝きが収まる。
「信用してもらいたいから、もう一つ言っておく。俺のトータハーン(ท)の力は精霊の兵隊をあやつるだけじゃなく俺自身を兵隊の一人として運用することも可能なんだ」
「愚かな」
冷たい声を出しつつ、ジャムークが目を細める。
「それが分かったからには今度はわたくしが勝利しますよ」
「だからこそ教える意味があったんだ。俺がジャムークと敵対する気があるなら、力に関する情報も伏せていたはずだ」
現在、俺はそれなりに消耗している。ジャムークと再戦して次も同じように勝てるとは限らない。
そんな緊張感のある空間に、例のふにゃふにゃ声が戻ってくる……。
「よかったですっ」
クマリーが手をたたきながら俺の右隣を飛ぶ。
「お兄さんも、ジャムークさんも無事でっ! お二人が仲直りできて、クマリーも大喜びですよ~」
ついでクマリーはバナナの房みたいな髪を揺らして、浮いたままジャムークに近づく。
「ジャムークさんっ! あなたの文字をよく見せてくださいっ!」
「……どうぞ。ピーのお嬢さま」
真横に伸ばしていた左右の腕を曲げ、再びジャムークが両手をくっつけて器を作る。
また攻撃してくるんじゃないかと俺は少しだけ警戒したが、ただ彼は両手の一部をふれ合わせ、手の器を再びかたちづくっただけだった。今度は水も出ていない。
「トータハーン。あなたさまもご覧になりますか」
そんなジャムークの提案に従い、俺は彼のそばに寄る。
クマリーと共に、器のかたちの両手をのぞき込む。
見た途端、クマリーが拍手する。
「すごいですっ! 二つの手をそんなふうにくっつけたときに、文字が現れるんですねっ! なぞっていいですか、ジャムークさんっ!」
「お好きなように」
「やったー!」
ジャムークの同意を得たクマリーが、小さな人差し指を彼の手の平に当てた。
一つの赤い文字が、左右の手の平にまたがって刻まれている。
左の真ん中あたりで丸をえがいたあと、短い線を下ろす。
そこから右に向かって線を引いたのちに真上に向かう。
右上に到達したら左に線を動かしつつゆるやかなカーブをえがいて左上でとめる。
「ありがとうございます! やっぱり、この字もイカしてますよっ!」
「わたくしのこれは、『อ』の文字ですよ。『洗面器のオー』を意味します」
ジャムークの声は相変わらず上品だったが、一方で冷たさが少し抜け落ちていた。
「……そして失礼。少し水を出します。攻撃する気はありませんので、ご安心を」
透明の水がジャムークの手の平に湧く。
彼の両手でできた器が、またもや水でいっぱいになる。
「よく考えますと……ウォーウェーン(ว)殺害の件に関してアーティットさまもわたくしを疑っているはず」
ジャムークが俺に向かってまばたきする。
「よって、こちらも信用のために動いておきましょう。トータハーン。この水で顔を洗いなさいな」
「どうも」
ここでためらえば、またジャムークが俺を疑いだしそうだった。
俺は彼の器から水をすくった。それを自分の顔に持っていき、パシャパシャと洗った。
水は冷たかった。さわやかだった。しかも水にふれることで――。
さきほどの戦闘で生じていた痛みが、すべて残らず吹き飛んだ。
(ジャムーク……。「洗面器のオー(อ)」の字を持つだけのことはある。こういう直接的な痛みは俺の軍医である医者の兵隊でも治せないからな)
次回「04.ジャンク船のポー(ภ)【前編】」に続く!(本作は土~水曜更新なので次回は12月27日(土)午後7時ごろの更新になります)
อ←これが「オーアーン」の文字。意味は「洗面器のオー」あるいは「タライのオー」……トータハーン(ท)といいウォーウェーン(ว)といい、なんかタイ文字には小さな丸が多いですね~。
今回新しく出てきた単語の元々の意味は以下の通り
ジャムーク(จมูก)→鼻
アーガート(อากาศ)→空
ペート(แพทย์)→医者
ゲーン・タハーン(เกณฑ์ทหาร)→徴兵する
ホーク(หอก)→槍
アーン(อ่าง)→洗面器
グラジョック(กระจก)→鏡




