20.蛇のンゴー(ง)【前編】
あらためて図書館塔でホーノックフーク(ฮ)と顔を合わせ、俺は一つの真実を知った。
俺のいのちの恩人のウォーウェーン・スーンがプリアさんにロールア(ร)の文字を無理やり刻んでいたという真実である。
……「スーンさんはそんなことをする人ではない」と思っていた俺は動揺してしまった。
しかしそんな俺を精霊のクマリーが励ましてくれた。
ひとまず文字保有者がつどう当日に備え、俺はソーサーラー・クルムのあずまやで休む……。
* *
翌朝、俺は大きな重低音を聞いて目を覚ました。
防音機能を有するカーテンをも突き抜け、ボーン、ボーンと鳴り響く。
(衝撃が全身を揺らしてくる。音からしてコーラカン(ฆ)の鐘によるものか……。チュアモーンが起床時間を告げているんだな)
俺は靴をはき、黒いあずまやから白い大部屋に出た。
直後、あとずさった。真正面にクルムが立っていたからだ。
「おはよ~」
黒いドレスを着たクルムが間延びした声を出す。
「アーティットちゃんは眠れたかしら~」
「おかげさまで」
手を合わせ、俺は礼を言った。
「あずまやは返すよ、ありがとう」
「元気いっぱいになってくれたなら、おばさん、うれしいわよ~」
クルムは穏やかに笑ってあずまやの円柱の一つにふれた。
その接触にともない、四つの柱が折り紙のように折り畳まれる。
黒い切妻屋根が落ち、同色のゆかにくっつく。
ついで一体となった屋根とゆかが小さくなり、一枚の黒いレースに戻る。
この布地が浮き上がり、クルムの手もとに飛んできた。
クルムがそれを自身の黒い衣装のスカート部分に貼りつける。するとあずまやだった布地はドレスに完全に癒着し、ただの服の一部となった。
* *
クルムは、ほかのみんなに貸し与えていたあずまやも次々とレース生地に戻していった。
(さすが「あずまやのソー」のソーサーラー(ศ)。手際がいい)
大部屋に設置されていた複数のあずまやから続々と文字保有者たちが出てくる。
部屋の窓から差し込む日差しが彼らの目を薄く焼く。
ホーノックフーク(ฮ)の招集要請により、俺たち文字保有者はこの図書館塔の大部屋に集まっているわけだ。
(果たしてきょうのうちにスーンさん殺しの犯人は見つかるのか。もしそいつが来ていたらホーノックフークに確実に見抜かれる。そのときはノーヌー・キアが犯人を殺す。俺はキアの暗殺が妨害されないよう気を配ればいい)
大部屋の赤い扉が左右にあいて、次々と残りの文字保有者も姿を見せる。
(集合時刻は正午だったな……。まだ時間があるとはいえ、現時点でもなかなか出席率はいいようだ)
ざっと見たところ、ここ数日でクマリーが文字をなぞったみんなの姿もある。
薄い青の上着と白のズボンを着た清潔感のある青年。
髪と瞳が黒い彼の名は【อ】オーアーン・ジャムーク。
紺色の半袖の上着と白いフレアスカートを着た日焼けした女。
髪と瞳が赤茶色の彼女の名は【ฬ】ロージュラー・エーン。
毛羽立った栗毛の上下で全身をつつむ四つ足の男。
髪と瞳も栗毛の色をしている彼の名は【ม】モーマー・サラサルアイ。
丈の短い白いワンピースに前開きの水色の上着を羽織る少女。
髪も瞳も少し青っぽい彼女の名は【ร】ロールア・プリア。
フード付きのネズミ色のマントと黒いマフラーで顔の全体像を隠す人物。
髪と瞳が金色の彼女の名は【น】ノーヌー・キア。
なおポーサムパオ・ジョットマーイはジャンク船で文字保有者たちを運ぶ仕事が終わっていないためか、ここにはいない。
ホーノックフーク・ラートリーもまだ大部屋に姿を見せない。
……俺は、室内に集まった文字保有者のうちの一人に話しかけることにした。
「ジャムーク」
オーアーン(อ)に俺は近づき、彼の黒い切れ長の瞳と目を合わせた。
「君と顔を合わせるのもひさしぶりのような気がするな」
「トータハーン(ท)……」
やせた長身を俺に向け、ジャムークが手を合わせる。
「ロールア(ร)をここに連れてきたのは、あなたさまだと聞いています」
ジャムークは上品な声と共に頭を下げた。
「ロージュラー(ฬ)のタコの届かない人物のなかで、わたくしが唯一接触できなかったのがロールア・プリアさまでした。だからプリアさまと連絡がとれないままになることを危惧していたのですが、アーティットさまのおかげでその心配もなくなりました。よって、つつしんで感謝いたします」
「プリアさんの沈んでいた泉を見つけたのはサラサルアイだ」
俺はちらりとサラサルアイのいるほうにも目をやった。
「だから感謝は半分だけ受け取っておく」
「分かりました。あとでモーマー・サラサルアイさまにもお礼を述べておきます」
顔を上げ、ジャムークがほほえむ。
俺はそんな彼の上品な笑顔に笑い返す。
「……そういえばジャムーク。君のほうは、エーンのタコのからあげが送られなかったプリアさん以外の文字保有者たちに今回の事件や招集要請をすべて伝達し終わったのか?」
「もちろんですよ、アーティットさま」
オーアーン(อ)の赤い字が刻まれた両手の平を俺に見せ、ジャムークが淡々と語る。
「これで全員が『聞いていなかった』という理由で欠席することはできなくなりました。きょう、ここに顔を見せなかった者はすべて容疑者です」
「……直接会ったみんなを」
慎重に俺は言葉を引き継ぐ。
「そのまま強制的に連れてくることは、しなかったんだな」
「しませんよ」
ジャムークは「できない」とは答えなかった。
「できる限りは、みなさまのことを信用したいのでね」
「そうか。ともかくジャムーク。話してくれてありがとう」
「こちらこそ」
彼の声はやや冷たい。
ただし「冷徹」ではなく「冷静」という意味の冷たさだ。
俺はジャムークと別れ、三十人近くの文字保有者が集まっている大部屋を歩いた。
サラサルアイやプリアさんたちにもあいさつしてまわる……。
その途中で、クマリーが起きて俺のへそから出てきた。
「おはようございます、お兄さん……」
ふにゃふにゃ声を弱々しく発する。
俺の左隣に浮き、窓から差し込む日の光を見る。
「もう朝なんですね~」
腕を真上に伸ばしながら、クマリーが大部屋を見回す。
「――って、わああ! 人がたくさん! みなさんはお兄さんのお仲間なんですかっ!」
「まあ、そうだな。初対面の人もわりといるけど……」
ここでクマリーに聞いてみる。
「さすがに全員じゃないが……現時点でこの大部屋には文字保有者の大半が勢ぞろいしている。どうだ? 一気に文字をなぞってみるか」
「クマリーも……そうしたいのは、やまやまなんですが……っ!」
両手で頭をかかえ、クマリーが髪の房を揺らす。
「なななんか、そう思うと脳みそが破裂しちゃいそうなんです……」
「まあ人数も多いし、いきなりみんなと接したら混乱するよな。だから今は一つだけなぞってみるのがいいか」
誰と会わせるのがいいだろう。考えてみる。
当面のクマリーの目標は……四十二ある文字をすべて知ることと、自分の名前を書くこと。
(正確には母音記号とかも読み書きには必須なんだが、それはおいおい知っていけばいい)
今のところ彼女は自分の「クマリー・トーン(กุมารีทอง)」という名前を構成する六つの子音字のうちの四つを学んでいる。
すなわちモーマー(ม)、ロールア(ร)、トータハーン(ท)、オーアーン(อ)の四文字だ。
そしてクマリー・トーンという名を書く際に必要な残り二文字は、ゴーガイ(ก)とンゴーングー(ง)。
ただし現在、ゴーガイ(ก)の文字をつかさどる男――ディアオは大部屋に姿を現していない。
したがって俺は、ンゴーングー(ง)の文字を有する人物をさがす。
(といってもンゴーングーの保有者とは会ったことがないんだよな。今回初めて見た人たちのなかにいるんだろうか。いやそれとも、まだ来ていないとか?)
しかしこのあと俺はノーヌー・キアの暗殺を手伝うことになるかもしれないのに、その直前までクマリーの文字学習に協力するのはのんきな感じもする。
(だが無意味な行動でもない。もしスーンさん殺しの犯人がすでに来ていたら、俺自身が警戒されないようにしなきゃいけないからな。精霊の少女のために動いている姿を見せれば、向こうも油断するだろう。……クマリーを利用している感じもして、ちょっと気が重くもあるが)
ともあれ何度見回しても、ンゴーングー(ง)の文字を体に刻んだ人物は見つからない。
そこで俺は、このなかでもとくに情報通だと思われるロージュラー・エーンに声をかけた。
「エーン。ちょっといいか」
「おや、ティットくんにクマちゃん。ウチに用なん?」
サバサバした声を出しつつ、日焼けした顔をエーンが向ける。
現在エーンはタコ糸の棒を持っていない。
ンゴーングーはここに来ているか――そう俺が問うと、エーンは大部屋のすみのほうに目を向けた。
「あのカドに一人でいるのが、ンゴーングー(ง)のリアンゲさん」
エーンの視線の先には、緑がかった長髪とは虫類のような目を持った壮年男性がいた。
深緑と黒に染められた横縞の上着を着ている。扉に近いほうの、向かって右のカドに立っている。
「ティットくんのこと、ウチが紹介してあげよっか?」
「いや、自分であいさつする。ありがとな」
俺はエーンのそばから離れ、大部屋のカドに背を預けているその男性に近寄った。
大きなあごを持つ人だ。一方、首はとても細い。
上着は長袖であり、指の先まで隠している。またズボンは黒く、丈が長い。その裾の下から黒い靴の先っぽがかろうじて見える。
彼もこちらに気づいたが、俺は先に手を合わせてあいさつした。
「――急にお声かけして、すみません。お……わたしはトータハーン(ท)の文字を持つアーティットと申します。あなたとお会いするのは初めてなので、一度ごあいさつをと……」
「聞き及んでいる。君がトータハーン・アーティットか」
声はガラガラしているものの、どこか聞き心地がいい。
カドから背を離し、彼が半歩だけ俺に近づく。
「普段はフリーの兵隊として働き、各地で武勲を立てているらしいね」
「恥ずかしながら」
俺はほとんど感情を乗せずに答えた。
「お……わたしには、それ以外の生き方が分かりませんでしたので」
「ふうむ」
彼――リアンゲが自分のあごを右手でなでた。
「それはそうと、もっと砕けた感じで話してくれていいよ。わたしたちは文字保有者……上も下もないんだから。手始めに呼び捨てにしておくれ。ロージュラー・エーンからわたしの名前は聞いているだろう?」
「分かった、リアンゲ。そして……ぶしつけで悪いけど相談がある」
俺は、そばに浮くクマリーにちらりと目をやる。
「うちのピーがあなたの文字をなぞりたがっている。……字を学ぶ手段としてな」
ここで俺は間を置いてクマリーの反応を見たが、まだ彼女は両手で頭をかかえている。
俺はリアンゲに視線を戻し、言葉を継ぐ。
「スーンさんが殺されたときになんだが……協力してくれないか」
「お安いご用」
リアンゲの緑がかった目がゆっくりとまたたく。
「……あと、別に不謹慎とか思ったりせんよ、トータハーン(ท)。殺されたウォーウェーン(ว)にしても、死後に葬儀などは要らないと生前から言っていた。ウォーウェーンの死に関してみなが神妙にしているほうが本人への侮辱となろう」
そう言ってリアンゲがあごを上げた。
後頭部が背中にくっつきそうなくらい、うなじを折り曲げる。
大きなあごの裏側が俺とクマリーに向かってさらされる。
この三角形にも見える部分に、赤いンゴーングー(ง)の文字が浮かんでいた。
次回「21.蛇のンゴー(ง)【後編】」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
リアン(เลี้ยง)→育てる
ゲ(แกะ)→羊
チュアモーン(ชั่วโมง)→○○時間
ディアオ(เดี๋ยว)→瞬間




